これってどうよ?(8)
酔っぱらいではあったけれど、柴田の意識はクリアだった。 ちょっとでも気を抜くと、今にも本当に眠りに落ちてしまいそうな睡魔と戦いながら、柴田はソファの上で寝た振りをしながら、村上の気配を伺っていた。 ☆ ☆ ☆ 結局、柴田は居酒屋で酒を飲み続けるうちに、いくら考えてみたことろで、ちっとも答えの出ない問題などを考え続けるのは時間の無駄だという結論に達した。だが、酔った頭で考えてみたって、このよく解らない気持ちに、柴田が名前を付ける権利がないことだけはハッキリしていた。 自分の気持ちがどうであれ、柴田は村上の出す結論に従うしかないのだ。 村上がどんな結論を出したとしても、今ならまだ、いつもとちょっとだけ違う日常が楽しくて、そんな気持ちを勘違いしただけだと思い込むことができるだろう。 決して嫌いではない、村上の妻や達弥を裏切ることもしないで済む。 と、そこまで考えたところで、柴田は急に可笑しくなった。 だって、考えても考えてもわからなかったことの答えが出ていることに、自分でも気付いたから。 敢えて自覚しないようにはしていたけれど、自分は何かを期待している。 だから、そんなことを思うのだ。 何をしたってそこそこ器用にこなす柴田は、退かれる程ではないけれど、周りの人間よりちょっとだけ上のところにいた。 それこそ、鍋敷き1枚程の差ではあるけれど。 解らないことがあれば、取りあえず柴田に聞いてみろ。 面倒な問題には柴田に相談しろ。きっとなんとかしてくれる。 柴田ってしっかりしてるよなぁ。 日々、友人やらクラスメートやらに言われる言葉。 別に、柴田は自分がしっかりしているつもりなどない。 ただ、自分がやらなければならないことを、自分と極親しい友人しか賛同してくれないような言い訳と共に放り出すことをしないだけだ。 誰のためでもなく、するべきことをしないのは、自分自身が嫌だから。 するべきことをきちんとして、文句があったら面と向かって言う。それが、物事を解決する一番の近道だから。 普通だと思ってやっているのに、周りに人間は口を揃えて、柴田のことをしっかりしていると言い、強い人間だとも言う。 そんな訳がない。 しっかりしているのではなくて、しっかりしなくてはと思うからこそ、自分にできる最大限のことをしているのだ。 しかしながら、柴田は努力という言葉が嫌いだ。 努力や努力をしている人間が嫌いなのではない。努力しているつもりになって、こんなに努力したんだからそれを認めろと主張する人間が嫌いなのだ。 本当に努力していたならば、自分で主張しなくても、絶対に誰かが見ているものだし、やるべきものだと思ってしているのならば、自らの口から努力という言葉は出ないだろう。 だから、柴田は頑張っている自分を他人には見せたくなかった。 村上にはああいったけれど、店番や配達なんてさぼってしまいたい時もある。 好きな科目は得に勉強しなくても、ある程度の成績が取れるのは確かだが、全く勉強していない訳ではない。 時間がないからこそ、授業に集中し理解する。 それが、柴田の勉強法だ。 なのに、茶髪にピアスという柴田の風貌が──別に校則で禁止されている訳ではないのに──ベテラン教師には反感をかうらしく、ちょっとあくびでもかみ殺そうものなら、すぐに当てられ質問に答えさせられる。 そして、その答えを完璧に答えると、さぼっている癖に、それで答えが合っているところが憎らしいと悪態をつかれまでするのだ。 だけど、村上は違った。 彼は、生徒の外観なんて気にしていないし、授業態度と結果だけを見る。 期末テストが返された時、柴田にしか聞こえない音量で囁かれた『頑張ったな』の一言。 それが、柴田にとってどんなに嬉しくて、どんなに心の奥底で欲していた言葉か村上は知らないだろう。 店に偶然村上がやってきた時、髪の毛をくしゃくしゃにされたことに文句をつけながらも、子供扱いされることに、秘かに心地よさを感じていたことも。 だから、蜂の巣があることはずっと前から知っていたのに、もう一度村上の傍に行きたくて、あの朝わざわざ知らせに行った。 村上も釣りをする人間で、芦ノ湖に同行できるだなんてラッキーがあるとまでは思っていなかったが。 ひとつひとつを思い起こしてみると、自分が村上に何を期待しているのかが明らかになる。 村上なら自分を理解してくれるのではないだろうか。 他人が他人のことを全て理解するだなんてことは不可能なことは知っているけれど、全ては無理だとしても、村上ならば自分の気持ちを一番近いところで理解してくれるのではないか。 きっと、最初からそんな期待を抱いていた。 そして、村上と親しくなれば親しくなる程、その期待は大きくなる。 柴田と村上は考え方が、ものすごく近い。 多くの言葉を重ねなくても、相手が何を言いたいのかが、感覚的に理解できるし、してもらえる。 もっと、より近づきたいと願ってしまう。 瑞恵や達弥は嫌いじゃない──というか、むしろ好きだ──し、裏切りたくないいう気持ちは本当だ。 しかし、それをブレーキに出来る程には柴田は大人ではなかった。 答えを出すのは村上でも、ただ待っているのは柴田の趣味でも主義でもない。 だから、柴田は思いっきりわがままに振る舞ってみることで、村上の反応を見てみることにした。 多分、もう二度と会うことのない前田や、柴田の普段の生活圏外にある居酒屋の客や店員にどう思われようとかまいはしない。 問題は村上が自分のことをどう思っているかだ。 そんな行動をしてみたところで、多分あきれられるだけだということは解ってはいたけれど、村上はどこまで自分を許してくれるのだろうか。 柴田はそこに興味があった。 あきれたあげくに、面倒見切れんと、放り出されるならば、いっそそれでいい。 中途半端にやさしくされるよりは、気持ちの上でずっと楽だし、人でなしと村上を恨むことも──多分──できる筈だ。 だが、もし村上が最後まで自分を許してくれるのならば── とりあえず、帰りたいと駄々をこねて村上を困らせてみて、更に彼の身体にまとわりつき、その膝の上で眠った振りをする。 まずは、そうしていることを許して貰えたことに、柴田は安堵する。 しかも、柴田が眠ってしまったのを確認したら、自分の頭を膝から降ろし、その辺に転がしておいたって良さそうなものなのに、村上はそれをしなかった。 しないどころか、まるで、子供を寝かしつける時の様に、一定のリズムで柴田の背中を叩き続けてくれている。 実際に酒も回っていて、そうしているのが一番楽な状態ではあったのだが、もしかすると達弥と同じ扱いされてる? と思える位には柴田の思考は正常に機能していたし、背中を叩く村上の手が心地よくて本当に眠りの世界に誘われそうになっている割には、柴田の耳は完全に起きていた。 頭の上で交わされる、村上と前田の学生時代の友達特有の遠慮のない会話に耳を聞き流していると、ふいに村上に抱きしめられる。 前田の発言など、酔っぱらいでしかも半分眠りかけた自分が聞いたって、冗談だと解るというのに。 ──先生、そんなことするから俺に試されちゃうんだってば。 柴田は心の中で呟く。 更に、村上のしている言い訳もちょっとおかしい。何も知らない前田はともかく、それじゃ柴田は騙せない。 もっとも、村上は柴田が自分の言い訳を聞いているだなんて、思いもよらないだろうが。 柴田は更に胸の中で村上に語り掛ける。 先生、俺が酔っぱらいだからといって、それは家に帰せない理由にはならない筈だぜ。 俺がいくら酒屋の息子だからといって、あんなに値の張る酒を親に無断で持ち出せる訳がないし、親父が俺の15の誕生日にくれたのが越乃寒梅(日本酒の銘柄)の一升瓶だってことも知っているじゃないか。そんな俺が酔っぱらって帰ったからといって、親が先生を責めるとでも? 人の金でお前みたいな燃費(酒のね)が悪い奴が腹一杯酒を飲むなって俺が怒られるのがオチだって。 もちろん、村上自身が言っていたように、教師としての立場というのもあるのだろうが、それをいうなら、青少年をこんな時間まで連れ歩いている時点で既にアウトではなかろうか。 でも、村上が自分を前田に渡したくないと思ってくれたことが嬉しい。 柴田がそんなことを思っているとは露ほども知らずに村上は前田に対して言い訳を続けた。 いきなり、あんな質問をされた時には、なんて非常識なことを聞く人だろうと思ったし、結核療養所に変な幻想を抱いている人(柴田、だからそれは君の勘違いだ)ではあるけれど、彼女の言っていることは、筋が通っていて解りやすかった。 柴田自分も不思議でしょうがなかった、あの夜の記憶欠落事件も前田の話を聞くとあっさり腑に落ちた。 なるほど、気が抜けていたのだ。 村上の傍が心地よくてしょうがないのは、自分が必要以上にしっかりしなくてもいいから。 年上として、教師としてのプライドからか、村上も柴田にそんなものを決して望みはしないから。 自分じゃ解らないことも、他人の目からみれば、こんなに簡単に解明できるのかと、柴田は感心する。 まあ、前田の場合は自分の経験があってこそではあるのだろうが。 前田の突っ込みに対して、村上がいくらそんな信頼のされ方はされたくないと愚痴ったところで、声の調子からそれが本心でないことは知れる。 そして、村上が言った言葉に、前田が「まあね」と答えた時。 それまでは、ただ自分の背中の上に置かれて居ただけだった村上の右手の指先に力がこもったのを、柴田は見──感じ?──逃さなかった。 ☆ ☆ ☆ カタン──テーブルに缶を置く音がして、その後、村上が自分に近づいてくる気配を柴田は感じとった。 あれだけ色々なことをやらかしたにも関わらず、柴田がこの場に居るというのが、村上の答えだ。 たとえ、村上が自覚していなかったとしても。 村上が柴田からミネラルウォーターのペットボトルを取り上げる為に、彼の手にそっと触れた時。 柴田の目がパチリと開いた。 明確な意志を持って── |