後に“人類史上最大最悪の絶望的事件”と呼ばれる未曾有の惨劇が頻発する中で、假谷(かりや)玉紀(たまき)が決して堅牢とはいえない賃貸アパートの一室から離れられないのには、いくつかの理由があった。
 一つは、そこで数年暮らしており愛着を持っていたこと。
 もう一つは、とあるコレクションを置いて出ることに途轍もない未練があったこと。
 そして……連絡手段が機能しなくなった世の中で、自分を探そうとするような人物に心当たりがあること――。



 ドアを叩く乱暴な音に、假谷は弾かれたように玄関を見た。
 インターホンは随分前から反応しないので、住人を呼び出すにはそうする他ないのだが……ドンドンというよりドタドタのほうが近い、やかましい叩き方だ。
 しかしノブを回す音はしなかった。相手は強引に押し入りたがる無作法な輩とは違うらしい。
 さらに、何やら切羽詰まった様子の声。……ドア越しでも間違うわけがなかった。ついに“件の人物”がやって来たのだ。
 假谷は玄関に向かって大きな一声を返すと、すぐさま駆けた。

玉紀っち……!」
 ドアを開けると、予想通りの人物が立っていた。
 その男、葉隠康比呂は感動に声を震わせて假谷の名を呟いた。目元に浮かんだ涙が、それきり続かない言葉の代わりと言わんばかりに、つうっと頬に線を描いて落ちていく。
「……ああ。なーんで葉隠が居るのかね」
 感極まる葉隠とは対照的に、假谷は無表情で問うた。
 実物を目の当たりにすると、邂逅の嬉しさよりも呆れと若干の怒りが湧いた。……彼はとうとう来てしまったのだ、と。
 しばらく玄関先で見つめ合った二人だったが、まだまだ浸っている葉隠からの返答はこなかった。
 假谷は嘆息の後、とにかく上がれとこぼして、葉隠を部屋へと引き入れるのだった。


「どっちかっつと、もう来ないっていうか、来られないだろうと思ってたんだが」
「や、確かに、わりと奇跡的なところあったべ。思った以上にヤバかった……」
「安全な場所に居ると、変わりっぷりに驚くだろうね。リアルサバゲーにようこそ」
 涙を引っ込めた葉隠をあらためて見ると、肌も服も薄汚れて、ところどころに擦り傷を拵えていた。破滅思想となった人たちの目を掻い潜り、どうにかここに辿り着いたことが容易に想像できる。
 だから、假谷はわざわざ自分に会いに来るなんてやめてほしかったのだが、口をつぐんだ。
 葉隠に濡れタオルを渡して、汚れを取るよう促した。

 そして処置をしながら、互いの近況を話し合った。
 希望ヶ峰学園の本科に所属する彼は、テロが頻繁に起こるようになってからは学園外へ出歩くことをほとんどしなかったと言う。
 当初は渦中にあった希望ヶ峰学園も、世界が一変した今となっては特別に危険な区域ではなくなった。予備学科生の標的だった学園職員や本科生は、葉隠と彼の同期生など一部を除いてほぼ全滅。予備学科生自体も軒並み死亡していた。
 元々特権的学園だっただけに、学園内の施設は使うことさえできれば充実の設備が整っている。生き残りの学園関係者であれば、むしろ安全な避難場所になりうるのだ。

「……そんなことだろうと思ってたから、何も心配してなかったのに。わざわざここに来るなんて酔狂やらかしちゃ、命を投げ出してるのと一緒でしょ」
「まあ……そこは俺の直感とかで、何とかなったから……大丈夫だべ!」
「紙一重じゃないの」
「ぎゃっ、いだだだ! 強く触んなって! おー痛え……」
 傷口に塗り薬を与えると葉隠は大きく喚いたが、假谷は気にせず擦り込んだ。
 さんざん文句を言っても、葉隠は最終的に礼を述べた。世話になったという自覚はあったのだった。


「だいたい、私がどっか行ってたり死んでたらどうするの。その怪我といい、リスク負い損じゃない」
玉紀っちはこの部屋が好きなんだろ? 前に、死ぬならここで大好きなものに囲まれてがいいーって言ってたし、最悪でも亡骸には会えるべ。生きてるに越したことはないけどな!」
 元々楽観的だからなのか、葉隠は無計画に自分の意思を押し通そうとする傾向があった。加えて、相手が自分の理想的な行動を取ると決めて掛かるふしがある。
 もし假谷が葉隠の動きを見越していなかったら、葉隠など意に介さなかったら、……などと裏で気を揉んでいても、彼には全く関係なかった。実際、葉隠は假谷に会えたのだから。

「いくら私でも命に優るものはないと思うぞ? あと、死ぬならここだなんて、いつ言った?」
「べろんべろんに酔っ払って帰ってきた時、水飲まんと死ぬべって言ったら」
「は? 記憶ない。そして合鍵渡した覚えも無いんだが」
「そん時、俺が部屋の前で待ちぼうけしてたのも覚えてないんか?」
「葉隠が勝手に来たんだよな」
「閉め出されたから仮眠させてくれーってメッセージ送ってたべ」

「……あー、あの時か。……私が同好会の飲み断るわけないんだから、ネカフェ行くべきだったでしょ」
「でも俺がネカフェ代をケチんなかったら、玉紀っちは急性アル中で死んでたかもしれねーぞ? 今生きていることを俺に感謝してもいいくらいだべ」
「あざーす」
「うう、羽毛のごとき軽さだべ……!」
 葉隠がすかさず突っ込んだところで、火にかけていたヤカンが大きく湯気を上げた。
 途中でガス供給が止まらずよかったと思いながら、假谷は沸かしたお湯をポットに注ぐ。そして残っていたティーパックのお茶を用意すると、葉隠の隣に座り直した。


 葉隠と会話の応酬をしていると、假谷の張り詰めていたものが少しずつ解けていく。
 徐々に周りの人たちが大きな流れに呑み込まれていく様を、假谷はこれまでに何度も見ていた。知人、友人、家族……浅からぬ関係だった者が死んだり殺し殺されていた中で、正気を保ち続けていた神経がすり減っていないはずがなかった。
 少し香りが飛んで安っぽい味のお茶が、不思議と沁み入る。
 消えた日常が、葉隠によってひととき戻ったようだった。

「……なんか、懐かしいな。この感じ」
「つっても……前に顔を合わせてから、そう何ヶ月も経ってねーぞ」
「そうだっけか……。随分変わっちゃったなあ」
 ふいにこぼした言葉を拾った葉隠は、少し戸惑ったような顔で假谷に返した。
 以前に会ったのは、予備学科生による過激な行動が始まって数日といったところだった。なんだか怖いなあ、と話し合って済んでいたその頃は、今からすればとても平和だった。
 その後、この部屋の壁や家具にはキズが増え、窓ガラスだった部分がところどころ木の板に変わった。……それでも施錠ができる限り、假谷はここを動く気はなかったのだが。
 
「……俺は玉紀っちが変わってなくて、めちゃくちゃ安心したべ。本当、よかった。」
 やけにしっかり假谷を見つめて言うと、葉隠は少し洟をすすった。
「そう、かな。……ま、葉隠も相変わらずみたいで」
 葉隠は自分の安全を脅かすものには敏感だったが、パニックに陥った感じもなく無鉄砲にここに来ているのだから、まったく正常でいたらしかった。
 学園内の環境や周りの人間がよっぽど出来ているのだろう、と思いながら、假谷は再び茶に口をつけた。

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