灯滝の居ない食堂というのは、珍しいものだった。
 『体調が優れないので部屋で寝ます。朝の分まで作ってあります。 灯滝』――カウンターに置かれた短い手紙を見た者は、配膳者のいない厨房に立ち入り料理を取って行った。
 苗木もそれに漏れず、自分で取り分けた料理を食堂に運び、夕食を取っていた。
 そこにやって来たのは葉隠だった。コソコソと厨房を窺って、灯滝の姿が見えないとわかるとカウンターに近づいて彼女の手紙を読む。事情を把握した彼は、厨房で食事を用意し苗木の向かいの席に掛けた。

「苗木っち……」
 食事に手を付ける前に切り出した葉隠は、灯滝に例の話をしたことを苗木に伝えた。
「うわぁ……本当に言ったんだ……」
 苗木は引き気味に彼を見た。自分と話した時とは違って、目の前の男は見るからに沈んでいた。


 事の発端は、数日前だった。
 筋者に追われ金が必要だが、自分の財産や貯金からは出したくないこと。友達となった苗木の内臓か国籍でその金を作りたいこと。――葉隠の部屋で彼の悩みと願いを聞いた苗木は、常軌を逸した内容に戸惑い断った。
――「もういい! 苗木っちには頼まん!! 灯滝っちに頼むべ!!」
――「えっ、それは止めたほうがいいよ! 絶対に!」
――「俺の頼みを聞いてくれんなら用はないべ! 出てってくれ!!」
 自ら部屋に呼んだにも拘らず、葉隠は苗木の助言も聞かずに追い出したのだった。


 灯滝に頼んだ結果はどうだったかと苗木が尋ねると、葉隠は首を横に振って大きく溜め息をついた。
「それは当然だよ……。っていうか、葉隠クンはどこまで灯滝さんに都合のいい期待をしてるの?」
「けどよ……灯滝っちは親切だろ? 料理絡みのことしか主張もしねーし、たまに俺に相談してきたりもするし、俺の頼みを素直に聞いてくれると思ってだな……」
「相談と頼み事じゃ、重さが違うよ……」
 自分の時と違い、無料占いの特典もなく灯滝を部屋に呼び込んだと聞いた苗木は、理解に苦しむ灯滝の姿が目に浮かぶようだった。

「でも、内臓は“料理できなくなるかも”っつーから諦めたんだべ。国籍も“海外修行に行けなくなる”らしいから、それも……。仕方ねーから戸籍はどうだっつったら、灯滝っちにまだ未成年だって言われてな……。そりゃそうか、じゃあ連帯保証人にもなれんなってことで、未成年でも連帯保証人になれる偽装結婚を持ちかけたんだべ。」
「…………」
 苗木は絶句した。
 自分の時以上にセンシティブな用件を自らぶち込みにいった葉隠を、ただ何とも言えない目で見ていた。


「貯金崩さねーなら協力できん、って灯滝っちからスッパリ言われたら……なんだか悲しくなってな……。重ーい空気になって喋れんでいたら、灯滝っちは帰っちまったべ」
 葉隠は、また一つ溜め息をついてから食事に手を付け始めた。……灯滝の料理は、こんな時でも美味だった。
「……ボクさ、あの時止めたよね。絶対やめた方がいい、って」
「あの時は断られた怒りで我を忘れていたべ……。でも、苗木っちは……内臓も国籍も売ってくれんけど、変わんねーな」
「葉隠クンだって、ボクが断って怒ってたのに、今まで通りに話してくれてるよね」
「喉元過ぎれば何とやら、ってな。それに、いつかその気になるかもしんねーし……」

 葉隠がまだ自分の内臓や国籍を諦めていないことに、苗木は苦笑した。
 だが苗木はここで、自分と同じような理由で断った灯滝を、葉隠が怒りも追い出しもしなかったことに気付く。
「葉隠クン、灯滝さんには今まで通りに話しに行かないの?」
「……具合良くないヤツんところには行く気になれんべ」
「それは違うよ。……葉隠クンは話をすり替えた」
 歯切れを悪くした葉隠に、苗木は切り込んだ。


「ボクが断った時に葉隠クンが怒ったのは、ボクが良い返事をしなかったからだよね」
「もちろん、そうだべ」
「じゃあ……どうして灯滝さんには怒らないで、悲しくなったの?」
「それは、……わからん」
「なら、その後に気まずくなったのは?」
「……さあな……」

 聞かれるごとに葉隠は言い淀んだ。苗木は、答えへの足掛かりを置き土産にして離れることにした。
「……ボクがあの時、灯滝さんに話すのはやめた方がいいって言ったのは、灯滝さんが葉隠クンに対する信頼を失うと思ったからだよ。」
 苗木は今日も早食いをしていた。……霧切との不仲は未だ解消されていない。
 自室に持ち帰るかを迷い、結局食堂を選んでいそいそと食事をしていたところに葉隠が来たため、思いの外に滞在時間が長引いたことを気に掛けていた。

 切り上げようとする苗木に、葉隠は彼の事情を思い出す。
「苗木っち……霧切っちとまだ仲直りしてないんか?」
「……口も利いてくれないよ」
「オメーのほうが深刻だべ」
「ボクのほうは原因がわかっているんだ。でも、今は霧切さんを説得できる話ができないから……ただ謝っても聞いてくれない」

「早く仲直りするべ、苗木っち」
「それ、そっくり葉隠クンにも返すよ。さっきの理由がわかったら、灯滝さんに話しに行くべきだと思う」
 今度は葉隠が返しに窮する。立ち上がった苗木は、その姿を横目に見つつ席を離れた。
 一人になった葉隠は、黙々と食べた。
 灯滝の完璧な仕事といえる料理が、彼の虚しさを際立たせていた。

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