8. TIMING
「よっ、久しぶり」 またしても時は流れる。 年が明けて既に5月。涼は壮太のマンションを訪れていた。 「全く久しぶりだよな〜。緑くん元気?」 通常はラヴソファと呼ばれるのだろうか? 2人掛けのコンパクトなソファに腰掛け、涼は壮太の恋人の近況を訪ねた。 もちろん、本当に彼のことが気になった訳ではなく、いわゆる社交辞令ってヤツだ。 「緑? あいつは必要以上に元気だよ。ピアノ留学が決まりかけてる」 壮太は缶コーヒーを2本テーブルに置き、向かい側の床にべったりとあぐらをかきながら言った。 缶コーヒーをそのまま出すというもてなし方が、いかにも男の一人暮らしの無骨さを表している様な気がして、このシーンを見る度に涼はいつも楽しくなる。 風折と暮らしていた当時は(神岡宅でもそうだったので)、グラスに入ったアイスティーとか、カップに注がれたコーヒーとかが出てくるのが当たり前だと思っていたが、どちらかというと、そっちの方が普通ではなかったのだろう。 「留学? じゃ、決まったら離ればなれ?」 「多分な、っていうか決まる前から、そんな心配してたってしょーがねーよ。俺は俺で社会人の生活っていうのに慣れるのが精一杯で、最近あんまかまってやってないからな。余所に目を向けるっていうんじゃなくて、ピアノに打ち込んでくれるだけありがたいと思わなければならない立場でございます」 テーブルに手を付き、おどけて頭を下げる壮太は、もちろん不安材料だってたくさんあるだろうに、なんだか楽しそうだ。 「タイミング……」 涼の口からポロリと言葉がこぼれる。 「タイミング? タイミングがどーしたって?」 テーブルにこすりつけるようにしていた頭を上げ、壮太は下から涼の顔をのぞき込んだ。 「いやさ……、お前ら見てると、バッチリタイミングが合ってるって気がするんだよ。ある意味タイミングが合うって、相性がいいってことより、人間同士がつき合っていく上で重要な部分じゃないかなって……」 最初は壮太に向けてだが、後半になるにつれ、涼の言葉は自問自答の様になってくる。 「あ〜、あるかもな」 テーブルから体を起こしつつ、壮太は返答した。 ついでに、缶コーヒーを手に取り、プルトップを引く。 「後、重要なのはバイオリズムっていうのかなぁ〜。こいつが好きだ、一緒に居たいって気持ちが盛り上がってくる時とそうでもない時。これが合わないとキツいかも。っていうか、涼、お前、誰とタイミングが合わないって言うんだよ! 芸能人か? 女優か? 歌手か? 美人か? 独身かっ? オイッ、答えろ〆鯖男っ」 調子に乗る壮太に、涼は開いていない方の缶コーヒーを掴み、投げつける振りをした。 「止めれ〜、その呼び方。なあ、友人として本気で聞くから本気で答えて欲しいんだけど、世間の認識として、俺ってやっぱり〆鯖男?」 「ってお前、缶コーヒー振り上げながら、そんな質問して、俺がお前に本当のことを言えるとでも思ってんのかよ!」 壮太の台詞に、涼はため息をつきながら、振り上げていた手を下ろした。 「壮太……、お前って本当に時々抜けてるよな。それって言ってるも同じだって」 言いながら、缶を開け、涼はぐびりと喉を鳴らしながらコーヒーを一口飲んだ。 「ばかにすんなよ。わざとだよ。そんな質問に、相手の目をじっと見ながら答えられるほど、生憎と人間が出来ていないものでね」 「俺、大丈夫だと思うか?」 「前にも言ったけど、一般人の俺にそんな質問振るなよ。……まあ、俺の個人的な見解としてはイカレた名前の割には歌ってる曲ってまともだからっていうか、難度高すぎって理由でカラオケでもリクエスト伸びないくらいなんだから、涼の実力を見せつけて世間に評価させるって点では成功してると思う」 そこで、壮太は言葉を一端切り、思案に入った。 先程からの2人の会話でも推し量れる様に、涼は既にデビュー済みだ。 しかも残念ながら『〆鯖男』として。 余談だが、涼の佐久間に対する前言は、完全に撤回済みであることは言うまでもない。 結局、佐久間が最初に事務所で、何故、工藤をあれほどまでに追い払いたがったのかが、今となれば容易に想像が付く。 つまり、佐久間はここいらでちょっと遊びたかったのだ。そのお遊びを実現させる為には、杉崎を神聖化してしまっている工藤は邪魔過ぎたと言うわけだ。 確かに、工藤があのまま涼にくっついていたならば、全財産を投げ打った上に借金までして、『〆鯖男』というネーミングだけは止めさせただろう。 常人には理解できないネーミング。 しかし、悲しいかな、この新ユニットは売れていた。 「……壮太」 暫く黙ったままの壮太に、不安になった涼が声をかける。 「んっ? ああ、そんな情けない声上げるなよ。多分だけど、基本的にお前がしてるような心配はないと思うぜ。佐久間さんって、次々と新しいユニットプロデュースするけど、バーンと売っておいて1〜2年で飽きて別ユニットってパターンだろう。顔と実力さえ売れてしまえば、名前なんでどうでもいいよ。佐久間さんが涼を利用するなら、涼も彼を利用すればいい。50/50でお互い様ってヤツだよ。……それよりお前、先刻タイミングがどーのって言ってたよな? 基本的にはそっちの方が問題だよ」 「基本的にってなんだよ」 業界人の佐久間も、一般人の壮太も同じ様な発言をするからには、名前にこだわるのは、ばかげたことなのだろう。 そう思いつつも、一大決心で『杉崎涼』を名乗ると決めた涼としては微妙に複雑な気分だ。 しかし、それよりも今は、自分の何気ない発言から、壮太が何を見抜いたのかが気になった。 「基本的には基本的にだ。ただし、これは一般人の基本じゃなくて、和泉澤出身の人間としての基本なんだけど、気になるんだよ、風折先輩が」 内心ギクリとしながらも、涼は平静を装って応える。 「何でそこに迅樹が出てくるんだよ」 「そう、そこだ。風折先輩のことを名前で、しかも呼び捨てする人間なんて、彼の身内以外では確実にこの世に涼しかいないって俺は断言できるぜ。下手すりゃ母親でさえ『迅樹さん』とか呼んでそうだ」 「だ〜か〜ら〜、なんで迅樹が出てくるんだって、聞いてるんだよ!」 「お前なぁ〜、先刻から俺のことばかにしてくれてたけど、お前がタイミングが合わないことを残念に思ってることなんて、いつまでたっても風折さんの事務所からデビューできないことしか無いじゃんか」 「そっ、そんなこと……」 思わず口ごもった涼に対して、壮太は『笑うセールスマン』の如く、ビシッと指を突きつけた。 「そこで噛んで、しかも口ごもるのは図星な証拠。そして、お前が『〆鯖男』なことが世界で一番気にくわないのは、涼でも、その何とかっていう女プロデューサーでもなくて風折先輩だよ、そこが問題だ」 「それの何処が問題なんだよ?」 「逃げるなよ。それが解ってるから不安なくせに。お前の言ってたタイミング。それってこういうことだろう。涼は一人前のアーティストになってから風折先輩のところに戻って恩返しがしたいと思ってるし、風折先輩は涼に苦労はさせたくない、だから自分の事務所でデビューさせたかった。この部分の気持ちの上でタイミングが合わないんだ」 「壮太……、お前って何者だよ……」 涼は壮太のあまりの鋭さに、大きなため息をつきつつ問いかけた。 「和泉澤の卒業生、しかも純正。そして、お前の友達。この2つの条件満たしてれば、俺じゃなくても解ると思うぜ。単純にそんな人間は涼の周りに俺しか居なかったって訳だ」 「それって、結局俺が和泉澤に入ってなきゃ、成り立たない条件な訳だ……。全く、結局迅樹のおかげかよ。あ〜あ、いつになったら俺は迅樹に恩を返せるんだ……」 「何なら機(はた)でも織るか? まあ、冗談はともかく風折先輩は、お前に恩返しして欲しいなんて思ってないぜ、きっと」 「思ってなくても俺がしたいの!」 そんな涼に向かって壮太はフーンと鼻を鳴らした。 「だったら、一刻も早く自分が納得できる立場になることだよ。お前が受け入れられないのは風折先輩の気持ちじゃなくて、自分自身の立場だろう。今すぐ恩返しがしたいって言うんなら、変なプライドを捨てればいい。お前が杉崎涼でも、〆鯖男でも、無名でも、たとえ芸能人じゃなくても、風折先輩にとっては涼が傍にいるってだけで幸せな筈だ。さーて、どうする?」 「どーするって……」 「いくら寛大な人間でも、いくら好きでも、人間一生は待ってられないってことだよ。多分風折コンツェルンの跡継ぎとして風折さんが遊んでいられるのは、いいとこ後4〜5年だ。お前に残されている選択肢は、ここ1〜2年の間に自分を納得させて、彼の元に戻るか、キッパリ拒絶することだ。中途半端に期待を持たせるくらいなら、拒絶した方が先輩の為だぜ? だからどうするって聞いてるんだ友人として」 「………………」 無言の涼を壮太はじっと見つめる。そして、にこやかな笑みと共に断言する。 「嘘だよ。結局、お前は風折先輩の処に戻るよ。だってそのことしか考えてなかったんだろう」 そう、壮太の言う通り、結局。 風折が涼のことしか考えていないように、涼だって風折のことしか考えていなかったのである。 しかし、お互いに自分の本心を飲み込んでしまった故に起きる嵐は── すぐそこにまで、迫ってきていた── |