これってどうよ?(4)



「うわ〜。先生これなに〜?」
「俺に聞くな。シェフに聞いてくれ」
 午後6時、村上宅にて。
 柴田は食卓の上に乗っている、数々の料理に感嘆の声を上げた。
 まあ、色々と思うところもあって、柴田の家には寄らずに彼を連れたまま、村上は自宅のマンションへと戻ることにした。
 1時間後に到着すると帰るコールを入れた後、自宅のドアを開けた村上が最初に目撃したのは、腰に両手をあて、玄関に仁王立ちする妻と息子の姿であった。
 この、最初のお出迎えさえうやむやにしてしまえば、村上が妻子からくだくだ言われる時間はかなり減る。
 これが、村上の色々と思うところその1である。
 『あなた〜っ』という第一声の「あ」を言ったところで彼女は柴田の存在に気付き、0.5秒だけ固まった。
 この後の妻の変わり身の早さに村上はいつも感動する。
 0.75秒後には顔ににこやかな笑みを浮かべ、1秒後には腰に当てていた手で村上の荷物を受け取る。
 そして、ゾッとする程やさしい声で淀みなく言葉を発する。
「おかえりなさいあなた。お疲れだったでしょ。ほら、そんなところに突っ立ってないでお客様にあがってもらいましょうよ」
 村上はこういう妻の姿を見るたびに、そこまでせんでもいいがな、と思うが、その変貌振りは見ていて面白い。
 きょとんとしている達弥の頭を押さえつけて、お客様にご挨拶でしょ、なーんてやってるところなんて笑うなという方が無理だ。
 村上は笑いをかみ殺しながら、妻が既に気付いている事実を告げた。
「こいつ、ウチの生徒の柴田。歳の離れた釣りダチだ。君の自慢のニジマス料理ご馳走してやってくれ」
「ええ、あんなものでよければよろこんで。さあ、上がって下さい」
 相変わらず、にこやかな笑みを浮かべたまま、妻は柴田を招き入れた。
 村上の妻──瑞恵(みずえ)は、別に裏表の激しい人間ではない。
 ただ、村上の仕事に関わる──つまり学園の──人間に対しては、良くできた妻の振りをするのが、彼にとっても彼女にとっても一番良いことを知っているだけだ。
 本当に良く出来た奴だとな、と村上は思う。
 世の中をうまくわたってゆく上で、多少の情報操作は絶対に必要なことだ。
 瑞恵はそれが格段にうまい。
 嘘を付くわけではないが、相手を見極めて、相手が望んでいること、自分達に不利益にならないように振る舞うのが得意だ。
 私はあなたみたいに自分に嘘はつけないから〜、とあからさまに嫌味を言われたことも3度くらいはあるらしいが、村上に言わせるとそれは違う。
 彼女のそれはテクニックであって、嘘ではない。
 もちろん、自分の妻であるから、ひいき目もあるのかもしれないが、そんなことをいう人間は、自分の観察眼の甘さを棚に上げて彼女のことをひがんでいるだけだ、というのが村上の意見だ。
 彼女が村上から受け取ったクーラーボックスを覗いて、今回は珍しく大漁ね、なんて聞き捨てならない発言をしたのに、珍しくは余計だと虚しい反論をした後、自分の背中に隠れて柴田の姿を伺っている息子を前へと押し出した。
「達弥、柴田のにーちゃんだ。噛み付いたりしないから怖がらなくてもいいぞ」
「先生……俺は犬かよ。こんにちは達弥くん」
「ほら達弥、こんにちはって、あっ、おいっ」
 目線を子供の高さに合わせて、こんにちはした柴田の前から、返事もせずに達弥はタタッと走り去る。
「もしかして、俺、嫌われた?」
 頭を掻きつつ苦笑する柴田に村上はそれが杞憂だと告げる。
「いや、違うだろう。嫌いな人に対してはいい子だからな、あいつ」
「えっ?」
 不思議そうな声を上げる柴田に村上は息子の姿を指差した。
 そこには、5歳だというのに巧みにテレビとゲーム機を操作して、対戦型ゲームの画面を立ち上げている達弥の姿があった。
 そして、それが完全に立ち上がると、達弥は柴田の元へと戻ってきて彼の手を引いた。
「えっ? 俺?」
「俺より骨のある対戦相手だと見込まれたみたいだぜ。柴田、和泉澤学園の名に賭けて5歳の子供に負けるなよ」
 あははと声を上げて笑うと、村上は妻にお小言を食らうために、キッチンへと向かった。
 お小言と共に、夕食の準備を手伝わさせられたりなんかしていた村上が、リビングに再び戻った時には、二人の勝負は既に白熱していた。
 どちらも熱くなっているところをみると、どうやらいい勝負なのだろう。
 そのゲームで息子に負けっぱなしの村上がしょっちゅう見せつけられている、余裕の笑みなど今の達弥には全くないし、5歳児相手に真剣になっている柴田の姿からもそれがわかる。
「達弥〜、年上の人間に対して少しは遠慮ってものをしろよ」
「ゆーすけにーちゃんこそ、としうえならじつりょくでかてよ」
 二人のやりとりに、村上は思わず吹き出した。
 子供というのは見知らぬ相手とも、あっという間に友達になれるものだ。
 柴田はいつのまにか達弥を呼び捨てにしているし、達弥も村上が教えていない筈の柴田のファーストネームを呼んでいる。
 しかも、達弥の言いぐさの生意気なこと。
 その台詞に1文字も漢字が含まれていない──筈だ──くせに、一人前の口をきいちゃっているではないか。
 そんな、こんなで柴田と達弥の勝負は、瑞恵が食事を作り上げても、まだついていなかった。
 結局──
「今すぐゲームをやめて、手を洗ってこない人にはごはんは食べさせませんっ」
 という瑞恵の鶴の一声で、達弥と柴田は仲良くならんで洗面所に手を洗いに行った。
 早く早くと達弥に手を引かれて戻ってきた柴田の顔に、すっかりダチ扱いかよという苦笑の表情が浮かんでいるのもまた可笑しくて。
 村上が笑いをかみ殺しながらふと隣を見ると、妻も顔を伏せて肩を震わせていた。
 そんな二人を見て、柴田は、いよいよまいったな〜という顔をしてみせた。
 が、食卓に並んだ料理を見た途端、それは驚きの表情に変わった。
 こんなの見たことねぇ〜と叫ぶ柴田に、これはニジマスの酢豚風で、こっちはニジマス入った餃子で、それは見てのとおりのお刺身、そして、これは我が家イチオシ、ニジマスのムニエルアーモンドソースと瑞恵が嬉しそうに説明をする。
 まあ、村上にとっては見慣れている──とはいえ、こんなに勢揃いすることは、まずないが──メニューなので、ここまでのリアクションはできない。
 ここまで感動されると、作った方も作りがいがあるというものだろう。
 こんなに嬉しそうな表情をするのならば、今度俺もやってやろうと考えた村上は、1週間後余計なことをしたせいで妻にあらぬ浮気疑惑をかけられることになる。
 人間、普段やりつけないことは、しないほうが身のためだという教訓だ──というのは、どうでもいい話。
 感動するのは食ってからにしろ、という村上の言葉で、ニジマス三昧の夕食が開始される。
 俺、ニジマス料理って塩焼きとフライしかないと思っていたと呟きつつ、いちいち『うまい〜っ』と涙を流さんばかりの勢いで、その味に感動している柴田の食いっぷりは、同じ男である村上から見ても感嘆に値するもので。
 達弥ともすっかり仲良くなって、餃子の最後の一つを5歳児と奪い合う柴田のその行動は、その料理の作り手である瑞恵にもすっかり好感を抱かせた。
 おばさんくさいからやめろよ、と止める村上の言葉も聞かずに、やれ自家製の梅酒だ手作りのお菓子だ果物だと、もう食えませんと手を振る柴田に、『若いんだから食べなさい』と、言われた方は絶対に『若くたって食えないものは食えません』と思っているだろう発言を連発して。
 達弥は達弥で、せっかくできた遊び相手を少しでも長く引き留めようと柴田にまとわりつき続け。
 最終的には、満腹すぎて彼の呼吸が変になってしまう状況に追い込んだあげくに、気付けば8月後半に家族でゆく筈だったキャンプに柴田も同行することが決まっていた。
 恐るべし女子供パワー。
 とはいえ、村上もそのことに関しては異存はない。
 はっきりいって、村上がキャンプ地に選ぶ場所に釣り場がないことなど有り得ない。
 釣り仲間が出来ることも嬉しかったし、自分の家族と柴田が仲良くなるのは、村上の思うところその2という奴である。
 結局、昨夜起こった事件の真相は何かというと、大筋では村上の言った通りだ。
 酒に酔って柴田が暑いと言って服を脱ぎだして、暑いと言ったくせに、村上にしがみついて離れなかった。
 まったくもってこれは事実だ。
 ただ、これにおまけがついていたというだけで。
 どうやら、柴田を限界を超えて酒を飲むと、無性にそういう気分になる体質らしい。
 キスしてくれなきゃ離れないと村上の首にぶら下がり、生徒に酒を飲ませた罰だなこれは、と生物教師が渋々唇を合わせると自ら舌を絡めてくる始末。
 だが、ここでハッキリさせておこう。この時点での柴田はまだ全裸ではなかった。
 最後の砦とも言えるボクサーパンツは身につけていた。
 では、なぜそれが枕元に転がっていたか。
 もちろん、それにも理由がある。
 口付けを終えたのち、熱っぽい目で村上を見つめ『先生、どうしよう。俺、もうこんなだよ』と自分の股間に彼の手を導いた。
 人間として、男として。
 それはどう考えても、色々な意味で退くべきところであった筈だが、悲しいかな、柴田ほどではなくとも、村上も酔っぱらいだった。
 情欲に潤んだ瞳と甘えた声、そして男の割には細くて綺麗な首筋にしてやられた。
 気付いた時には柴田を押し倒し、その首に口付けを落としていた。
 夢中になった村上が次に自分を取り戻したのは、柴田が自分の手の中に欲望を吐き出した時。
 なっ──なにやってんだ俺ぇ〜〜っ。
 一瞬にして酔いが冷めるというのは、まさにこのことをいうんだな、としたくもない実感をかみしめながら、そそくさと後始末をした村上は、せめて下着だけでも履かせなくてはと、既に満足げな表情で寝息を立てている柴田の枕元に転がっているそれに手を伸ばした。
 横着しなければ良かったなどと思うの後になってからのこと。
 柴田の身体に覆い被さる様に手を伸ばして、下着を手にとる寸前。
 眠っていた筈の柴田の目がぱちりと空き、村上は思わずその体勢のまま固まってしまう。
 次の瞬間、柴田はにっこり笑って柴田の腰に抱きついた。
 中途半端な体勢で固まっていた村上がその攻撃に耐えうる筈もなく、酔っぱらいの馬鹿力を発揮する柴田の腕を引きはがすことも出来ず、足がつりそうな思いをしながら、掛け布団をたぐり寄せなんとか下半身を覆ったところで村上も力つきた。
 眠りにつく瞬間。
 明日、目が覚めたら、俺も柴田も何もかも忘れていますように──という、村上がした神様へのお願いは、残念ながら半分しか叶えられなかった。
 朝、柴田に起こされた時にも、村上は昨夜の出来事をばっちり覚えていたからだ。
 まあ、その願いが半分だけ叶っていたのは、全く叶わなかったのにくらべて1000倍くらいマシではあるが。
 つまり、思うところその2というのは、いわゆる荒療治というやつだ。
 妻に顔向けできないことをしてしまったという自覚があるからこそ、ふたりを引き合わせることによって自分を戒める効果もあるだろうし。
 よしんば柴田にそういう性癖があり、よもや自分狙いだったとしても、妻の顔を知っていれば、まず滅多なことは出来まいという、非常に狡くて後ろ向きな考えだ。
 しかし、いくら狡くたって、どんなに後ろ向きであったとしても、村上は今の生活が大切だ。
 良くできた妻と可愛い息子のいる、この当たり前な日常が──

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