これってどうよ?(10)
「最近、柴田くん遊びにこないわねぇ〜」 夏休みが空けて1月ほど経ったある日の夕食時、独り言のように呟く瑞恵の言葉に村上は背中ににアイスキューブを放り込まれたような気分になる。 「相手はお前と違って学生なんだぞ。学校が始まればそれなりに忙しくなる。ましてや、あいつは店の手伝いまでしてるんだ。達弥のベビーシッターばっかりやってられる訳ないだろうが」 村上は缶ビールを一口飲んで、心を落ち着かせた後、何とか平静を装って、もっともらしく口を開いた。 「つまんないの〜。ねぇ、達弥」 瑞恵の問いかけに、グリーンピースごはんの豆と無言で格闘していた達弥はこっくりと頷いた。 自分が会いたいだけのくせに、子供をダシにつかいやがってと、村上は渋い顔をした。 とはいえ、瑞恵の気持ちも解らない訳ではない。 今となっては、交友関係がすっかりマンション内と幼稚園のお母さん達に限定されてしまっている瑞恵にとって、柴田との接触は新鮮で本当に楽しかったのだろう。 当たり前だが、柴田の話の内容は、旦那の愚痴やよそのお母さんの悪口や子育ての大変さといったものではない。 方向転換をする時に絶対に直角に曲がる先輩の話や、みんなが通販の話をしている時に一人だけツ反(ツベルクリン反応検査)の話をしていたクラスメイトの話等々、そんなことを面白おかしく語る柴田の話術は確かに村上も時折感心するくらい、大したもんだ。 しかし、それはちょっとばかり目新しいが楽しかっただけであろう。 特に、和泉澤とは別の意味で閉鎖された空間ですごす瑞恵にとっては。 とはいえ、村上も妻のそんな気持ちが解らない訳ではない。 どっちかというと解り過ぎて困る位だ。 なぜって、自分がそうだから。 釣り達としても年の離れた友人としても、柴田と過ごす時間は充分に楽しかったが、恋人としての彼は、また違った一面を見せる。 前と変わらず憎まれ口は叩くものの、少なくとも村上には隠さなくても良くなった自分の気持ちを、ふとした瞬間に表情や行動で露わにするのだ。 それはもう、絶妙なタイミングで。 釣りだ仕事だと家族に言い訳して柴田と共に過ごした時間の中で、人目があるにもかかわらず、思わず彼を抱きしめたくなったことも片手では足りない位ある。 そればかりではなく、村上は柴田の身体にも夢中な状態だ。 生物教師である村上は、ありがたいことにほぼ自分勝手に使うことのできる、生物準備室という小部屋を持つ。 村上が顧問をしている生物部の活動が無く、職員会議等の雑用が入っていない時──つまり、3日と空けずに、ホルマリン漬けの蛙の標本なんかに見物されながら柴田との情事を重ねておきながら、それでもベッドやソファのない不自由は状態では満足しきれず、生物教師の財布の中身はラブホ代に圧迫されているという有様だ。 配達で鍛えていると豪語するだけあって、いい具合に筋肉はついているものの、未だ大人になりきってはいない、少年特有の身体のライン。 普段はきちんと『先生』と発音している呼びかけが、そんな時だけ『センセ』になる甘く掠れた声。 全てを飲み込もうとするかのように、村上に絡みつく熱い体内。 これはもう──夢中になるなという方が無理だ。 自分がこんなにも柴田に夢中になってしまうのは、彼自身の魅力もさることながら、目新しさも手伝っているのだろうとは思う。 今までに経験したことがない体験だからこそ、夢中になる。 ヤりたいざかりのガキじゃないんだからと、自分を戒めながらも、結局は、家族に疑われないギリギリのラインで村上は柴田と過ごす時間を優先させて現在に至る。 瑞恵が嫌いになったとか、達弥のことがどうでも良くなったとか、そんはことは決してない。 後ろめたいことをしている分、却って愛情が深まった──そんな気さえする。 以前、余計なひと言で浮気疑惑をかけられてしまっているから、必要以上にやさしくなどはしないが、家族と過ごす時間を以前よりも大切にできるようになったとも思う。 それに、スイッチの切り替えは自分でも意外な程簡単にできた。 村上の左手の薬指に光るプラチナリングがそのスイッチだ。 指輪をしていない時は柴田の恋人で、している時は瑞恵の夫で達弥の父。 だから、父親モードでいる時に柴田の名前が出ると、なんともいたたまれない気分になる。 瑞恵や達弥にそんなつもりは全くないのだろうが、柴田を独り占めしていることを責められているような気がして。 実際に柴田との関係が瑞恵にバレたならば、責められるのはその部分ではないことなど、充分解ってはいたけれど── ☆ ☆ ☆ 「柴田、風呂行かねーの? もうすぐ1年の時間帯だから混みだすぞ」「いや、俺今日はいいわ」 風呂上がりでタオルを首に、全身からホカホカと湯気を立てている三田村の問いかけに柴田は首を横に振った。 「今日はじゃなくて、今日もだろうが。お前、一昨日も風呂パスしてただろ。いくら涼しくなってきたからっても、そりゃヤバいだろ」 各部屋にユニットバスのついている第1寮とは違い、第2寮には大浴場があり、入浴日は奇数日と決まっている。 雨上がりの校庭で転んでどんなにドロドロになっていようが、真夏の体育で大汗をかこうが、とにかく奇数日。どうしても偶数日に風呂に入りたい人間は、自腹をきって銭湯にいくしかない。 まあ、おぼっちゃまの中には近所のスポーツクラブの会員になって、毎日そこでゆっくりと風呂に浸かっている奴もいるらしいが、そんな人間は極少数だ。 普段は柴田の行動にイチイチ口を挟むことがない三田村だが、風邪を引いて38℃の熱がある時でさえ、風呂に入ると頑張った柴田が2回も続けて入浴をパスするという行動は、そんな彼にも興味を抱かせてしまったらしい。 「入る方がヤバいって。これ見ろよ」 柴田はコットンシャツの襟元を開けて、首筋に付けられたキスマークを示した。 「何? お前、彼女出来たの? そーいや、最近外泊多いよな」 「外泊は前からだよ。彼女が理由な外泊じゃねーってことは、お前が一番よく知ってるだろうが。実家だ実家」 「そうだっけな、酒屋の看板息子。でも、それは彼女の仕業だろ。激しい女だな年上か?」 「ああ、年上のお姉さまの仕業だとも。但し、彼女じゃなくて、実のお姉さまのな。今までも、酔っぱらったら薬局の前のゾウの置物持って帰ってきたりとか、本棚の本を全部逆さに入れ直したりとか色々なことやらかしてくれたけど、今回のは最悪だ。しゃーないから、飯食ったら実家に風呂貰いにいくさ。面倒だけどな」 やれやれと両手を広げて見せた柴田に、三田村はにやりと笑って告げた。 「まあ、そういうことにしといてやるさ。そんな面白い嘘ついてまで隠しておきたい相手なら、もっとうまくやれ。最近のお前ってやたらご機嫌だぞ。多分、今は俺しか気付いてないが、そのままだといずれ誰かに気付かれる。ウチの生徒って他人の幸せと不幸には妙に敏感だからな」 三田村の言葉に、柴田は目を見開いた。 そんな柴田を見て、三田村は満足げに再び笑みを浮かべた。俺って意外と鋭いだろうとでも言いたげに。 だが、続いた柴田の言葉にその笑顔は引きつった。 「……お前も人に忠告なんてするんだな」 「感心するのはそこじゃねーよっ!」 ふたりでひとしきり爆笑した後、三田村は洗濯物を抱えて部屋を後にした。なんでも、今日洗濯しなければ、明後日はくパンツがなくなるのだそうだ。 うまくかどうかは知らないが、その場を誤魔化せた事に柴田は安堵のため息をつく。 柴田が共同浴場に出向けない理由を作ったのは、もちろん姉などではなく村上だ。 三田村に見せたのは首筋のものだけだが、実際は身体中至るところにキスマークが散っているのだ。 村上のことは好きだし、身体を重ねるのも好きではあるけれど、これだけは勘弁して欲しいと本気で思う。 現在の柴田は入浴を実家とラブホのみで済ませざるを得ないなんとも不便な状況にある。 一緒に風呂に入るたびに、柴田の身体に散るキスマークを見て、悪かったもうしないと詫びる村上だが、どうやら無意識でしてしまうらしく、その数は常に一定量を保っている。 プール授業のない時期で良かったと、しみじみと柴田は思う。 そして、来年の夏までには、この悪い癖を直してもらわなくちゃと真剣に考えている自分に苦笑した。 自分たちに来年の夏なんてあるかどうか解らないというのに。 いや、不慮の事故にでも巻き込まれない限り、来年の夏は確実にあるだろう。 ただ、ふたりの関係がどうなっているかまでは、さしもの柴田も予想が付かない。 あんなにグルグル悩んでいたのがばかみたいだ、と思うほどに、瑞恵や達弥に対する罪悪感は全くなかった。 相手が自分の目の前にいないというのが、その最大の理由だろうが、罪悪感だなんてものを感じる暇などない程に、柴田は村上といるのが楽しかった。 恋人──で、いいんだと思う一応──という関係になってから、村上は決して自分が妻帯者であることを柴田に感じさせなかった。 村上がどれだけ自分の為に気を遣ってくれているかは、いくら柴田が子供でも解る。 村上はふたりきりの時、絶対に瑞恵や達弥の話をしはしなかったし、もう帰らないとと時計を気にすることもない。それを気にするのは、村上ではなく寮の門限がある柴田の方だ。 遠出をした時だって、決して柴田の目の前で家族のお土産を買うことなんてしないし、無理だと解っていて柴田がもう1泊したいだなんて我侭を言ってみせても、やさしく笑って、ならそうするかだなんて応えてくれる。 それどころか、単なる教師と生徒という立場である授業中でさえ、村上は今までよく余談で話していた息子の話をしなくなった。 大事にされている──本当にそう思う。 だけど、見るまいとしなくても、授業中に村上の左手薬指に光るリングに目が行ってしまう。 更に、ふたりきりでいる時には、外されているにもかかわらず白く残るその跡はある意味リング自体よりも、瑞恵との年月を主張しているとさえ感じる。 たった1月足らずで柴田は気付いてしまった。 罪悪感がないのは、村上と過ごす時間が楽しくてそんなことを感じる暇がないのでも、相手が目の前に居ないせいでもない。 より強い感情が柴田を支配しているからだ。 いくら村上がそれを柴田に感じさせまいとしたところで、決して変わることのない事実。 村上が帰る家には妻と子供がいるのだ。 どうしようもないことは、解っているのに、その事実が無性に悔しい。 どんな勝負をすればいいのか解らないけれど、彼らに負けたくないと思う、そんな気持ち。 それは、村上といることが当たり前になっており、世間的に認められた立場である、瑞恵と達弥への── 嫉妬── |