その「どらいやあ」について軽く仕組みを説明されてから、申し訳ないが乾くまで少し辛抱してくれと言われ、俺は轟音の中でその始終を見守っていた。

確かに、あのとき俺は残っていた執務を終えるために自室へ向かっていた。普段通りで、何か違和感を感じるようなことも思い当たらない。なぜ執務が残っていたかというのは、まあ、昨晩<遊び>に行っていたせいだが――それは別として、長らく廊下を歩いていて間もなく部屋というころ、突然視界がこの風景に変わった。それもごく自然に。
驚いて足を止め、見まわすと部屋の一室らしいということだけはわかった。見たこともないものにあふれた空間だったが。
板張りの床の上にはビロードのような布が敷かれ、天井から炎とは違う白い灯りが降り注ぐ。部屋の隅に梯子がかけられており、備蓄に使う櫓(やぐら)のようだ。材質不明な大きな箱(冷蔵庫というものだと判明)と小さな箱が数個、読みづらい字で書かれた書物、南蛮物らしき衣など、枚挙に暇がない。そんな中、書き物に使いそうな高さの机と、二つ置かれた座布団だけはかろうじて馴染みがあった。
一通り眺めて、はたと出口がわからないことに気づいた。壁のどこかに隠し扉があるのか、それとも梯子の先に出口があるのか――と考えていたところに、あの女が入ってきて現在にいたるわけである。

ことのほか丁寧に俺の置かれた状況の説明をした、このあの子という女。まだ得体のしれないところはある。しかしこの不可思議な環境下、俺は毒気を抜かれたように言われたことを信じる気になってしまった。何故と問われたら返答に窮すし、強いて言うなら勘だった。正直、不覚を取っていると思う。いつもなら得意の人を食ったような態度で、相手の腹の内を探るはずなのに。

「はあ、すいません、終わりました」
「ああ。ずいぶんうるさいんだな、その道具は」

すごい勢いで風を起こすからですかね、という返答を貰ったがさしてその道具が気になったわけでもなかったのでそのままにした。
ほどなくして、どうぞという声とともに冷蔵庫の中から茶色い汁を彼女が持って来た透明の器(硝子だろうか?細かい文様のような装飾がある)に注がれた。彼女も飲んでいたので毒ではなさそうだが、見たこともないものに手をつける気分にはなれなかった。

「あの、喉乾かないですか?嫌いですか?」
「……嫌いも何も、得体が知れないんでね」

ぼんやりと考えていた姿を所在なさげに捉えてか、あの子が尋ねた。
俺が告げると彼女はハッとした顔をして、それが烏龍茶という明の飲み物だと説明した。もちろん毒はないです、と付け加えて。

「んじゃ、毒見くらいはしておきますかね」
「だから毒なんか盛ってないですって」

親切にも俺に馴染みのある緑色をした茶を淹れなおしてくれると言う。
疑念はあったが興味のほうが勝ってしまい、茶ができるまでに少しだけその烏龍茶に口をつけてみた。独特の風味だが、不味くはなかった。いちおう、遅効性の毒でないことを祈っておいたが。

今のところ彼女の言動には大方疑いを向ける気にはならないものの、彼女が味方になりうるかはまた別の話だ。……それも、敵とは思えない態度ばかりで揺らいでしまいそうだが。
例えば。夜に見知らぬ女の部屋に突然現われた男を無碍に扱わないというのは度胸があると言えばいいのか。風呂上りらしいが、自分から見れば下着にしか見えないあの薄着といい、無防備な姿を晒しすぎではないか(しかも目の前に男がいるのに、だ)。それともここでは普通のことなのだろうか。泰平の世というものはこうも警戒心がないのか――と、俺は思いを馳せていた。

出来上がった茶を盆から置くと、彼女は机を挟んで俺と向い合せに座った。

「どうしよう、何からお話したらよいやら――、あの、もちろん元居た処に帰りたいですよね」
「そりゃ当然だな」

改めてあの子という者の顔を見た。取り立てて美人ではないが、肌は傷一つなく透き通っていた。農民か町娘のようなもの、と言ってたがそんな場で働いていそうな肌をしていない。着飾れば良家の出身にも見えそうだ。ただ、俺がよく見る女と最も違うのはその髪の短さだった。肩に触れるくらいの丈はあの出雲の阿国よりやや長いが、毛先に行くにつれ梳いたように細くなっている。

「先ほど申しましたとおり、あなたは時も空間も超えてここへ来ている。私の世界ではこのような現象をタイムスリップと言いますが、超常現象なので物語の中でこそあれ、本来普通に過ごしていて起こるものではないです。原因や時空を移動する方法も不明ですし、もちろん私にそんな知識も力もないです」
「そうか……」
「ですが、本日のところは夜も更けておりますし、ひとまず休んで朝に――」
「夜更けだ?今、何時なんだ」
「ええと、間もなく日付が変わりますよ。左近様の居た時代の表現だと、子(ね)の刻あたりでしょうか」
「子の刻?!さっきまで酉の刻だったぞ、俺んところでは!」

「……いや。そうだな、まともに考えていちゃまわんねえ」

思い直して口をつぐんだ。起こるわけがないことが起こっているのだ。時間の狂いなどこの中では些細なこと、だと思いたい。

「時間の進み方も違うのかもしれないです。どっちがどうだかはわからないですが」

浦島太郎の竜宮城のような感じです、とあの子は付け加えた。今いる世界が竜宮城と同じような時の流れ方だとしたら、仮に戻れたとしても一大事だ。それより、そもそも浦島太郎はこの時代にも伝わってるのか?やけに詳しい気がするのは気のせいだろうか。

「帰れるかわからない、帰れたとしても<向こう>の時の流れのいつに帰れるかもわからねえ、か」

ため息が出た。これが白昼夢だったらどんなに良いことか。今でも白昼夢の可能性のほうが時を超える可能性を上回る気さえする。

「そ、そんな悲観的にならないでください……ほら、もしかしたら何かの拍子ですぐパッと戻れちゃうかもしれませんよ?時間だっておんなじところに戻れるかもしれないじゃないですか!」
「ま、そうだけどな」
「とにかく、私もできる限りお手伝いしますので、左近様も気を落とさずに一緒に方法を探りましょう」
「へえ、あんたも手伝ってくれるのか」
「まあ……。これも何かの縁ではないですか?それにこのまま私が放りだしたら、左近様、碌な目に合わないですよ?」

この世界の常識も知らない、お金もない、もちろん寝床もない俺が、この部屋から出てもできることなど皆無に近いだろうとは考え及ぶ。
それでも野宿くらいはできると返したら、その前に銃刀法違反で逮捕されると言われてしまった。刀剣所持で捕えられることを忘れていた。

「なので、とりあえずお休みください。幸い明日は私の仕事も休みなので、いろいろとご案内できるかと」
「悪いな。世話をかける」

にこりと柔らかく笑うあの子。この笑顔はなかなか、悪くない。
俺としたら、この好意に甘えない手はない。ありがたく使わせてもらおう。

「ただ――」

今まですらすらとよく喋っていたあの子が口ごもった。視線が泳ぐ。

「なんだ?」



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