DESTINY3 (9)
9月の第3金曜日。 智史はものすごく葛藤していた。 円周率を小数点以下200桁まで暗唱してみたところで振り払うことなどできない、この苛立ち。 いっそ、自ら行動を起こしてしまおうかとさえ思う。 ──それにしても…… こんな気持ちでいるのは自分一人なのだろうかと、智史は弘樹を盗み見る。 そうしてみて、智史は改めて実感した。 この磁器製の人形のように整った顔から表情を読みとることなど、不可能だということを。 いや、これはそもそもが自分の気持ちなのだから、弘樹がどう思っているかなどは関係ない。 関係はないけれど、仮にもそういった立場の人間ならば、智史の気持ちをくみ取ってくれても良さそうなものだとも思う。 弘樹の涼しげな表情が、とにもかくにも気にくわない現在の智史であった。 とはいえ、いつまでも横目で弘樹を睨んでいたところで、何も解決はしない。 智史は弘樹に方向違いの怒りをぶつけるのはやめにして、目を閉じ、苛立たしげに右手の人差し指で机を叩いた。 これは、急いで何かを考えなくてはならなかったり、急な決断を迫られた時に、無意識に出てしまう智史の癖だ。 目を閉じて、指先でリズムを取ることで、目と耳から入ってくる外部情報を遮断し、考え事に集中するためだ。 更に、この仕草は傍から見ても、あからさまに何かを考えていることが解るので、無駄に話しかけられないという点で、他人に対しても効果がある。 但し、本当に単なる癖であるので、智史自身はそこまでは考えていない。 そして、指先で刻むリズムが徐々に早くなり、その音が大きくなってくると、智史の思考がまとまりかけている合図である。 最後に、タン・タン・タンッとひときわ大きな音を立てて机を3回叩き、智史は結論を出した。 やっぱり、我慢は出来ないと。 ──ここまで来たら恥も外聞もあったもんか。 智史は意を決して口を開いた。 「えーっと、あの……」 ☆ ☆ ☆ 「智史、言いたいことがあるならはっきり言え」智史に最後まで台詞を言わせず、弘樹はいきなり持っていたコピーの束を机の上に放り投げた。 「えっ?」 「えっ? じゃない。わたしもこの脚本には納得できない」 言って、弘樹は脚本を書いた霞ヶ丘の演劇部長に向き直った。 「他にも色々と考慮すべき点は多いと感じますけど、最悪なのはこのラストシーンです。智史が例のトリックを実現する方法を考え出した現在の状況で、肝心の謎解き部分をどうしてここまで端折る必要があるんです? 学園ラブコメものでいきたいなら、敢えてこの話を選ぶ必要はないと思いますし、この話でいくなら完全に推理物に仕上げる方が観客も納得すると思いますよ。その辺りはどうお考えなんですか」 お前は神岡智史かってな具合に、いつになく長台詞をよどみなく話す弘樹に智史は目を見開いた。 合同演劇発表会第3回打ち合わせにて。 霞ヶ丘の演劇部長である久保敦子が、昨夜寝ないで仕上げたという脚本を読み、つい先刻まで、俺の相方のくせに俺が書いた話をこんな面白くない脚本にされて何も感じないのか、と憤っていた智史であるが、流石にここまで率直な意見を述べて貰いたいと思っていた訳ではないのだ。 もうちょっと──もうちょっとだけでいいから、弘樹には歯に衣かぶせて物を言うということを覚えて欲しい。 「えっと…それは……。原作のままだと、橘信哉の台詞がすごく長くなるから、覚えるのが大変かなって……」 これ以上ないってな位に、強烈な駄目出しをされて、霞ヶ丘の演劇部長は泣きそうな表情で言い訳を始める。 だが、彼女のそんな様子を見ても弘樹は全く容赦がなかった。 泣いて脚本が面白くなるのならば、世の中に脚本家なんて必要ないと言わんばかりに、彼女を一瞥すると、更に追い打ちをかける。 「そんなお気遣いは全く無用です。たとえ、2分や3分しゃべりっぱなしになろうとも、その程度の長台詞を覚えられない程度の神岡じゃありません。和泉澤の学年トップをあまりなめないで貰いたいものですね。それに、長台詞の件は途中の伏線を全てすっとばしてしまっている理由にはなっていないですよ。台詞を短くする為にも、伏線は増やすことがあっても減らすことは出来ない筈です」 「………」 ──俺の台詞がない…… 弘樹に責め立てられ、無言で下を向く久保を見て、智史は天を仰いだ。 本当に弘樹って奴はびっくり箱みたいな人間だ。 クールかと思えば意外と情熱的。 無口かと思えば意外と饒舌。 女好きかと思えば、恋人は男。 そして、別段ふくらんでいるようには見えない制服のポケットからは様々なものを取り出す。 弘樹が見せるその意外な一面が、全て自分に関わることであるだけに、智史は余計にいたたまれなくなる。 いつになく攻撃的な弘樹と、何とも複雑な表情を浮かべる智史に、やれやれとため息をついて風折は──もちろん、後で智史に恩を売る気は満々だったが──その場を納めにかかった。 「弘樹、人の作ったものに文句をつけるだけなら、誰にでもできるんだよ。そこまで言うなら、次の会議までに君が脚本あげといで。まったく、頼まれてもいないのに脚本書いてくれた彼女に向かってなんて言いぐさだい。ごめんね久保さん。次回、彼の脚本を思いっきり批判してやるってことで、この場は納めて貰えないかな」 にっこり── それを見られたならば、幸せな結婚ができると噂される風折の微笑みに、霞ヶ丘の演劇部長は催眠術でもかけられたように、こくりと頷いた。 頼まれてもいないのに、だなんて、結構失礼なことを言われているにも関わらず。 それを見て、今度は智史がため息をついた。 他の誰が解らなくても、ずっと風折にあまり歓迎したくない好かれかたをしている智史には解る。 風折がそんな彼女を見て、ちょろいもんさ、と思っていることが。 そして、結局は弘樹ではなく智史が脚本を書くことが、風折にはお見通しだということも。 結果的には、余計な恥をかかずに脚本を書けることになった智史だが、そこに風折が絡んだ時点で、どうしても得をしたという気にはなれない。 確かにちっとも得ではないのだ。得どころか、風折に恩を売られた分、確実に損だろう。 なぜなら、先刻の弘樹の発言が充分智史に恥をかかせていたからだ。 確信犯の弘樹──その辺の女子高生に、智史をなめられたくなかったのも事実ではあるが──はともかく、智史は後日、霞ヶ丘で自分に関する、かなり不名誉な噂が流れていることを知ることとなる。 例え事実でも、本人に面と向かって言ったなら名誉毀損になってしまうのと同様に、噂の内容が核心をついていたとしても、不名誉は不名誉だ。 霞ヶ丘の漫研と文芸部所属の生徒の妄想を大いにかき立てたその噂とは── 和泉澤の伊達と神岡はデキている。どっちが上なの? 身長で伊達? それとも頭脳で神岡? キャ〜〜ッ、というものだった。 そして、その噂の出所は、なんと文芸部副部長を兼任する霞ヶ丘の演劇部長、久保敦子であった。 風折の笑顔にあっさりと陥落されていたくせに、本当に女というのは何を考えているのか解らないものだ── ☆ ☆ ☆ 「神岡、お前、大変なことになってるぞ」「何がだよ。言っちゃなんだが、風折さんがこの学校にいる限り、俺が大変じゃない時なんて、一瞬たりともないぞ」 弘樹が他人に智史をなめられなくなかったのと同様に、智史としても弘樹が次回の打ち合わせで提出する──ことになっている──脚本を、他人に酷評させる訳にはいかなかった。 例え、実際に脚本を書いたのが智史で、その批判が自分に対するものだとしても、表向きに恥をかくのは弘樹なのだ。 あんなでかい口を叩いてくれた弘樹の名誉を守るためにも、更には物書きのプロとして、意地でも完璧な脚本を書き上げなくてはならない。 元々が自分で書いた話なのだから、ストーリーは完璧に頭の中に入っているが、それを舞台で上演する脚本にするとなると、文章構成能力とは全く別の部分で手間がかかる。 その最大の難関は、弘樹も指摘していた謎解きの伏線をどうやってあからさまにではなく、しかし後でアンフェアにはならないように各所にちりばめるかだ。 ──えーと、あそこのシーンをこういう風に差し替えて…… 昼休み、デザインが最悪すぎると──学長の俺様像が中央に配置されている──誰も近寄らない裏庭の噴水に腰掛けて、弘樹が購買で昼飯を調達してくるのを待ちつつ、そんなことを考えていた智史は、いきなり演劇部長の大塚に話しかけられて眉を寄せた。 大塚が風折の『か』の字も口にしていないのに、智史の台詞に彼の名が出てしまったのは、やはり心の奥底で、あの生徒会長にしてやられたという気持ちが拭い去れていなかったからだろう。 「だから、その風折さんの耳にあの噂が入る前に何とかした方がいいと思って忠告してるんだろうが」 「噂だぁ? また、神岡は自室で偽札を作ってるって噂でも流れてんのかよ? いくらなんでも、そんな噂信じて俺の部屋に家宅捜索に来るほど風折さんは暇じゃないぞ」 「そんな噂なら俺がわざわざ報告しに来る筈ないだろ。因みにウチで最近流れている噂は、神岡は××(伏せ字の中身は各自で適当なものを想像して下さい)を10cc5万円で売ってるって話だぞ」 「誰がそんな恐ろしいもん売るかっ!」 「確かに。でも、神岡の場合、そんなこともあるかなぁ〜って、みんなが納得するからな」 「納得するなよ。で、風折さんの耳に入ったらまずい噂ってのはそれか? だったら余計な心配だ。大体、お前が知ってて、風折さんが知らない噂なんて学園内に存在する訳ないだろうが」 そんな悪質なデマまで流れているのかと、智史は小さくため息をついた。 だが、所詮噂は噂。 そこに涼が絡んで来ない限り、風折が智史に対する噂を気にとめることなどないし、ましてや事実無根なのだから何も問題はない。 こいつも大概暇なんだな、と智史は目の前に立つ大塚の顔を見上げた。 だが、そんな智史の呆れた表情には全く構わず、大塚は更に話を続けた。 「学園内ならな。でも、霞ヶ丘で流れてる噂ならどうだ?」 「どっちにしても大差はないと思うけど。だって、あの風折さんだぜ」 「それが今回に限ってはそうじゃない。なんせ昨日の今日だし、俺の身内情報だからな」 「何の話だよ」 「伊達だよ伊達。先週の打ち合わせで、あいつがお前のことすっげー持ち上げてただろ。今、向こうの文芸部はお前と伊達がデキてるって噂で持ちきりらしい。俺の従姉妹が霞ヶ丘で文芸部に入っててね、昨日、実際どうなんだって電話が入ったんだよ。なんでも、和泉澤にツテがあるなら何が何でも確かめろって先輩に強要されたらしい」 ──どいつもこいつも…… なんでそんなに暇なんだ、と、智史は軽いめまいを覚えた。 学園内だけならばともかく、隣の女子校でまでそんな噂が流れなくてもいいじゃないかと智史は思う。 そんな智史は、この閉鎖された学園内の生徒よりも、自分たちに全く関係ない分、女子高生の方がゲイに対して寛容で無責任な興味を覚えるという事実──もちろん、そうではない者も多数いるが──を知る由もない。 「確かにいい気分ではないけど、今更、そんな噂気にする必要が俺たちにあるとでも思うのか? ましてや風折さんが気にするとでも? 隣の女子校じゃどうだか知らないが、ウチじゃ改めてそんな噂をする奴がいない程、全校中が知ってる事実じゃないかよ」 「事実って……、ん、まあ、表向きはそういうことにしてあるんだろうけど……、俺、知ってるんだよ。風折さんには好きな相手が居るって……。わざと流した噂ならともかく、勝手にそんな噂が広まったら、やっぱり……風折さんとしては面白くないだろ。俺、誰にも言わないし、正直に話して大丈夫だから……、出来る限り協力もするし……」 「大塚、お前……」 健気だけどばかだなぁ、という続きの台詞を智史はぐっと我慢し飲み込んだ。 以前から薄々感じていたことではあるけれど、やはり大塚は風折の想い人が誰であるかを誤解している。 だから、大いに今更感のある智史と弘樹の噂が、彼にとっては、こりゃ大変だってなものになってしまうのだ。 口に出してはいないものの、大塚の考えているストーリーは多分こうだ。 本当に恋人同士なのは風折と智史であるのに、風折の立場上、そんな事実が発覚しては色々と問題がある。しかし、だからといって智史に手を出す人間がいてはこまるので、身代わりとして表向きは弘樹が智史の相手であるということにしてある。それなのに、そんな噂を全く知らない人間から見て、ふたりがデキているように見えては、風折がショックだろう。 他人が見れば、なんとも強引なストーリー展開であるが、恋というのはそういうもんだ。 自分がかけて貰ったことのない言葉を誰かがかけてもられるだけで、自分がしてもらったことのないことを誰かがしてもらっているだけで、好きな相手が見つめているのはそいつではないかと邪推してしまう。 それを前提に考えてみれば、大塚の気持ちは共感できずとも理解はできる。 とにかく大塚は、風折に恋をしちゃってるのだ。 ──本当に他人事っていうのはよくわかるもんだ。 しみじみと智史がこんなことを思うのは、ついこの間まで、ここ半年での出来事を冷静に振り返ることが出来なかったから。 ちょっとだけでも冷静になって考えれば、そんなことに気付けない自分ではない筈なのだ。 例えば、1年の3学期にやらされた弘樹との交際宣言。これは、完全に風折の策略だ。 その証拠に、こんなにも風折を見ている大塚が涼の存在に気付いていないのならば、風折と智史がデキているという噂が涼の耳に入る筈などないのだから。 でも、それはそれで悪くはない展開だ。 風折に踊らされてしまったことは情けないとは思うけれど、あの一件がなくては、自分の気持ちを自覚するのに、ゆうにあと3年はかかってしまったところだろう。 多分、自分が弘樹と居られる時間は限られているというのに── 智史が、散々悪態をつきつつも本気で風折を嫌うことがないのは、恩着せがましくて意地悪だけれど、それでも彼が自分を心配してくれていることが解るからだ。 ──ただ、心配してくれるのは極々まれで、意地悪されるのは日常茶飯事だけどな。 思わず乾いた笑いを漏らしたくなった智史だが、それも気力で飲み込んだ 例え彼のことではないしても、ここで笑うのは大塚に失礼過ぎる。 智史は、既に自分の言った台詞を後悔している様子の大塚の顔を見上げた。 彼の心の中でぐるぐると渦巻いているのは、風折を悲しませたくないという思いと、やっぱり恋敵に協力なんてしたくないという相反する思い。 そんな大塚を基本的にいい奴なんだろうなとは思うものの、辛い思いを完璧に自分一人の胸の内に納めきれないのならば、自己犠牲的な愛なんて見苦しいだけだというのが智史の率直な意見だ。 丁度、弘樹が昼飯を抱えてこの場にやってきたのをきっかけに、智史は大塚に向かって口を開いた。 「大塚、まばたきしないで良く見てろよ」 何でこの場に大塚がいるんだと怪訝な表情を浮かべる弘樹を人差し指で呼びつけ、智史は彼の耳元で何事かを囁いた。 その言葉に何を何処まで納得したのか知らないが、弘樹は何も問いただすことはせず、唇の端を歪めて笑うと、智史の腰を抱き寄せ、たった一人の観客の前で濃厚な口づけを落とした。弘樹の舌が歯列を割って相手の口内にすべり込む頃には、智史の両腕も愛おしげに彼の首へを絡みつく。 たっぷり30秒はそのシーンを見せつけた後、智史は名残惜しげなそぶりで弘樹から身を離し、大塚の方へと向き直った。 「今のが偽装カップルのキスシーンに見えるってんなら、今すぐ眼科に行って来い。風折さんが好きなのは俺じゃねぇよ」 「えっ? じゃあ……」 「相手が誰かなんて関係ない。本気で好きなら取りに行け!」 ほらほら、お前は邪魔なんだよと言わんばかりに手を振って、智史は大塚を追い払った。 「いいのか、あんなこと言って。後で風折さんに呪われても知らないぞ」 大塚の背中を見送りながら、弘樹はぼそりと呟いた。 その台詞に智史は思わず吹き出した。 風折と呪いという言葉があまりにもお似合いだったからだ。 「うわぁ〜、風折さんの呪いはかなり嫌かも。強力そうだしな。でも、安心しろ、お前も充分共犯者だ。呪われる時は一緒に仲良く呪われよう、なっ」 「お断りだ」 冷たく言い切ってはみたものの、智史が真っ昼間から──情熱的なキスをくれ──だなんて耳元で囁いてくれるのならば、ちょっとぐらい呪われてもいいかなと弘樹は思う。 だが、風折が本当に彼らを呪うとしたら、ちょっとだけだなんて中途半端な呪い方する筈がない。 きっちり、しっかり、たっぷりと呪うに決まっているのだ。 幸いなことに、今回の件で彼らが風折に呪われることはなかっが、今後どうなるのかは、神ではなく魔王のみぞが知ることである── |