その手は海へ戻してやった方がいい。
 何度もルフィに言われ、ナミに諭され。ウソップに説得されたか分からない。片手だけでは可哀想だとロビンに遠まわしに言われても、鋭い一瞥をくれるだけに終わった。
 爪の色が僅かに黒くなるにとどまった片手は、それでもサンジを強く思い起こさせた。真冬のサンジの手と丁度同じに、残された片手は酷く冷え切って、体温が戻るはずもない。分かっていても、ゾロは冷たい手を温めようと唇を寄せずにはいられなかった。
 サンジは戻らない。
 だが、諦められない。
 この手を離してしまえば、生きているかもしれないコックに会えない。それだけがゾロの思考を占めていた。

 サンジに誓った。強く、つよく誓った。
 必ず見つけ出す。生きて再会すると誓った。
 諦めてはならない。あの男が死ぬなんてバカなことが、起こるはずがない。

 体温がとても低いサンジだった。喧嘩で掴みあいの最中であっても、その手の冷たさが気になって仕方なかった。別段、サンジと肌を重ねるような間柄でもなかったし、幾度も殺してやろうと思いはしたはずだ。しかし、サンジを失って誰よりも衝撃を受けたまま、立ち直れずにいるのは他ならぬゾロだった。
 騒がしいコックに散々、苛立たせられ、怒鳴りあうこともしばしばであった。
 ルフィにさえ刀を向けたのは、数えるほどしかないのに、サンジとの争いでは度々に抜刀していた。それが出来る相手だった。ゾロが本気で切れて掛かっても、余裕でいなせるだけの力量を持っていた男だった。
 思い起こせば、サンジ相手には怒ってばかりいたのに、その埋め合わせのように仲間達と笑うことも昔より格段に多くなっていたのも確かだ。口下手だと思い込んでいたゾロに多くを語らせる切欠を作り出したのも、サンジだったように思う。
 遠慮なしに負の部分をぶつけても、実に見事に受け止めてみせる男だった。
 少しの違和感なく傍らに居た男の存在は、なくしてしまってから始めてその大きさをゾロに示してきた。何をしていても、意識はサンジが最期に言って寄越した一言だけに引き戻される。
 
 どうしてあの時に振り向かなかったのか。
 なぜ、あの男の気質を知りながら振り向こうとしなかったのか。
 上を見るに必死で、コックが何を考え付いたか見取れなかった。少しでも目線を投げていれば、馬鹿な真似をするなと一喝し『お前はそんな弱いやつなのか』と揶揄してやれば、まったく状況は変わっていただろう。そう思えばたまらなくなる。
 喧嘩ばかりの相手であったが、その顔つきから何を考えているのか察するだけの意思の疎通はあった。戦いの場所でコンタクトを取らずしても、相手が行動を起こすために自分が成すことを即座に判断できる互いだった。もう少しだけ時間があれば、互いの良き理解者になれただろう。ルフィとは違った強い信頼関係を結べた筈であったのに。
 決して失ってはならない男は、二度と再び現れないのか。考えるだけで感情が凍結する。一瞬の判断の狂いがゾロからサンジという、くいなと同等の親友を奪い去った。
 後悔は喪失感に穿たれた穴を広げてばかりいる。くいなのときとは違う。あの時、くいなは事故で死んだ。夢半ばにしていなくなった親友は、ゾロの命のために死んだのではない。彼女の無念のためにゾロは強くなり、同じ夢に到達しようと決意できた。
 サンジは違う。彼は命と引き換えにしてゾロたちを守った。ゾロとは違う夢であり、どんなに懸命になってもゾロには成し得ない夢を命と一緒に放り出した。
 何もサンジにはしてやれない。この手を返すだけしかしてやれない。 
 残された片手の温度は、サンジが寒くて堪らないと唇を紫色にさせていた姿を彷彿とさせた。あのとき、ゾロは軟弱なヤツだと笑い飛ばし、それが切欠で船に破損を与えるほどの大喧嘩にまで発展した。ナミの鉄槌を頭上に喰らい、ずきずきする頭を抱えてサンジと二人で、甲板の穴を塞いだのはどれほど昔だったと言うのか。
 釘をよこす指が氷のように冷たく、自分との体温の差に驚いたものだ。
 肌身離さずに持ち歩いている片手も、あの時のように芯まで凍り付いている。料理をするにも、こんなにかじかむ手ではフライパンも握れない。

手は料理人の命じゃなかったのか。
 
 少しは体温を分けてやれば、サンジの手は温まるだろうか。
 懐かしい味のする食事を皿に乗せて、酒ばかり飲んでいるのではないと。怒ったようにしながらでも、ゾロが好む肴を持ってきて隣で酒を酌み交わせるだろうか。

 理性ではそんな馬鹿げたことなど起こらないと知っている。だが、この手を持っていれば、サンジは絶対に再び姿を見せるはずだ。どうして、ルフィたちは料理人が居なくなったとばかり考えるのか。サンジが大切にしていたキッチンに勝手に出入りし、彼の許しもなくバラティエから持ち込んだナイフを使い、鍋を火にかけているのか。
 自分勝手な彼らに対して、苛立ちと怒りばかりが増していく。
 サンジが来るまでは、食事など空腹を満たすだけのものだった。ゾロの大雑把な認識を変えた男が作った料理以外、欲しいと思えない。
 仲間たちから外れた場所にいるゾロを心配されているのは分かっていても、勝手な行動をする彼らに対しての怒りが、静かにゆっくりと体内に蓄積されていくのを止められはしなかった。

 あれほどに、守っていかなければならないと思えた船も、今となってもどこか投げやりな気持ちしか持てない。ここに居ないだけであるのに、それを死んでしまったと認識する彼らが許せない。もう、ここには居られない。その考えは日を追うごとに強くなる。
 ルフィは海賊王になっている。約束はそこまでだ。
 この男が海賊の頂点を極め、ワンピースを見つけるまで。それがあの時に交わした二人の約束だ。
 まだ、ゾロの野望は達成されていなくても、そんなものは一人でも成し遂げられる。鷹の目を見つけ出し、サンジを見つけることだけしかゾロの頭にはなかった。

 ウソップとロビンが施した処理は完璧で、サンジの手はあれから綺麗に状態を保ったままだ。 
 誰もいないキッチンで。
 人のいない甲板で。
 ゾロはその手を取り出しては、サンジが寒がって居ないかを思う。
 ここにある手を捜して、彷徨っているのではないか。
 料理人なのに片手がなくて不自由しているだろう彼に、預かっている手を返してやらないといけない。
 そうすれば、現実感がない感覚も払拭できる。両手を取り戻した男が、タバコを口にして炸裂する蹴り足を受け止めて、遠慮なくやりあえれば。こんな苛立ちも収まる。こんな簡単なことがどうして誰にも分からないのか。
 サンジが戻ればそれで上手くいく。
 それなのに、話しかけてくる連中は最初は当たり障りのないところから始まって、最終的には誰もがサンジの手を海へ戻せとばかり言ってくる。
「いつまでも、そんなモンを持っているから引き摺られるんだ。サンジは今のお前を望んで死んだんじゃないぞ」
 真正面からルフィはきっぱりと言い切った。
 なにもかもを大きく受け止めて生きる男に、初めて憎悪を抱いた。
「死んだと・・・誰が決めた・・・」
 声を明瞭に発したのは、随分と過去のように思う。錆付いた声帯から洩れた音は、とても人のものとは俄かには信じられぬほど、低く剣呑な唸りであった。血走った眼がルフィを縫い付け、微動だにしない。
「生きていられるはずがないってことはお前だって知っているはずだ。何年、海に居る?何度、あんな嵐に巻き込まれた?何も知らずに海に出たあの頃とは違う。俺たちは海の怖さも惨さも知っているだろ。あの大時化で、片手を斬った身体で生きていられるなんて思っていないだろ。ゾロ、諦めろ。サンジは戻っちゃこない。認めて、前を見ろ!」
「うるせぇ!!てめぇに何が分かる!あの時、てめぇがノコノコと甲板になんぞ出てこなかったら、コックは海へ落ちたりしなかった。俺が、ウソップがどんなに必死でいたのかなんてどうやって分かるってんだ!お前はあそこには居なかった!!アイツが何を言ったのかなんて、これっぽちも知らねぇで、死んだなんて容易く言うな!!」
「言うしかねえじゃねえか!!」
 その言葉は決して浴びせてはならぬ類のものだった。
 誰もが懸命に触れぬようにしていた事実を、しかしゾロは激情に駆られて永遠に癒えることはない傷をルフィにつけた。蒼白になったルフィなんぞ目にしたのは始めてだ。たった一言の叫びに篭められている悔しさ、悲しさは、日頃が大らかな男であるからこそ深く深くその身に刻み込まれていた。
 大きな黒い瞳が泣き出しそうだった。
 死の淵を覗き込んでいても澄んだ美しさを湛える船長の双眸は、手酷い悲嘆に薄く濁っている。言っても仕方ない。あの時、ルフィが甲板に飛び出していなければ、船は木っ端微塵になっていた。たとえ嵐から抜け出していても、帆を失った船は航行不能となって、魔の海グランドラインを幽霊船のように漂うしかなかった。
 ルフィもサンジも、命と引き換えに船と仲間を守ろうとしていた。
 言ってはならない言葉だったのだ。
 ただならぬ気配を察して、他の乗員たちが甲板に集まり二人の周囲を取り囲んで、成り行きを見守っている。ぐるりを視線で薙いだ面々は、よく見知っている人たちであるのに、なんだかとても遠いところに居るように見えた。自分だけが異世界に迷い込んでしまったような。強い違和感を感じる。

 どうして、こんなところに居るんだろう。
 大剣豪になる夢だってまだ果たされていないのに、なにをしているのだろう。

 一度捕らえた感覚は、ゾロを離そうとはしなかった。
 この場所に足を着けていることにすら吐き気を覚える。
 こんな連中なんぞ、どうでも良かった。
 反射的に握り締めたそこには、サンジの手だけが確かな存在感としてゾロの手のひらにしっくりと馴染んで在った。もう一方の片手を乗せている和道一文字だけが、ゾロを夢へと駆り立てている。
 
 必要不可欠だった人たちは、もういない。
 
 そんなことなど誰に言われなくても知っている。
 理解をしたくないだけだ。
 受け入れたくないだけだ。

 逃げだと思われても構わない。ゾロが生きていくには、彼らはどうしても居なければならない人たちだったのだ。

「船を・・・降りる」
 静かすぎるゾロの声が、しん・・・と空気に溶けて消えた。






 

act4.end


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