DESTINY3 (5)



 ──眠い……
 智史は礼拝堂であくびをかみ殺していた。
 一応、カソリック系の学校である和泉澤には、礼拝の時間というものが存在する。
 始業式と終業式、更に毎週月曜日の行われるそれは、今も昔もそして多分未来も、生徒達にはすこぶる評判が悪い。
 それにもれなくついてくる神父の説教が、年寄りの昔話よりも長くて面白くないのが、その最大の理由であろう。
 3年の学年主任でもある彼は、人一倍信仰心も厚く、賛美歌を歌わせると、その見た目からは想像できないような美声で歌うのだが、どういう神の御心か、布教活動だけには適正がなかった。
 例え、前日が徹夜でなくとも、この神父の説教は、ラリホーマも裸足で逃げ出すくらいに眠気を誘う。
 更に、彼が久しぶりの説教にやたらと張り切る、終・始業式の礼拝は、1.5倍(当校比)で強力なもの(はっきりってつまんない)に仕上がっていた。
 だからと言って、居眠りなどしようものなら、1ヶ月間、毎日早起きをして礼拝堂の掃除をしなくてはならなくなるのだ。
 高校生からみれば、おじさんというよりは、すでにじいさんに近い年齢の神父であるが、視力は抜群に良くて──いまだに1.5・1.5──いねむりしている生徒を、決して見逃しはしないのだ。
 自らが眠気を誘っているくせに、寝るのは絶対に許さない。
 これは既に修行──というより苦行?──である。
 そして、ここ3日間の睡眠時間が全部合わせて5時間という智史にとって、この礼拝は修行を通り越して、拷問に近いものがある。
 もしかすると、バイブル(神父のあだ名。いつでもどこでも彼は聖書を小脇に抱えている)の話がつまらないのは、神が自分たちに俺たちに試練を与える為なのだろうか。
 ──そんな試練はいらないよなぁ。だいたい俺んち仏教徒だし。
 ぼけぼけとした頭で、智史はそんなことを考えて眠気を紛らわせていたが、実際彼が仏教徒といえるかどうかは微妙だ。
 確かに、もし智史が今死んだならば、浄土真宗東本願寺仕様で葬式は出されるだろう。だが、それだけではその宗派を信仰していることにはなるまい。
 とはいえ、大抵の日本人なんてこんなものだというのが事実であろう。
 ともかく、智史がキリスト教徒であろうと仏教徒であろうと無神論者であろうと、眠いものは眠いのだ。
 ──もう、駄目だ。
 罰当番覚悟で、智史が意識を手放そうとしたその瞬間──
 隣に座っていた弘樹が、智史の手の中に、ポケットに隠し持っていた保冷剤を落とした。
 その冷たさに、一瞬身をすくめながらも、智史は隣の男に自分が助けられたのを知る。
 取りあえず、これさえあれば、あと5分程度は持ちそうだ。
 助けてくれたのはありがたいけど、それなら最初から俺にも持たせてくれりゃいいじゃないかと、心の中で弘樹に悪態をついた智史だが、それはわずか1分半後に撤回された。
 なぜなら、話の流れを全く無視して、神父の長い説教が突然終わったからだ。
 残りたったの1分半で、1月もの罰当番をくらったのではたまったものではない。
 ──危なかった……
 あんなに眠たかった筈なのに、この事実で智史の目は一気に覚めた。
 ちらりと隣に視線をやると、なんとも満足げな笑みを浮かべた弘樹の顔がそこにあった。
 彼が、この先どれだけの秘密を披露するのか、そしてそのポケットの中に保冷剤──別にこれはいつも入っている訳ではないだろうが──以外に何が入っているのか……
 伊達弘樹──
 風折とは別の意味で、微妙に全体をとらえにくい男である。

☆   ☆   ☆

「おい、神崎智美の新刊読んだか?」
「ああ、昨日買った」
 その日のHR終了後、智史と弘樹は教室で昼飯を食べていた。
 さっさと帰って寝てしまえと言った弘樹に、腹が減ってちゃ眠れないと智史が主張したからだ。
 そんな智史に対し、お前はどんな状況だって寝られるさ、と心の中では突っ込んだ弘樹であるが、口にしたら最後、相手がごちゃごちゃとうるさいことを抜かすのも想像がついたので、購買でパンを一抱えと牛乳1リットル(500ml×2パック)を購入してきた。
 とはいえ、弘樹の制服のポケットから、伸縮式のストローが出てきた時点で、これは予測されていた展開なのであろう。
 その見た目からは決して想像できないが、智史は本当に良く食べる。
 見苦しい食べ方はしないが、信じがたいスピードでみるみるうちにとパンの山を減らしてゆく智史の姿に、毎度のことながら弘樹が少々圧倒されていると、冒頭の会話が彼らの耳に届いたのだ。
 ここが共学の高校で、女生徒がそんな会話をしているというのならば、さほど驚きもしないが、ご存じのとおり、ここは男子校なのだ。
 しかも、名門私立(な筈の)和泉澤学園附属高等学校なのである。
 諸々の事情が事情だけに、食べることに夢中になっていた智史も固まった。
 それには食っていたメロンパンを喉に詰まらせてしまったという事情もあるが、ともかく原因がクラスメートのしている会話であることには違いない。
 ──誰だよ、講英社のα文庫なんて読んでる奴は。
 ちょっとばかり……というのは建前で、実際はかなり気になったので、智史は声のした方向へ、ちらりと視線を走らせてみる。
「大塚だぁ〜?」
 智史が思わずあげてしまった声で、呼ばれた本人大塚と、その話し相手である蔵本が同時に振り向く。
 首の運動ご苦労様ってな感じである。
「神岡、何か用か?」
「いや、別に……」
 ──別にクールな態度とりりしい眉毛が素敵と、隣の女子校の生徒のみならず、和泉澤の下級生にでさえ大人気の、演劇部随一のハンサムボーイ(死語)が、α文庫読んでたって犯罪ではないけどな……
 お母さんは泣いてるぞ、と思う智史は、それを書いている自分の母親が草葉の陰で泣いているかどうかは考えない。
「なるほど、これか」
 智史の視線が自分が手にした文庫本に向いているのに気付いたらしく、納得したように大塚が言う。
「面白いぞ、お前も読むか?」
 ──笑えない冗談だ……
 いくら知らないとはいえ、書いた本人にその本を薦めるというのは、確かに笑い話にしかかならない。しかもその本人が目の前にいるのならば、智史のいうとおり笑い話にもなりはしない。
「…………いや、遠慮しておくよ」
「ふっ、この和泉澤において常に学年トップをキープしている神岡くんとあろう者が、読む前から本を毛嫌いするとはね。こういう本を読むのも視野を広げる為には必要だと思うよ」
 その理由がさっぱり解らない余裕の笑みを見せた後、大塚は智史に向かって偉そうに言った。
 ──お前は、少女の気持ちを解ってどうしようというんだ。
 しかも、そんな方向から。
 確かに視野は広がるかもしれないが、女心を知りたいのならば、確実に方向が違う。
 智史は思わずついてしまいそうになるため息を飲み込んで、クラスメートに向かって告げる。
「貴重なご意見ありがとさん。気が向いたら(絶対向かないけど)そのうち読んでみるよ」
 ──あほらしい。こっちは昨日徹夜で、その本の続編書いてたっつーのに。
 もっとも、実際書いてた訳ではなくて、打ってたわけだが。そのうえ、打ってたのも智史ではなく弘樹であるが、そんな言葉遊びはどうでもいい。
「ばかにしてないで読んでみろって」
 ──だから、ばかになんかしてないって。
 智史は思った。
 それはそうだろう、色々と思うところはあるものの、自分の書いた話なのだ、いくら智史でも本気でばかにするまではしない。
「あぁ、解った、読む読む。明日までに読んでくるから置いておけよ」
 これ以上大塚の相手をしていると疲れるだけだと気付いた智史は、適当に合わせることにした。
 本を受け取ったところで、実際に読む必要はないのだから、それでこの会話を終わられることができるのならば楽なものだ。
「なんなら、シリーズ遡って貸してやろうか?」
「結構だ」
 『小さな親切余計なお世話』という言葉は、『恐るべし』という言葉が風折の為にあるのと同様、大塚の為にあると智史は確信する。
「保証するよ。それ読んだら、絶対他の本も借りたくなるって」
「……保証…ね」
 ──こっちこそ保証してやる。絶対かりねぇ、そんなもん。
 智史は顔を引きつらせた。
 大塚の親切の押し売りにも閉口していたが、楽しげな表情で自分たちの会話を傍観している弘樹にも腹がたったからだ。
 ──お前も、自分のイラストに目の前でキスでもされりゃいいんだ。
 智史がこんな風に感じの悪いことを考えていた時だ。
 教室のドアがガラリと開いて──やはり、このタイミングは恐るべしだ──風折が姿を現した。
「智史、それに弘樹もちょっと来て」
 ああ、どうしてこの人はこんなに偉そうな態度が似合うのだろう、と思いつつも、風折の登場は、珍しく智史にとってありがたかった。
「悪い。生徒会長様に呼ばれてるから、本の話はまた今度な」
 智史は軽く手を挙げてその場を離れた。
 余談だが、智史の言う『その内』や『また今度』は『その機会は二度とない』と同意語である。
 それに気付いているのか否か、大塚はまだ何かを話したかったようだが、そんなものにつき合ってやるほど、智史は暇でも親切でもなかった。
 程良く腹に食べ物をつめこんだ今、彼は一刻も早く帰って寝なくてはならかなったからだ。
 弘樹と共に智史は、戸口に立っている風折のところに向かった。
「風折さん、一体なんの用です?」
 滅多にないことに、登場のタイミングだけはありがたかった風折ではあるが、その話の内容までがありがたいなんてことがある筈がない。
 智史は心の準備をしてから、風折に向かって聞いた。
「相変わらず、色気も素っ気もない話し方するね、智史。可愛くないから改めた方がいいんじゃない」
 いつものように、どうでもいいことにいちゃもんをつけながらも、風折は智史に向かってカヴァーのかかった文庫本を手渡した。
「ほっといて下さい。そんなもんがなくたって世の中は渡っていけます。で、これ、なんですか?」
 いつものことなので、風折曰く、そんなところが可愛くない口答えをしながら、智史は手渡された本を見る。
 そのカヴァーに入った書店名を見た途端、智史はあからさまに表情を曇らせた。
 なぜなら、その本屋は智史のサイン本を置いてあることろだからだ。
 この夏α文庫フェアをやっていたその本屋には、神崎智美の他にも数名の作家のサイン本が積んである。
 文庫のサイン本なる存在を智史は今まで見たこともなかったが、サインしろと言われて担当編集者に段ボールひと箱分の本を差し出されれば、黙ってする。
 読者プレゼントやこんな企画の際にサインするというのも、仕事の内だからである。
 とはいえ、サイン本という存在自体が恥ずかしい。
 そのサインが入っているからといって、神崎智美の本が将来高値で取引されるということは、まずあるまい。それどころか商品価値を下げかねない単なる汚れだ。
 そう思う智史は、画家ならともかく作家や有名人の『直筆のなんとか』に、価値を見いだせないタイプの人間である。
 智史にとって誰が書いても、それは単なる文字だ。
 そんな智史の心中などおかまいなしに、目の前の生徒会長はにっこり笑っておっしゃった。
「神崎智美の新刊」
 バサッ──
 聞いた瞬間、智史の手からその本が滑り落ちる。
「あーっ、折角のサイン本落としたな。智史、君は僕に何か恨みでもある訳?」
 落ちた本を拾い上げながら風折が言った言葉に、それはこっちの台詞だ、と智史は思った。
 しかも、サイン本を風折がちっとも大切に思っていないことは、その台詞の棒読みさ加減から伝わってくる。
「……風折さん。落とされたくないなら、どうして俺にこの本を手渡したんですか」
「どうしてって、読んで欲しいからに決まってるじゃない」
「……あなたがそれを言いますか」
 智史は風折を睨み付けた。
 大塚はともかく、風折は智史が神崎智美であることを知っているのである。それなのに、こんなもの──しかもサイン本を手渡すだなんて嫌がらせ以外のなにものでもない。
「僕が言わなくたって、その内誰かに言われるよ。事情を知ってる分、僕が君に読ませたことにした方が断りやすいだろ」
「はぁ〜?」
 話が全く見えてこない智史の台詞は、アクセントが尻上がりだ。つまり、疑問系。
 そんなふたりのやりとりを、黙って傍観していた弘樹がここにきて初めて口を開いた。
「風折さん、その辺りにしておかないと、智史が寝ちゃいますよ。なんせ、礼拝で寝かけたくらいですから」
 ──何? お前は全部解ってんの?
 弘樹の台詞に、智史は驚いて彼の顔を見る。
 そこには、腕組みしながらちょっとばかり呆れた表情を浮かべている、弘樹の姿があった。
 そして──
 何故、今日に限って神崎智美の新刊が学園内に多数存在するのか?
 いつものことだとはいえ、風折が何をたくらんでいるのか?
 弘樹が何に対して呆れているのか?
 その疑問の答えが全て出るのは、もう間もなくなのである。

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