DESTINY3 (4)



 夏休み最終日。
 神岡智史は追いつめられていた。
 何故って目の前に全く手つかずの宿題の山が積み上がっているからだ。
 しかし、彼を追いつめているのは、智史の宿題ではない。
 智史の宿題ではないということは、彼と同じクラスで選択教科も芸術以外は全く同じな弘樹の宿題でもないということだ。
 では、誰の宿題か。
 敢えて言わなくても想像がつくだろうが、念のために記述しておくと、それは涼の宿題である。
 この夏、有名ギタリストにスカウトされて、そればかりに気を取られていた涼が、宿題のことを思い出したのは、風折と共に避暑にでかけた時と、夏休みの最終日の2回きりだった。
 1度目に思い出した時は、口先ばかりでノートも開かなかった上に、2度目に思い出したのは夏休み最終日の晩飯を食べ終わってからなのだ。
 のんき者にも程がある。
 まあ、智史としても、涼ならそんなこともあるかもな、と──失礼だとは思うが──素直に納得できるのだが、風折まで一緒になって彼の宿題のことを忘れていたのは驚きだ。
 どっちかというと、涼の知らない間に彼の宿題を全て終わらせていそうな風折がだ。
 結局、降ってわいた涼のスカウトの件に翻弄されていたのは、本人だけではなく風折も同じだったらしい。
 これで、自分に被害が及ばないのなら、智史だって、サイボーグみたいな人かと思っていたけど、案外人間らしいところもあるんだな、と、少々風折を見直して(?)やった所であるが、この状況で彼に被害が及ばない訳がないのである。
 斯くして、面倒だからと自分の宿題は1学期の終業式当日に全て終わらせてあったにも関わらず、智史は夏休み最終日、他人の宿題に追いつめられていた。
 これで宿題だけをやっていればいいのなら、言っては悪いが涼の学校レベルの宿題を片っ端から片づけるのなんてお茶の子さいさいだ。
 しかし、智史には明日中にあげなくてはならない雑誌連載が、あと原稿用紙50枚ばかり残っていたのである。
 涼が白紙で宿題を提出しても、教師にこっぴどく怒られるくらいで済むだろうが、智史が白紙で原稿を提出したら雑誌に穴が空く。
 どちらの重要度が高いかだなんて、考えるまでもなくわかりそうなものだが、風折にかかると何故か前者の方が重要だということになってしまうのだ。
 それでも、涼の抱えている宿題が、数学のプリントであるとか、英文和訳だけであるとかいうのであれば、状況は今より幾分マシだっただろう。
 もちろんそういう宿題が皆無だとは言わないが、涼の学校の宿題の殆どは、夏休みの絵日記だとか、へちまの観察日記だとか、漢字の書き取り100文字ずつだとか、自由研究だとか、工作だとか、とにもかくにも頭脳で勝負できるものではなく、手間の掛かるものばかりだったのだ。
 つまり、欲しいのは頭ではなく人手。
 という訳で、智史は弘樹と共に風折の部屋に呼び出され、拷問だ……と呟きながら漢字の書き取りをしているところだったのである。
 しかもジャポ○カ学習帳に。
 ──もう、俺、泣いてもいい?
 あまりの切なさに、智史は目の前で同じくジャポ○カ学習帳に図鑑を見ながらヘチマの絵を描いている弘樹に視線を流した。
 どうやら、弘樹も同じようなことを考えていたらしく、智史に向かって無言で頷いて見せる。
 この切なさを共有できる人間がいるのは嬉しいが、できたからといってどうなるものでもない。
 智史は自由研究用の模造紙をセロテープで張り合わせている風折と、紙粘土で花瓶らしき物──後にそれはペン立てだと判明した──を作っている涼をちらりと眺め、ため息をついた。
 とはいえ、いくらため息をついてみたところで、漢字の書き取りは勝手に進んだりはしないのだ。
 既に時刻は午後10時。
 ──こうなったら、一刻も早くこれを終わらせるしかない。
 智史は気合いを入れ直し、あと30×100と73文字ばかり残っている漢字の書き取りに果敢に立ち向かった──

☆   ☆   ☆

「何だ。手首が痛くて右手が動かせないんじゃなかったのか?」
 持病の腱鞘炎が出てこれ以上ペンを持っていられませんと、智史が迫真の演技をして風折の部屋を逃げ出してから3時間後。
 ようやく自分のノルマを終えたらしい弘樹が、仕事部屋へと入ってきて、キーボードと格闘している少女小説家に嫌みったらしく話しかけた。
「逃げ出す口実に決まってるだろ、そんなもん。知ってるだろ、この原稿が明日までなの。まだ20枚も残ってるんだから話しかけるなっ!」
「明後日の晩、一緒に寝てもいいって約束してくれるなら、黙ってやっててもいいぞ」
 ──この男は……
 智史は奥歯をギリギリと噛みしめた。
 確かに、自分が意味なくもったいぶった態度をとり続けているのは認めるが、智史には智史の事情があるのだ。
 今、現在、いくら弘樹に実家に戻るつもりがなかろうと、将来的にはどうなるかなんて解らない。
 父親と仲が良いとは言えない自分でさえ、少なくとも彼に迷惑を掛けたくないくらいには思うのだから、弘樹は尚更そう思っているだろう。
 ましてや弘樹は老舗の和菓子屋の跡取りだ。
 帰って来てくれと親に泣かれでもしたら、それを振り切ることなんてできないだろうと思うし、そんなことはさせたくない。
 これ以上、弘樹を好きにならないように。
 これ以上、弘樹を忘れられなくならないように。
 そう思って、一定の距離を保とうと努力しているというのに、弘樹は智史が退いた距離以上に深く踏み込んでくるのだ。
 絶対に逃がさないとでも言うように。
 遠慮の無くなった物言いで。
 更には直接行動で。
 大体、今の発言にしたって、今度でも明日でもなくて、明後日だというのがリアルすぎる。
 今晩はそんな暇がないし、今度じゃうやむやにされる。明日じゃ、今日が今日なので自分も智史も眠たいし、だから明後日。
 間違って「何で?」とでも聞こうものなら、弘樹は恥ずかし気もなく、具体的に目的を口にすることだろう。
 それに、最近の弘樹ときたら──伊達に和泉澤の編入試験に合格した訳ではない──その学習能力を遺憾なく発揮して、智史が絶対に断れない状況を見極めてそういうことを言い出すのだ。
 ここではぐらかしたなら、弘樹は本当にいつまでもべらべらとしゃべり続けるに違いない。
 そして、今の自分にはそんなことに気を散らしている暇なんぞないのだ。
 ちっ、仕方ないな、とあきらめて智史は口を開く。 
「はいはい、じゃ、そーゆーことにしましょう」
「約束だからな」
「ああ、守らなかったらハリセンボンだろうがマンボウだろうが何でも飲んでやる。だから、黙っててくれって」
 吐き捨てて、智史は何処まで打ったかなとモニターをのぞき込んだ。
 入力したものを10行くらい遡って読み返し、余計なことを考えたせいで散ってしまったイメージを引き戻す。
 ──畜生〜、目がしばしばしてきやがる。
 と、目元に右手を持っていったところで、再び弘樹から声が掛かった。
「入力、俺がやってやろうか?」
「マジ? お前入力できんの」
 その意外な内容に、智史は目を押さえていた手を離して思わず弘樹を振り返った。
「ばかにするな。これでもワープロ検定2級だぞ」
 初公開。智史も知らなかった弘樹の秘密その2である。
「……俺が無級なのに? まあいいや。お願い、打って下さい。実はもう目が限界なんだ」
 地獄に仏と智史は弘樹に席を譲って、自分はクッションを抱えて床に寝転がった。

☆   ☆   ☆

「和哉が近づいて来る、まる。姿がだんだん大きくなる、まる。息づかいさえ聞こえてくる、まる。改行。千夏は目を凝らし続けた、まる。和哉の姿を、てん、フィルムではなく、てん、自分の目に、てん、自分の心に、てん、しっかりと焼き付けるために、まる。改行。和哉が負けようと勝とうとそんなことはどちらでもよかった、まる。ゴールした時、てん、千夏が言う台詞はもう決まっていた、まる。改行。かぎかっこ、和哉、てん、あなたが、三点リーダふたつ、好き。かぎかっことじ。改行。おわりっ! やったー、終わったぁ。弘樹、入力サンキュ。疲れただろ」
「どういたしまして。なんてったって検定2級の実力者だからな、これくらいは余裕だ」
「余裕ときたか。すごいねぇ。よっ、実力者!」
 疲れと眠たさのあまりテンションがあがってしまっているふたりが、自分たちの会話にひとしきり爆笑していると、弘樹が携帯でセットしていた目覚ましのアラームが鳴り響いた。
 どうやら、これから半日余り、彼らは睡魔と戦わなくてはいけない模様である。

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