2. OFFER

「解った、うちのプロダクションの講師のスケジュールを空けよう。レッスンは週に三回でいいね」
 淀みなく台詞が流れ、困惑を表面に出さずに受け答えが出来た自分に、風折は感謝した。
 もっとも、涼が相手なら少しくらいのへまをしたとしても、察知される心配は皆無だろう。
「ああ、悪いな無理言って。感謝してる」
「感謝なんかいいけど。これって、僕の……否、しかし君はそういうフォーマルな恰好が似合わないね。電車で注目浴びなかった?」
「そんなの着慣れてるか、そうじゃないかの違いじゃん。迅樹だってカジュアルな恰好が似合わないくせに」
「僕は似合わないんじゃありません。着ないだけ」
「俺だって同じだよ」
「まあ、そういうことにしておきましょう」
 軽口を叩きながらも、風折は先程言いかけて、飲み込んだ台詞を唇に乗せるか否かを悩んでおり、結局、前者を選択した。
「で、話を戻すけど。僕は君の発言をどういう風に解釈すればいい訳? 僕のプロダクションからデビューする気になったってこと? それとも学生生活に余裕が出てきて、そろそろ大声を出したくなったってこと?」
「その二つからどちらかを選べというなら、後者かな。俺、少なくても調律の勉強は真面目にやるつもりだから。確かに学生生活は俺の可能性を広げてるよ」
「可能性……ね」
 ぽつりと呟き、着替えに向かったと思われる涼の背中を見つめながら、風折は思案した。
 どう考えても、午前中に出掛けた墓参りから直接戻ったとは思えない時刻、午後十一時を回ってから涼は、妙にすっきりしとした雰囲気を身に纏いつつ帰宅した。
 そして、開口一番、風折に向かって、ヴォイストレーニングを再開したいから講師を紹介してくれと言う。
 取りあえず、動揺を読み取られないよう、受け応えはしたものの、涼の真意が掴めない。
 これが、後輩の神岡あたりなら、行動の前に理屈がついてくるので、本心かミスリードを誘っているのかさえ見極めれば、却って判りやすいのだが、彼の場合は自分の感覚で行動している分、それが読みにくい。
 自分が一番知りたいと思っている人間の感情だけがうまく読み取れない。人生なんてこんなものだと思いつつ、風折はやりきれない気分になる。
 こんな時はヤケ酒でもあおるに限ると思いながらも、明日の仕事を気にしている自分が居て、自制を促す。
 まだ、決して無理の出来ない歳ではない。なのに、自分は明日のことばかり気にして、今を生きてはいない。無性にそんな焦燥感が風折を刺激する。
 それは多分──
 新しい何かを見つけたらしい、涼の姿を目の当たりにしたからだろう。
 そう、チャンスは待つのではなく、自分の手で引き寄せるものだ。
 涼が、杉崎の衝撃的な死から立ち直りかけた今。
 風折迅樹、お前は何をすればいい?──

☆   ☆   ☆

「あっ、ヤバ」
 着替えの途中で何気なくポケットに手をつっこんだ時、カラオケの帰りに逆ナンされた女の子としけこんだラヴホテルの割引券が指先にあたり、涼は小さく呟いた。
 似合わない似合わないと、壮太や風折はいうが、実際先入観なしに、他人が涼の姿を見れば、彼のシャープな顔立ちが、何処ぞの黒服風の印象を与えることを彼女は証明してくれた。
 多分、風折を筆頭に、長いつきあいの友人達は、涼がよく言えば純粋で、悪く言うなら世の中の裏など全く知らない世間知らずだと思っている筈だ。
 しかし、実際の涼は、皆が思っているほど周りが見えていないわけではない。
 どう考えても、自分が実力で和泉澤に合格できたとは思えないし、風折が裏も表もないただの『いい人』だとも、思ってはいない。
 ただ、自分のそういう姿を望む人物に、敢えて事実を告げる必要がないことを知っているだけだ。
 だが、怖いとは思う。
 もし、風折が本当の自分を知ったならば……
 その時、彼に訪れる感情は、怒りだろうか、失望だろうか、それとも悲しみだろうか?
 その日が、出来うる限り遠いことであることを望みながらも、背後から足音を立てて、それが迫ってきているのを、涼は静かに感じ取っていた。

☆   ☆   ☆

「今から一年後をめどに、何本かオーディションを準備する。ただし、うちのプロダクションからじゃない。そうだな、映画の主題歌や新製品のCMソングを歌う人間を探す形にしよう。表向きは、そのプロモーターや企業扱いのオーディションだが、最終的にプロデュースするのはうちだ。用意できるか?」
 数日後の朝早く、風折は自分の経営するプロダクションで、側近の原田の向かって指示を与えていた。
「一年もいただけるんですから、出来ないなんて、口がさけても言えませんけど……」
「言えませんけど……何? 言いたいことがあるなら、はっきり言えば」
 自分の私情が、原田にすっかり読まれていると解ったのだろう、風折は半分開き直って吐き捨てた。
「いえ。社長ってば、なんだか、いよいよ速水真澄の様ですね」
「うるさい! 今ならともかく、この話が公表される頃には、誰もガラスの仮面の話なんかしてないよ!」
「はあ?」
「こっちの話!」
 そう、作者サイドの話である(すみませ〜ん)。
「とにかく、抜かりなく頼む。僕は、打ち合わせの後、学校に行く、今日は戻らないから」
 言いながら、ドアを出て行き掛けた風折に原田が後ろから声を掛けた。
「迅樹さん」
「何?」
 その声に、風折が立ち止まり、振り返る。
「迅樹さんが法学部に在籍しているのって、まさか検事になりたいからとかじゃないですよね」
「はあ? 何で君はそう遠回しな聞き方をするかなあ。経営なんて机の上で勉強したってたかが知れてるだろうが。どうせ大学に行くなら、知識そのものが役に立つ法学部の方が実践的だろう」
 風折の応えに原田は肩をすくめた。
「まあ、そうだろうとは思っていました」
「じゃあ、何?」
「いえ、今後の為にも、迅樹さんには、是非司法試験に通っておいて欲しいなぁと思って」
「……原田、知ってるか? 自分で自分の弁護はできないんだよ」
 諭すように原田に語りかけた後、風折は部屋を後にした。
 それを無言で見送って、ひとり残された原田は、苦笑しながら呟いた。
「弁護してもらうのは、私なんですけどねぇ」
 自分が涼を一番大切にしているのと同様に、自分を一番に考えてくれる人間が居るということに気付ける程には、風折はまだ大人ではなかった。

☆   ☆   ☆

キキーッ。
 ヴォイストレーニングを終え、夕暮れの町中をボーッと歩いていた涼は、耳をつんざくようなタイヤのきしむ音に思わず振り返った。
 同時に、反対車線から強引にUターンしてきたらしい、ポルシェ911Sを視界に捉え、涼は苦笑した。
「若いなぁ〜」
 友人が聞いていたなら、ジジイかお前はっ! と罵倒されそうな情けない台詞を呟いて、涼は再び歩き出した。
 が、次の瞬間。
「乗れ!」
 ドアを開ける音と共に聞こえた声に、強引なナンパだなあ、と興味をそそられ、再度、涼は車道側へと視線を移した。
「はっ?」
 目に付いたのは、先程のポルシェで、意外にも乗っているのはどんなに若く見積もっても三十台にはなっているいい大人。更に、どうやら彼の視線は、涼に向けられているようだった。
「早く乗れってば」
 男の迫力に多少ビビリながらも、涼は笑ってごまかそうと心に決めた。
「ハハッ。俺、母親の遺言で『左ハンドルの車に乗っちゃいけない』って言われてるから乗れません……じゃ、そういうことで」
 ジリジリと後退る涼の姿に、あきれた表情を浮かべながら男は叫んだ。
「お前の母親なら、一昨日元気に魚売ってたよ! まさか昨日死んだ訳じゃないんだろう。この辺、ミニパトがチョロチョロしてるんだから早く乗れ!」
 自分の家庭の事情を知っているからには他人じゃないと思いつつも、目の前の人物に記憶は無かった。
「あの……、どちら様?」
 おずおずと問いかけた涼に、車内の男はサングラスを外し、更に声を高くした。
「お前〜、いい度胸だな。俺だ、赤石だ。まさか、金髪にして髪切って、更に髭を伸ばしてるからといって、俺様が判らなかったとか(判るかよ!)、冗談ぬかす気じゃないだろうな!」
「ええーっ! 赤石さん!」
「マジかよ。……勘弁してくれよ」
 赤石正臣、三十六歳。彼はこの日初めて、サポートしていた人間に顔を忘れられるという、痛恨一撃をくらったのである。

☆   ☆   ☆

「な〜んか、思い出しますよ。工藤さんに拉致された時のこと」
「お前、そんなのんきなことばっかり言ってたら、その内本当に誘拐されるぞ」
「大丈夫ですよ。俺んち、商店街の魚屋ですから」
「……」
 ── こいつは、自分が芸能人だったことさえ、忘れてしまっているのだろうか?
 一瞬、本気で心配しかけた赤石だったが、思い起こせば、涼の思考回路など理解できたためしがないのだ。妙な処で合理的な赤石は、考えても無駄なことは決して深くは考えない。
 これは人生を楽しく生きていくコツである。
 ちなみに、彼の座右の銘(?)は『明日出来ることは、今日しない』だったりもする。
 閑話休題。
「それより、お前、これからどうするんだよ」
 訳の解らない話題を振り切るように、赤石は涼に質問した。
「家に帰ります」
「だ〜か〜ら〜、そうじゃなくて! 芸能界に戻って来る気はないのかって、聞いてんだよ」
 自分の堪忍袋の緒が、限界断裂を起こす寸前だということを自覚しつつ、赤石は辛抱強く質問の仕方を変えた。
「ありますよ」
 赤石の限界を感じたのか否か、意外にも今回の涼の答えはまともだった。
「ふ〜ん。予定は立ってるのか?」
「まさか。思ってるだけですよ、今のところ。まあ、思うだけなら誰にでもできますけど、一応本気です。でも、俺の知らない処で、勝手に予定は立ってそうですけどね」
 意味ありげな涼の台詞に、赤石の表情が一瞬困惑したもの変化し、すぐに納得したものになる。
「その予定に乗る気はあるのか?」
「いいえ。たとえ、どんな条件の良いものでも乗りませんよ。彼はこれ以上俺に執着しちゃいけないんです。」
「その彼の気持ち、解らんでもないがね。まあ、俺達にとっちゃありがたい選択だ」
「はい?」
「いやね。出来れば再デビューもサニーからして欲しいと思ってね。工藤さんの気持ちを考えると。こういう言い方すると語弊があるかもしれないけど、お前ってある意味、杉崎の忘れ形見みたいなものだろう。だからさ……」
「俺、そんな大層な人間じゃないですけど、責任はあると思っています。何とか自分に自信が持てて、もしも、工藤さんや、赤石さん達が許してくれるんなら、『杉崎涼』の名前で再デビューしたいと思ってます」
「お前……、それって……」
 運転中にもかかわらず、赤石は涼を凝視した。
「そうすれば、どんなに辛くても、一年前みたいに逃げ出せないでしょう。杉崎さんの名前に傷が付く」
「なんで、わざわざ、きつい選択するかな。別に杉崎が死んだのって涼のせいじゃないだろう。お前は杉崎陸じゃない、西沢涼なんだ。杉崎の荷物、余計に背負うことはないんだぞ」
「少しくらい余計な荷物背負ってないと、俺みたいな成り上がり者は認めて貰えないでしょう。杉崎さんのためにも、中途半端な処でいつまでも燻ってるわけにはいかないんです」
 涼の台詞に、赤石は片頬だけで笑って、ラッキーストライクに火を点けた。
「お手並み拝見。ただ、俺にも一口かませろ。お前のバックでベースを弾くのは、赤石正臣以外の誰であっても許さない」
「そんな、もったいなさすぎます」
「誰が今のお前のバックに付くって言った。俺の処まで登ってこい」
「っても、いきなりそこまでは登れっこないじゃないですか。赤石さん以外にベースは弾かせるなって言われたって、俺の意志じゃどうしようもないこともありますよ」
「それが、登れる方法が一つだけある」
 真剣な口調で言葉を発すると同時に、赤石はブレーキを踏み車を止めた。
 気が付くと、辺りの景色は麻薬の取引現場のような倉庫が建ち並ぶ埠頭に変わっていた。
 こういう場所で始まる会話には、不思議と秘密の匂いがするのは、ドラマの影響の受けすぎであろうか。「と、いうと?」
 雰囲気に飲まれて、涼は低く呟いた。
「これはまだ極秘なんだが、近々アゲンストは解散する。堀内(ヴォーカル)と佐久間(シンセ)の音楽の方向性が違ってきているというのが表向きに発表される理由だが、本当の処は、佐久間のレヴェルに堀内がついていけないというのが実情だ。かと言って佐久間自身が納得いくように歌えるかというとそうじゃない。だから、佐久間は自分のイメージするレヴェルに達している、もしくは可能性のある新人を捜してプロデュースしようと企画している。色々後処理もあるから、企画が動き出すのは一年後って処かな。時期的にもベストだろう」
 いかにも何かを企んでいますといった赤石の笑顔を見て、涼の全身から冷や汗がダラダラと流れ始めた。
「赤石さん! まさか、俺にその企画に挑戦しろっていう気じゃないでしょう」
「そのまさかだ」
 なーんて嘘だよ〜ん♪ とか何とか言ってくれないかなぁ、等という涼の微かな期待をよそに、赤石の返答は冷ややかだった。
「だって、天下の佐久間徹。しかも、俺、一応杉崎さんの相棒だったんですよ。あんな我侭そうな人が飛び出した杉崎さんのこと許してるとは思えませ〜ん。恐ろしすぎます」
「ばか。それを逆手に取るんだよ。その状況でもお前が選ばれたなら、それは、お前の実力の証明だ。先刻言ったよな。少しぐらい余計な荷物背負わなきゃ、認めて貰えないって」
「その荷物、全然少しじゃないっスよ〜」
 涼から泣きが入ったが、赤石は容赦しなかった。
「心配するな。佐久間は歌に関しては私情を挟まないよ。堀内でだめだというなら、この世に佐久間の気に入る可能性のある男性ヴォーカルは、俺の知る限り、西沢涼、お前しかいない」
「……………………俺、やれますか?」
 長い沈黙の後、やっと発せられた涼の台詞に、ニヤリと笑って赤石は応えた。
「やれますか? じゃなくて、や・る・ん・だ・よ」

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