7.弘樹──独白

 結局わたしは、一緒に列車に乗り込むまで、智史に行き先を教えて貰えなかった。
 しかし、行き先を知っていようがいるまいが、目的地に着くまでは暇だということに何の変わりもない。
 わたしと違って智史は、この単調な旅の途中で寝てしまわない様にと、いままで読まずにとっておいたという、それこそ、とっておきの推理小説に集中していて結構楽しそうだ。多分、新書サイズの物だと思うのだが、ぶ厚すぎてとても新書には見えない。もし、わたしがこの本にキャッチコピーをつけても良いのなら、迷わず『人殺しの話が読めて、人も殺せるお得な本!』にしてしまう位厚い。コピーとしての出来はイマイチだとしてもだ。
 下らないことを想像しながら、わたしも本でも持ってくれば良かったと後悔しつつ、ぼんやりと窓の外を眺めた。
 そういえば、仙台から和泉澤に向かう交通手段も列車だった。但し、車窓に流れる景色は雪に被われていたが……

☆   ☆   ☆

『伊達くん、お願いがあるの』
 わたしはイラストの仕事をしている時、よく彼女のこの言葉を思い出す。
 わたしが仕事を始めるようになったのは、この台詞が大きく関係しているからだ。
 当時わたしは、仙台のとある共学の公立高校に通っていた。そして、智史じゃあるまいし、と言われそうな意外な事実だが、わたしが所属していた部活は文芸部だった。
 理由はいたって簡単。その学校は何か一つ部活に入ることが義務づけられており、文芸部は活動が盛んでなかった上、何よりこれが一番の理由だが、美人が多かったのである。
 文芸部と言ってもこの部は、漫画研究会と読書部と文芸部を足して3で割ったようなもので、熱心に創作活動をしている奴も居ればただ居るだけの奴、あげくのはてに居ない奴も居る、なかなか凄まじい処だった。
 その中でわたしは、頼まれれば小説に挿絵のひとつふたつ入れるという様な、まあ、適当にやっていたということになるだろう。
 確か、あれは夏休みが終わって間のない土曜の放課後だった。取りあえず部活に顔をだして、女の子とおしゃべりを楽しんでいたわたしの前に、部長の笠井みゆきが突然現れて、眼鏡の奥の眼をキラリと光らせながら、冒頭の台詞を言ったのだ。今思えば、風折先輩の登場の仕方によく似ている。
「なんでしょう?」
「これ見て、講英社の恋愛小説大賞が決まったの」
 それが発表されているページを探しているのか、季刊誌『NAVY』をパラパラと捲りながら、彼女は言葉を続けた。
「えーと、ああ、あったわ。ね、発表されてるでしょう」
「はい、で、これが何なんでしょう?」
「何のんきなのと言ってるの、小説大賞が発表されてるってことは、イラスト大賞が募集されるってことでしょう」
「そうなんですか」
「知らなかったの? ああ、これがイラストレータを志す者の態度かしら、信じられない」
 あさっての方向を向いて変な踊りをしながら、部長があきれた様に言う。
 しかし、彼女がどうかは知らないが、わたしはそんなものを志した覚えは全くない。
「とにかく! これに応募するわよ」
 いつの間にこっちの世界に戻って来たのか、部長がわたしに向かって断言する。
「ええ、どうぞ」
「何言ってるのよ、あなたもよ」
「わたしが? どうして?」
「だってあなた、あたしの次くらいに上手いんだもん。やっぱ、部長としては、あたしの他に、もう1人くらい自分の部から入選者を出したいじゃない」
「………」
 限りなく自己中心的な台詞に、わたしは眩暈を覚えた。しかも、彼女は自分で思っている程、絵は上手くない。人物はともかくパースの狂いが致命的だ。
「お願いね。これ大賞作品コピーにとってあるから、ポイントおさえてイラスト入れてね。じゃ、あたし、佐々木さんにもお願いしなきゃならないから行くね」
 こっちの返事も聞かず、彼女はスタスタと歩いていってしまう。わたしは、途方にくれて手元のコピーの束に視線を移した。
「ねえ、伊達くん。どうするの?」
 部長には存在すら認めてもらえていなかった女の子が、おずおずとわたしに問いかけてくる。
「ああ、どうしようかなあ。まあ、適当にあしらっておくよ。それより、邪魔が入らないところにお茶でも飲みに行かない? 迷惑じゃなければ」
「行く! 迷惑な訳ないじゃない」
「そう、良かった」
 そして、それが人生を変えるきっかけになるものとも知らず、わたしはコピーを何気なく鞄に入れて、彼女とお茶を飲みに行ったのである。

☆   ☆   ☆

「ふーん。ばかにしたもんじゃないな」
 帰宅後、鞄からペンケースを取り出そうとしたわたしは、先刻貰った雑誌のコピーに気付き、何気なく読み始めた。
 内容は、誤解が元で喧嘩別れをしてしまったカップルがよりを戻すまでの経過、という単純な筋書きではあるが、このページ数にこれ以上の内容を詰め込むのはちょっと難しいだろう。
 何よりわたしが気に入ったのは、恋愛小説にありがちな、べたべたした感じがなかったところである。
 さらりとした感じで、しかもふたりの心情については的確に描写してあり、場面の状況も解りやすい。それでいて、不思議に説得力があり、主人公もその彼も、お互いのことがすごく好きなんだ、という感情が伝わってくる。
 わたしも過去に特定の彼女が居なかった訳ではない。が、この小説の登場人物の様に彼女を愛せてはいなかっただろう、否、いなかった──
 自分のしたことは最終的には自分に返ってくるもので、わたしの一人称代名詞が『わたし』であるのも、この辺りに理由がある。
 わたしがこの話に惹かれる理由は、この話がわたしの理想の恋愛関係に近いからかもしれない。
 そんな理由で感情移入しやすいことに加えて、この作家は読み飛ばしてしまいそうな何でもない部分にきっちり伏線を張ってきていて、それがラスト近くで効果的に発揮されている。
 そして、ラストの台詞が何気ないようで、かなり多くの意味を含んでいるのがいい。
 つまり、この小説はわたしに心の琴線にきっちりと触れてくるのだ。
 ぼんやりと、彼女に会ってみたいと思う。
 そう、こんな小説を書く、彼女に……
「だいたいこれ、どういう募集なんだ?」
 人間として最低なことに、わたしは部長の話を半分くらいしか聞いてはいなかった。しかし、わたしは断言する。彼女の話を全部聞いていたとしても、結局詳しいことは何も解らなかったに決まっていると。
 最後のページの募集要項をじっくりと見る。
 つまり、新人賞をとった小説にイラストを入れ、もし大賞が取れたなら賞金20万円、副賞の盾が授与される。更におまけとして、そのイラストは小説大賞受賞者の作品が文庫化される時に一緒に収録され、季刊誌『NAVY』から定期的に適性にあったイラストの仕事の依頼がある。
 まあ、他の一般の募集よりは、確実に後につながる分、条件の良いものだろう。
 要項を半分くらいまで読み進み、わたしは眼を見開いた。
 この企画は、小説とイラスト、それぞれの大賞受賞者の対談が、後日『NAVY』に掲載されるのである。「イラストの枚数制限は5枚。とすると、ポイントを置く部分は……」
 わたしはいつのまにか、すっかりイラストを描く気になっていた。
 対談が掲載されるということは、本人と会えるということだ。大賞が取れるとは思わないが、宝くじだって買わなければ当たらない。
 結果的には、部長のよた話に乗ることになってしまっていたが、そんなことはどうでもよかった。
 こんなに真面目にイラストに取り組んだのは、わたしにとって初めてのことであった──

☆   ☆   ☆

「えっ、対談は中止。どういうことなんですか? だって、それって毎年恒例のものだったんじゃ……」
 3ヶ月後、宝くじに見事当たったわたしは、電話に向かって叫んでいた。
『ごめんなさいね、先方の都合がどうしてもつかないのよ。今回は、お互いの作品についてのコメント掲載するって形を取る事にしたんで、原稿書いて貰えないかな』
「だ〜か〜ら〜、向こうはいいですよ、本業なんだから。わたしは文章は書けません」
『フリートークみたいな形でいいから。イラストも付けて、ねっ』
「ねっ、じゃないですよ、前田さん。わたしは先方に会えると…、しまった。とにかく、書けませんって」
 本音を話しかけて、わたしは危ういところで留まった。
 だが、このままではせっかく当たった宝くじが組違いだった雰囲気だ。
『お願い、原稿料もちゃんと出すから。それに、綾瀬さん仙台からこっちまで出てくるの大変でしょう。丁度良かったじゃない』
「それは、そっちの勝手な都合じゃないですか。……まあ、前田さんにこれ以上言っても無駄ですよね。じゃ、お願いがあります。彼女の、連絡先、教えてもらえませんか?」
『へっ? 彼女って?』
 担当編集者の間抜けな応答に、貧血気味になりながらわたしは繰り返した。
「神崎智美さんですよ」
『ああ、あ〜あ。彼女、彼女ねぇ〜』
「何ですか、それ」
『えーと、綾瀬さん、綾瀬さんの綾瀬えりかって、もちろんペンネームよね。じゃあ、神崎智美もペンネームだと思わない?』
「まあ、そうでしょうね」
 要領を得ない彼女の言葉に、わたしは苛立ちを隠せず、返事がそっけなくなってしまう。
『そうね、綾瀬さんには迷惑かけてるし、これって一般には秘密だから、神崎さんの連絡先は教えられないけど、学校名だけ教えてあげる。一度しか言わないから、良く聞いてね。神崎智美が在学しているのは、和泉澤学園附属高等学校よ』
「…………前田さん。それって……」
『……の隣の女子高、なんてオチはついていないから安心して』
「安心……ですか」
『じゃ、原稿の件お願いします。それじゃ』
 ツーツーという電話の切れた音を聞きながら、わたしは途方にくれていた。
 わたしの記憶が確かなら(某料理対決番組のパクリのつもりは決してない)、和泉澤といえば名門の全寮制男子高だった筈だ。
 講英社はさぞかし頭を抱えたことだろう、今年の新人賞受賞者がふたりとも男だったのだから……

☆   ☆   ☆

「我侭言ってすみません。水樹、父さんと母さんのことよろしく頼むな」
「まかせといて、お兄ちゃんよりは頼りになると思うしね」
「言ってろ」
「ちゃんと、御飯食べるのよ。電話も頂戴ね、コレクトコールでいいからね」
「大丈夫だよ、母さん。心配しないで」
 不安気な表情の母親に、微笑みを添えて返事をし、軽く肩を叩く。
 年が明けて2月、わたしは新幹線の乗車口で家族に見送られていた。編入試験に通ったわたしは、附属の大学卒業までの条件で、仙台を離れることを許してもらった。
 老舗の和菓子屋の長男が、期限付きとはいえ、家を出ることを許されるだなんて奇跡に近い。和泉澤が名門校だったことが幸いした。
「しっかりやれ、身体こわすなよ」
 普段から寡黙な父親の短い言葉が、かえって心に深く響く。
「はい」
 わたしの返事と同時に、発車ベルが鳴り出した。
 入り口で妹に軽く手を振って車内に入り、席を探し出し座った。
 着席と同時に、ゆっくりと流れ出したホームの景色を見ながら、わたしは小さくため息をついた。
 結局、神崎智美が男でも、会ってみたいという衝動は抑えられなかったのだ。
 前田さんに頼んで強引に入手してもらった、神崎智美、否、神岡智史の写真を撮りだし眺め、再び手帳にしまう。
 彼の文章を読む度、写真を見る度、わたしの心の奥で何かが熱くなる。これが何なのか、今、明確に言い表すことは出来ない。
 だが、これは確実な予感──
 父さん、すみません。わたしは、約束を守れないかもしれません──

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