「いつまで、ゾロはあのままなの?」
 キッチンで食事の支度をしながら、ナミはチョッパーに尋ねた。もうすぐ一年が過ぎてしまうのに、ゾロは相変わらずに無口で無愛想なままだ。
 小さな医師は、背後のテーブルに様々な香辛料を出して、調合の作業をしていた。サンジが残したレシピには、こんなスパイスの調合方法まで書かれていた。
 私物の整理をしていたときに見つけたレシピノートの細かさに、泣けて仕方なかったのを覚えている。乗組員の好みや体質までもが記入されたノートには、仲間たちのそれぞれの島の家庭料理までもがきちんと書き添えてあった。いつ自分が消えてもいいように前から準備していたかのような、いかにもサンジらしいやり方だ。
 まるで自分の寿命を予測した人の遺言のようで、悲しくて悲しくて。
 最近まで、サンジのレシピノートに手も触れられなかった。それでも、この船の医者であるチョッパーにとって、そのノートは貴重な資料となった。いまや食事療法の手伝いをしてくれるコックはいない。怪我人が存外に多い船の上では、薬だけではない治療方法も必要不可欠であった。今、サンジのノートは、チョッパー専用の本棚に医学書と並んで置かれてある。
 スパイスを調合するのも、チョッパーの仕事に加えられた。誰が言いつけたのでもない。自分から進んでチョッパーはキッチンへナミと共に立つようになっている。
「精神的外傷は、そんなに簡単には治らないんだ。俺も経験があるから分かるんだけど、衝撃が強すぎたら、立ち直るのに数年は必要になる。もしかしたら一生、そのままのケースも珍しいことじゃない。人の気持ちはただの外傷じゃないからね。薬だけでは治癒できないんだ」
 以前から饒舌なゾロではなかった。それでも冗談を言ってみたり、笑ったりすることはあった。それがめっきり口数が少なくなり、無反応に近い顔つきでこちらを見る。黙っていても感情表現だけは豊かであった剣士は、ちらとも表情を表さなくなっている。
 感情も出さないゾロについて、チョッパーは精神的ショックが原因だとナミに告げた。チョッパーの話を聞く限りでは、ゾロがそのような状態に陥ってもおかしくは無い。そう結論付けるしかない状態だ。剣士がうっそりと居ても、それを咎める気持ちにもなれず、サンジの死と共に彼らはゾロの現状をも受け入れていた。
 ゾロにとってのサンジの位置づけがどこにあったのか。はっきり把握ができずとも、心根が優しすぎる剣士が、消えた男に大きな信頼感を置いていたとは分かる。
 サンジが他人の犠牲を忌み嫌ったように、ゾロも誰かを失うことに過敏すぎる反応を示す。ルフィと出会うまで、親友であった幼馴染みの死の衝撃から彼は完全には立ち直れずにいた男だ。
 誓いを立てた親友との過去を引きずるゾロには、充分にサンジの失踪は――これが失踪と呼べるのであればの話だが――― 深い傷を抉り取り、裂け目を大きくしてしまったのだろう。
 鶏肉を捌きながら、蜜柑ソースのレシピが意識の端を掠めていく。本当であればオレンジソースを使うところを、サンジはわざわざナミのために蜜柑ソースのレシピを考えてくれていた。分厚い何冊ものノートに連ねられた料理人の文字は、いつでも鮮明にナミの意識に刻まれている。
 冗談とも本気ともつかない口調で、ナミに甘い言葉と優しい紳士的な態度を崩さなかったコック。恋愛感情は微塵も互いに存在しなくても、深く愛し合っていた。
 サンジがいなくなった痛みが消えたわけじゃあない。
 辛いのはゾロだけではない。
 チョッパーにしても、平気で香料の調合に没頭しているのではない。以前と変わらず海面が一番見える船首にまたがるルフの目が、以前と同じく無為に海面に注がれているのではない。ウソップがサンジの片手に防腐処理を施したのは、ゾロに脅されただけが原因ではない。ひどく現実的なロビンが、その際に知恵を貸したことは実に彼女らしくない行動である。そんな些細なことすらゾロには気付けないのだろう。
 ゾロは途方もなく苛立っている。サンジの不在に対応して前へと進もうとする自分たちにとてつもない苛立ちを感じている。キッチンで食事の準備にいそしむナミの背に、その薄い瞳が突き立てられていた。
 チョッパーは気付かないのだろうか。それとも気付いていながら上手く交されてしまったのか。ゾロがあのままなのかの質問には、彼がいつの頃からか身に纏うようになった剣呑な空気についてもあったのだが。ついぞチョッパーからそれらについては聞きだせず、ナミとしても質問の内容を詳細に言うつもりもなかった。
 大きな鳥の肉を骨ごと勢い良く断ち切る。ダンッ!と音がして簡単に肉は両断された。
 サンジの片手はもっと容易く落ちたのだろう。
 見てはいない光景が目前に浮かび上がり、ナミは慌てて意識のベクトルを別に変えた。
「目に見えない傷ってのは・・・・厄介よね」
 ぽつり漏らした声は、思っていたより随分とカラッポで寂しく響き、涙で手先が滲んでたまらなかった。



 ゾロは死者に囲まれている。
 腰には死んだ幼馴染の刀と人の命を奪い続けた鬼徹。そして懐にはサンジの片手がある。
 笑わなくなり、苛立ちばかり募らせるゾロは仲間から徐々に離れた存在になってしまった。存外に気がいいウソップが、やんわり話しかけてみても素っ気無い口調で戻されるか、酷い場合は目の前には誰もいないかのような反応をみせる。チョッパーの言葉も届かず、負傷しても一人で始末していることが多くなった。
『サンジが生きているとすれば、きっと探してくれる。俺たちが止まっていたらサンジには会えない』
 海面ばかり追っていたルフィが一年かけて出した結論は、そんな言葉だった。いつもの気楽な調子ではなく。断言するルフィがそのときに浮かべていた表情は、頑なにサンジが生きていると信じていたい。それしか縋れないのだと物語っていた。
 サンジが海へ落ちたそもそもの原因はルフィであった。嵐の夜に甲板へ飛び出したルフィは、泳げないどころか海の断片を浴びるだけで力が無くなる。忘れていたわけではない。
 それでも、突然に襲い掛かった嵐に対処しきれず、帆布の全てが下ろされるだけの時間もなかったためにメインマストには中途までしか下ろせなかった帆があった。絡まったロープや半ばまでとなった帆と格闘する仲間たちの姿に、走り出さずにはいられなかった。
 確かにルフィが伸ばした腕は乱暴にもロープを引き千切り、一気に甲板へ重い布が落下した。だが、瞬時に力を失った船長の身体は、浴びせられた波にどうすることもできなかったのだ。
 あのときのルフィの記憶は、うっすらとしか残されていない。腹にサンジの片腕が巻きつき、背中を蹴り飛ばされた。そこでぷっつり終わっている。サンジがいなくなったと知らされたのは、チョッパーと舵取りに必死になっているときだ。どうして、そんなことになったのか。即座には理解できないでいた。そのときの悔恨は生涯忘れられない。
 だからこその選択だった。前へ進んでいれば、どこに自分たちがいるのか分かれば。きっとサンジが見つけてくれる。そうとしか思いたくなかった。
 がむしゃらに夢へ突き進むルフィの行動は、その後、無鉄砲なものとなった。同時にGM号の動きも派手になり、追いかける勢力、迎え撃つ敵は四年で数倍まで膨れ上がった。年若くして海賊王となった男の名は、グランドラインだけでなく四つの海全てに広がったが、以前としてサンジは戻らない。
 あの嵐の夜に失った代え難い存在を忘れてはいないが、過去にするしかない。
 サンジは決して戻ってこない。死んでしまった。走れるだけ走り、その間もサンジを探し続けても、ぷつりと消息はあの夜から消えてしまったままだ。
 もう、どうしようもできない。そう感じた。
 どんなにしても無駄である。分かっていた事実の再確認は、ルフィに手酷い傷となって残された。新しい料理人を探そうとは決して考えないが、かつてこの船で傍若無人に振る舞った料理人は、自分たちとは別の場所へ行ってしまったのだ。
 ついにルフィですら、受け止めざるを得ない事実に直面したと言うのに。ゾロだけが頑なにその考えには染まらない。
 戻ると『約束』した。この手を預かると気に食わない男と約束したのだ。
 ここ数年でのゾロの剣捌きには恐ろしく磨きが掛かった。以前から常人には見えぬほどの太刀筋を持つ男だったが、随分と豪胆な剣であったはずだ。それが、力だけではない、不気味な殺意が篭るようになった。切っ先を向けられれば、明らかに凍りつく恐怖がそこからは漂い出るようになった。太刀筋も凶暴なものから相反し、静かに流れるような柔らかさが備わった。
 冗談であろうが、本気であろうが随分と容易く抜刀する剣士であったのに、今は闘いでばければ剣は抜かない。それは、仲間に対して不気味な波動を浴びせないための気遣いであるのか。耐え切れない殺意に窮しないためであるのか。誰にも分からなかった。
 ただひとつだけ、分かっていることがある。
 サンジの片手はいつまでも持っていてはいけない。どんな約束であろうとも過去に引きずられてしまうのであれば、その負のエネルギーに呑まれてしまうのであれば。それは正しいとはいえない。
 幼馴染との約束はそれでもまだ意味があった。くいなとゾロが同じ夢に向かっていた。くいなの夢はゾロの夢だ。世界一の剣豪になるについては、なんら過去のしがらみが障害にはなっていない。だが、サンジの手はだめだ。料理人との約束は、ゾロの感情を縛っている。
 目の前でコックが消えた衝撃は、剣士のもっとも柔らかな部分に食い込んだ。あんな消え方でもって救われた自分の命や夢は、コックが片手を落としたのと同じだけ、それ以上に凄惨でなければならない。笑ってなんぞいてはいけない。迷いを持ってもいけない。
 ゾロのまっすぐな心は、耐え切れない辛さと罪悪感に対し、同等の枷を嵌めるべきだと彼を戒めてしまった。

 このままではゾロはゾロでなくなる。
 その危惧から、ついに誰もが口にしなかった言葉を言うようになった。







 

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