DESTINY3 (27)



「はいはい、ちょっと通してねー」
「何だよ。後からきて横入りすんな……あっ! 神岡智史!」
 ──フルネームの呼び捨てかよ。
 目の前の一年生の台詞と、その声を聞いて、モーゼが海を割ったが如く、すーっと自分の目の前に開けた対局中の二人までの道に、智史は苦笑した。
 その状況が、自分の置かれている立場を明確に示していたからだ。
 それは多分、一般人が有名人を呼び捨てにしてしまう心境に近いものだろう。
 つまり、一方的に知っていて話題にすることはあるものの、現実の生活に関わってくることは殆どない人物──という定義だ。
 この件がなくても、『今年、唯一編入試験に通った』だとか『風折さんのお気に入り』だとか『クラスメートの前で交際宣言した』だとか、今までも何かと噂のネタにされることの多かった智史の名は、生徒会長になる前から、風折に次いで和泉澤の中に知れわたっていた。
 更に、生徒会長に就任した今となっては、神岡智史の名が誰の口にも上らない日など、1日たりとてないと言っても過言ではない。
 そんな状況下でこんな勝負が行われていて、あげくに、勝負には関係ないのにある意味一番当事者である自分が、その場に現れたのだから注目されるのは仕方がない──
 ──とはいえ、お前ら、基本的に暇すぎ。
 そんな感想を抱きながら、智史はギャラリーが空けてくれた道を、折角だからと素直に通らせてもらった。
 どうやら、現在は弘樹の手番のようで、真剣に盤上を睨みつける彼は、智史がやってきたことに気付いていない様だった。
 その反面、対戦者は余裕があるらしく、意味ありげに智史に向かって微笑んで見せた。
 その笑みを智史はキッパリと無視した。
 風折もこんな微笑み方をするし、それはそれできっちり感じは悪いのだが、そいつの笑みは──ばかっぽいのを承知で表現するならば──ウルトラスーパーデラックスに感じが悪かったからだ。
 一時期流行った何とかの法則に『セクハラというのは『何を』されるかではなく、『誰に』されるかが問題である』とかいうのがあるが、現在の智史の心境はまさしくそれに近しい。
 風折さんならいざ知らず、お前ごときに見下し気味に微笑まれるのは我慢がならん、といった感じだ。
 そんな智史は、弘樹の対戦者がそんな意味で微笑んだのではなく、本人的には爽やかな笑顔で自分にアピってきているということに全く気付いていない。
 そもそも高校生の所有物リストに最も含まれていないだろう、白手袋をわざわざ購入してまで、弘樹に手袋を投げつけたというのに、全く報われていないチェス部の元部長もある意味気の毒だ。
 だが、異性同性に関わらず、元々自分に対する好意に鈍感な傾向がある智史に横恋慕しようと思った時点で、その辺りの多少の報われなさは我慢してもらうしかないし、もっと言うなら、彼のやり方は最初から間違っていた。
 自分に無視されて落胆の表情を浮かべている対戦者の様子には気づきもせずに、智史は盤面をちらりと眺めた。
 ── 一見、互角には見えるな。でも……
 智史は口許にもっていった右手の親指で唇をひとなですると、今や自分の退路をすっかり塞いでしまっているギャラリーを振り返った。
「誰か、棋譜つけてる奴いないの?」
「あっ、俺、つけてます」
 弘樹のすぐ後ろに立っていた後輩の一人が、手を挙げて智史にメモ用紙を手渡したところで、弘樹がようやく恋人の存在に気付き、驚いた様子でその声のした方向へ首を振った。
「さっ、智史! なんで……いや……これは……」
「言い訳は後で聞く。お前は取りあえずそっちに集中してろ」
 別に怒っちゃいないから気を逸らすなと、世界中で弘樹にしか通じない言い方で告げると、智史はメモ用紙に書かれた棋譜を眺めた。
 ここ10年ばかり、実際に駒を手にしたことはなかったが、子供の頃に大人を負かすのが面白くて覚えたことがあるので、智史は将棋が解る。
 解るだけではなく、その時頭にインストールした大量のデータベースがあるので、素人(プロではないという意味で)にはちょっと読み切れないこの後の盤面の変化も想像が付く。
 これを打っているのがプロならば、後手──つまり弘樹立場──の人間は、次の一手を差さずに投了するかもしれない。
 ──それにしても、つくづく感じの悪い奴だ。
 圧倒的な強さで弘樹をねじ伏せるのではなく、わざといい勝負になるような駒はこびをしている辺りが特に。
 棋譜で対局の流れを知った智史は、僅かに顔をしかめた。
 別に何をしたつもりのないのに、いきなり手袋を投げつけられ、ギャラリーに囲まれて集中できない状態で、あげくに全力を尽くしたってちょっとかないそうにない相手と勝負させられている弘樹に同情したからだ。
 人付き合いは得意じゃないが、智史は別に人の気持ちが解らない人間じゃない。
 風折の言う通り、弘樹には退くに退けない理由があってこの勝負を受けたのだろう。
 ──さて、この場合、俺はどうするべきか……
 この勝負を弘樹から自分が引き継ぎ逆転することは、多分可能だ。
 だが、弘樹の舞台に自分がしゃしゃり出るのは、あまり得策ではないだろう。
 いくら、自分が可愛くないことなど百も承知で弘樹が智史と付き合ってくれているとしても。
 智史は再びギャラリーを振り返った。
「チェス部の現部長はこの場にいるか」

☆   ☆   ☆

「ビショップが銀でルークが香車? その駒の動きからいくと、角がビショップで飛車がルークみたいに感じるけど……ああ、確かに、言われてみればどっちも2個ずつあるな。で、ナイトが桂馬? 桂馬より遙かに複雑な動きするじゃんこいつ。えっ、だから面白い? ……ああ、なる程ね、将棋でいうなら王手飛車取りって感じ? で、キングが王なのは解るけど、クイーンが金ってのはどうよ? 有効範囲10倍くらいあんじゃんか。ああ悪い、別にあんたがチェスのルール決めたわけじゃないもんな。で、盤のマス目は将棋より縦横1マス少ない8×8で、取った駒は使えない。OK、それだけ教えて貰えれば充分だ。あと、定石本みたいなやつと、あいつの対戦の棋譜、ありったけ見せてくれると助かるんだけど。……そんな怪訝な顔すんなよ。来年度予算、減らされたくなかったら、素直に生徒会長の言うこと聞いとけって」
 今や、チェス部の部室にひしめくギャラリーは、弘樹と前部長の対戦に集中できずにいた。
 何を思っているものか、ある意味その勝負の当事者ともいえる智史が、チェス部の現部長を捕まえて、部室の端で彼に無理矢理チェス講座を開かせていたからだ。
 勝負の行方など興味がないと言わんばかりに、足をくんで片っ端から本やら棋譜やらに目を通し続ける智史の姿にギャラリーは困惑気味だ。
 とはいえ、将棋の勝負が決まりかけている今、智史が意図していることに気付いている者も数名いた。前チェス部長もその一人だ。
「あんた、彼に随分信用されてないみたいじゃん」
 3六角という弘樹の手を4七金で受けながら、前チェス部長が意地悪く呟く。
 その言葉に、弘樹は苦笑を浮かべる。
「確かに、そういう意味では信頼されてないんだろうな」
 意味ありげな台詞を呟きながら、弘樹は持ち駒の銀を盤面に戻す。
「後手、伊達、4九銀」
 先程からずっとその役目をしていたギャラリーの将棋部員が手を読み上げた時だった。
「弘樹、もういいぞ」
 往生際が悪いのを承知でかなり無理に指し続けていた弘樹の耳に、やっと待ち続けていた智史の言葉が届いた。
 だが、それを素直に表現しない辺りが、さすが智史の彼氏である。
「偉そうに言うな。ギリギリすぎる」

☆   ☆   ☆

「時間の無駄だと思うけど」
「時間の無駄かどうかはやってみなけりゃ解らないだろ。ああ、安心していいぜ、俺、あんたみたいに卑怯な手は使わないから。誓って言うが、チェスをするのは正真正銘初めてだ」
「人聞きの悪いこと言うなよ。俺、将棋が初めてだなんてひとっことも言ってないぜ。それに伊達だって、俺がある程度差せるっての承知で勝負受けたんだろうし」
「なら、ある程度打てそうもない俺との勝負をあんたが受けたっていいじゃないか。事情を知っちゃった手前、一応抵抗する素振りを見せないと、恋人に申し訳立たないしね」
「なにもそこまでしなくても、告白ぐらいさせてくれてもいいんじゃないのかなぁ〜。それを阻止しようとして負けたのは伊達自身なんだから、彼も納得してくれると思うけど」
「納得するってのと、甘受するってのは全く別だろうが」
「じゃあさ、条件つけさせてよ。何だか告白する前から玉砕決定してるみたいだしさ。俺が勝ったら、君は女装して俺と1日デートするってのはどう? それでもやるってんなら受けてもいいけど。それでもやる?」
「……いいだろう」
 弘樹が投了した後、まさかの展開にざわざわとざわめいていたギャラリーは、智史の言葉を聞いて、一気に固まった。
 そのままなら、『あなたが好きです。俺と付き合って下さい』『ごめんなさい』で終わった筈のイベントを、わざわざ自分の首を絞めるような展開に持っていった智史の神経が理解できなかったからだ。
「マジ? そりゃラッキー♪」
 振って湧いた幸運に、前チェス部長は、ブレザーを脱ぎ捨て腕まくりをすると、いそいそとチェス盤に駒を並べ始めた。

☆   ☆   ☆

「そっ、そんなばかな。ありえない……」
「ありえなくないから、こうなってんだろ」
 言葉を失う前チェス部長に、智史は冷ややかに告げた。
「だって、あっていいはずが無いだろうがっ。俺が、全日本ジュニア選手権準優勝のこの俺が、ナイトフォークを仕掛けられるなんて」
「しかも、キングとクイーンにってか。ナイトフォークってのはそもそもそういうもんなんじゃないの?」
「畜生っ! お前、チェスが初めてだなんて嘘つきやがって。初心者にこんな駒運びできる筈ないだろ」
「それと同じ事を弘樹も思っただろうな。但し、俺の場合は本当に初めてだけど」
「……本当に初めてなのか?」
「生徒会長の椅子に誓って」
 智史的には生徒会長の椅子を誰に奪われたところで、痛くも痒くもないのだが、それはそれ、これはこれ。
 大抵の和泉澤の生徒にとって、望んだところで手に入らないその椅子に誓うのが最も真実味がある。
 智史の言葉を聞き、いまやクイーンを犠牲にするしかない状況に追い込まれている前チェス部長は、化け物を見るような視線で目の前の対戦者を見つめた。
「どうする? まだやるの?」
「投了だっ!」
 ガタリと音を立てて椅子から立ち上がり、その場を去ろうとする前チェス部の背中に智史が声をかける。
「言っておくけどな、この程度のことで腹を立ててちゃ、例え友人としてでも俺とは付きあえないぜ」
 智史の言葉に歩みを止めて、前チェス部長は振り返った。
「どういう意味だ?」
「自分が守ろうと思ってた人間に逆に助けられて面白い人間がいるかよ。ましてや、こんな意味のない勝負をプライドを守るためだけに受けた人間が」
「だから?」
「あんた先刻、弘樹に向かって俺に信用されてないっていっただろ」
「ああ、事実だろう」
「信頼ってのは、相手の実力を過大評価することじゃないんだよ。相手の気持ちを信じることだ。自分の意図をくみ取ってくれて、例え俺が何をしたって好きでいてくれるって」
「なんだよ、いきなりのろけかよ」
「のろけじゃなくて事実だ。あんた、本読んだだけで自分を負かした俺のこと嫌な奴だと思っただろう。いや、あんたがどーのってんじゃなくて、大抵の人間はそういうもんだ。そんなところも含めて神岡智史が好きだと言えるか否か、それが弘樹と他の奴の違いなんだよ。だから、俺はあんたに感謝するよ」
「とても感謝してる風には見えないけどな」
「いや、感謝してるさ。俺と付き合ってる弘樹がどんなにすごい奴かって主張する機会を作ってもらえたからな」
 いけしゃあしゃあと言ってのける智史に、前チェス部長は短く乾いた笑いを漏らすと、両手の平を上に向けた。
「これ以上ないってくらいに完敗だ。チェスも恋もな。まあ、幸せにやってくれ」
 言うと、前チェス部長は今度こそ、その場を後にした。
 ふたりのやりとりを呆然と見守っていたギャラリーが大歓声に湧いたのは、それから5秒後。
 同級生やら先輩やらに、どつかれたり、冷やかしの声を掛けられたりしてもみくちゃにされている智史は、前任者に比べて、随分と安い感じな生徒会長である──

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