8.偶然の驚異

「ああ、ここだ。入るぞ」
 目的地に着き、看板を見上げながら智史が弘樹を促した。
「智史、これは俗に言うアポなし訪問じゃないのか?」
「まあな。でも俺、神崎智美だしー」
「……」
 1ミリたりとも答えになっていない、と、思いつつ、弘樹はあえて反論しなかった。
「いらっしゃいませー、こんにちは。短納期・美しい仕上がり・低料金がモットーのネオプリンティングヘようこそ。本日のご用件は、見積もりと入稿のどちらでございますか?」(こんな印刷会社、あったら嫌だな……)
 自動ドアが開いた瞬間、受付嬢からコンビニに似たノリで問いかけられ、智史は少々面くらいながら、とりあえず面会を申し出た。
「ああ、すみません。俺達そういう客じゃないんですよ。責任者の方いらっしゃいますか?」
「おりますけれども、あのー、お約束は?」
 どうみても高校生、しかも美形に入る少年ふたりは、彼女が通常相手にしている客とは少々異彩を放っている。しかも、いきなり社長への面会を求められ、マニュアル人間の受付嬢は面食らっていた。
「約束はありません。でも、会った方がいいと思いますよ。素直に面会に応じて下されば、俺の責任に於いて見てみないふりしますけど、下手すりゃ裁判沙汰になりますよ。俺、こう見えても職業作家ですから」
「はい? はい〜〜っ! しょ、少々お待ち下さいませっ!」
 受付嬢の声がひっくり返る。
 彼女だって、こういう会社の受付にいるからには、その方面に関して全くの素人という訳じゃない。しかし、彼女の短くない人生に於いて、こんな弱小の同人専門の印刷会社に作家が乗り込んでくるなんて聞いたこともない話だ。
 その聞いたこともない話に直面している上に、相手の口から『裁判沙汰』などという言葉が出てきたからには、もう自分の手に負える範囲は超えている。
 受付嬢は、顔色を白くしながら内線電話に手を伸ばした。
 そんな彼女の様子を眺め、智史は後ろに立っている弘樹を振り返って、小さくピースサインを出した。
 智史の得意げな様子を、なるほど、これが『俺、神崎智美だしー』発言の理由か、などと思いながら眺めていた弘樹だが、続いて彼は、その神崎智美の表情があっけにとられたものに変化していく様を、スローモーションのように捉えることになる。
「おい、智史。どうした」
 魂が口から抜け出てしまったのではないかと、心配になるほどのルームメイトの様子に、弘樹は目の前の人物の両肩に手を掛け揺さぶった。
「弘樹……」
「なんだ? どうしたんだ智史?」
「あれ……、見ろ」
 いらいらする位ゆっくりと示された、智史の指先を弘樹が視線が追いかけた。
「はぁ〜、前田さん!?」
 普段、冷静沈着で通っている、弘樹にすっとんきょうな声を上げさせたのは、応接室と見受けられるガラス張りの小部屋の中で、ウォークマンを聴きながら、文庫本を読みふけっている、天下御免の編集者、前田淑子嬢の姿であった。
「あのぉー」
 おずおずと掛けられた受付嬢の言葉は、見事にふたりの少年に無視された。
「なんで、彼女がここに居るんだ? ……まあいい、手間が省けるか。行くぞ、弘樹」
 抜け出た魂が耳の穴からでも戻ってきたのか、急速に復活を遂げた智史が、弘樹の袖を引っ張りながら、彼女の居る小部屋に向かう。
 ドアを開けても、本に夢中なあまり、彼らに気付く様子のない彼女に近づき、智史は2〜3回肩を叩いた。
「はい? 神岡君! 何でここに?」
 ウォークマンを外しながら、驚いたように担当編集者は智史に問いかけた。
「それはこっちの台詞ですよ」
「ああ、あたし。これ、この本の奥付の住所は郵便局止めだけど、これを刷った印刷会社だったら、宅急便とか注文書とかの関係で、本人の住所が解るかと思って、適当な理由つけて、社長との面会待ち。あなたたちは?」
「この本って、発行日が最近なんで、表紙のフルカラー分解のフィルム、まだ残ってるかと思って」
「何するのよ、そんなもの」
「作者が別だという証拠にするためですよ。昨日弘樹に、例の表紙の主線だけトレースして、着色し直させたんですけど、やっぱり色分解の条件が同じじゃなきゃ、データが取れないんですよ。それなら、ここで弘樹のイラスト分版してもらえば、各版からデータ取るなり、印刷してもらって見比べるなりできるじゃないですか。俺の感想だと、弘樹より偽物の方が、緑に青を多く混ぜる傾向があるし、髪の毛の色にコバルトブルーが混じってないってな違いがあるような気がしますが、データにすると完璧ですからね。それに、これは補足なんですが、このイラスト、風間の首筋、右下の辺りにほくろが無いんですよね。これって、まだ発表はしていないんですけど、弘樹には話してあります。このほくろは後々結構重要な意味を含んでくるんで、このような構図を描くにあたって、弘樹が風間のほくろを描き忘れることは、絶対にあり得ません。そうだろう、弘樹」
「ああ、わたしもそれには気付いた。しかし、故意にやったと言われればそれまでかと思い、黙っていた」
「そう。だから、これは補足にしかならない。だが、色の好みはそうそう変わらない。フィルムの状態でデータ取れば、他にも違いが出てくると思いますしね。どうです、前田さん。これだけでは証拠として効力を発揮しませんか?」
 ここで、担当編集者を説得できれば、したくもない交渉ごとを自分でしなくても良くなる智史は饒舌だった。
 そんな智史を見て、前田は満足そうに頷いた。
「充分。さすがね、たった1日でここまでやるなんて。ところで文章の方はなんとかなりそう? めどがついているんだったら、締切のばしてもいいけど」
「締切って……、原稿じゃないんですから。ご心配なく、編集者にやさしい作家、神崎智美は締切は守ります。本物との違いとその根拠をレポートにまとめてあります。後で読んでみてください。不明な点があれば補足しますんで、連絡下さい」
「ええっ! 両方出来てるなんて、あなたたち、ただ者じゃないわね」
「時間をかけている余裕が無かっただけですよ。他にも締切が迫ってるものがあるし、生徒会のトラブルも気にかかってましてね」
 やっぱり気にしていたか、と、弘樹の眉が中央に寄る。
「トラブルって?」
「いろいろ」
 それについては、詳しく説明する気のないらしい、智史の返答。
「まあ、いいわ。後はあたしにまかせて。ここで作家本人が出てくると、必要以上に相手をびびらせるだけだしね。きちんと処理しておくから、あなたたちは観光でもしてから帰ったらいいわ」
「お願いします。あっ、でも俺先刻、職業作家だって受付で言っちゃったんですよね。神崎智美だとは名乗っていないけど、この本がらみの作家っていったらバレますよね。その辺りの口止めもお願いします」
「マジ? まあ、脅せば大丈夫か。OK、まかせて頂戴」
 物騒な物言いをしている担当編集者に、一抹の不安を感じながらも、智史は眠たさのあまりこの件を彼女にまかせることにした。
「それじゃ、お先に」
「気を付けてね。寄り道しないで帰るのよ」
 頭を下げて出口に向かったふたりに、後ろから前田嬢が声を掛ける。
 自分で観光でもしてから帰れ、と発言したことをすっかり忘れているらしい。
 とことんおめでたい編集者、前田淑子であった。
 そして、本日一番気の毒なのは、ドッキドキの状態のまま、前田が話しかけるまで忘れ去られていた、受付嬢であろう。

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