昼下がりの保健室(3) 《15禁》
中原が自分のタイミングの悪さを心の底から呪った翌日の授業中。 怪しげな親父の石膏像なんか描かせないで、ヌード描かせろヌードと、木炭片手にアホなことをぬかす生徒に向かって、ならばお前が脱いで台に上がれといっぱしの教師の振りをしながらも、中原の意識は全然別のところにあった。 本来、中原にとって授業中は非常に楽しい時間だ。 美術・音楽・書道・工芸と芸術系は入学時に選択可能だが、人数合わせで第二希望に回される生徒もいるため、非常に前衛的な絵を描く生徒が学年に4〜5人は確実にいる。 最初から上手い絵を描く生徒に自分もこれだけの才能があったらと感心したり、そこそこの生徒が上手くなっていく課程を見るのも楽しい。 更に、先に述べた前衛的な絵を描く者の中にも、学年に1人の割合でこれはこのまま作風としてイケるのではないかという、不思議に魅力的な絵を描く者もいたりして。デッサン力さえあればいいというものではないというのが、絵画というものの謎めいたところだ。 何故こうなるとしきりに首を傾げる生徒に、ちょっとしたヒントを与えたりしながら、机間巡視(きかんじゅんし──机の間を歩いてまわること)をするのはなかなか楽しい時間である。 そんな楽しい時間の筈なのに、中原の頭の中は、天王寺のことで一杯だった。 それは多分、今もスラックスのポケットに入ったままの、保健室のスペアキーのせい。 ── なんのためにこれを? 口止めが目的ならば、昨日で用は足りている。 あんな形で口止めをされなくたって、もとから他人の秘密を言いふらす趣味はない──というか、見られて困ることを不用意にしている人間は、今までの傾向上、感情的な奴が多いので、中原はそんな奴にはむやみに関わらないことを対策としているのだ。 ましてや、男の手──いや、口か?──でイかされてしまったとあっては、何も言えないし、言いたくもない。言ったら最後、その後の出来事までセットで思い出すのは確実だし、仕返しに何を言いふらされるか判ったものではないからだ。 もちろん、中原のそんな心境を天王寺は知る由もないのだから、翌日冷静な状態で口止めのダメ押しをするのが目的かも知れない。 しかし、しかしだ。 中原にスペアキーを渡す必要は1個もないのではないだろうか? 確かに、昨日天王寺は中原をおいて先に帰ってしまったから、鍵を掛けて帰れという意味で預けられたのかもしれないが、そもそもそんなことをする理由がない。 用事があって早く帰りたかったのか? なんて間抜けなことを考えたのはほんの数秒。早く帰りたい奴が、保健室であ〜んなことやこ〜んなことをしているもんか。 ならば、中原の後で自分が帰るか、一緒に出るかすればいい。 こ〜んなことの後で、奴に見送られたり、一緒に保健室を出たりすることを想像すると、それはそれでゾッとするが、意味ありげにスペアキーなんぞを握らされて、その理由を延々と考えるはめになるよりはずっといい。 だって、スペアキーの件がなくたって、中原は天王寺の呼び出しに応じる他はないのだから。 保健医のあの様子だと彼は自分の性癖が周囲にバレることを、痛くもかゆくも思っていない様子だ。だが、中原は違う。俺の口の中でイッただなんて不名誉な噂を流されては困るのだ。たとえ、それが事実で不可抗力だったとしてもだ。 「…せい。先生。な・か・は・ら先生っ」 「ん? どうした」 机間巡視もせずに腕組みしながら、窓辺にもたれて、そんなことばかり考えていた中原は、生徒が自分を呼ぶ声に、ハッと我に返る。 中原は未だに『先生』という呼びかけに対して反応が鈍い。それが自分に対してのものだと認識できないからだ。 「アレ……いいんですか?」 1年B組のクラス委員が親指で指差す方向を見ると、消しゴム代わりに使用する食パンをムシャムシャ食っている奴が2〜3人。 「いいわけあるかっ。こらっ、お前らっ。食ってんじゃねーよっ」 だって、腹減っちゃって〜と、エヘヘと笑って誤魔化す生徒に中原がした、食パンはバターとジャム(どちらか片方ではなく両方)を塗らなけりゃ食料にならないんだという説教は、その日の昼休み、学食の話題を大いにさらったというのは、あくまでも余談である。 ☆ ☆ ☆ さて、全授業を終え、生徒が部活や昼寝にいそしむ放課後を迎えた今も中原は悩んでいた。但し、先程とは理由が別だ。 彼にとってスペアキーの謎は、既にどうでもいいものになっていた。 中原が今悩んでいること。 それは、一体自分は何時に保健室に行けばいいのだろうか。 昨日、天王寺が最後に残した台詞『明日、ここで、同じ時間に。いいね』 この内、明日とここでは明確だ。 『明日』というのはいわゆる今日で、『ここで』というのは保健室。 しかし、同じ時間とは? 天王寺がこの台詞を言った時間だろうか? それとも中原が保健室のベッドに潜り込んだ時間だろうか? はたまた、天王寺が生徒といががわしいことをしていた時間だろうか? 下手な時間に行って、またあんなところに出くわしたら……なーんて、いくら考えたところで、答えが出る筈もない。 結局は、そんなあいまいに時間を指定した本人が悪いのだと、中原は自分が昨日保健室を出た時間、6時にそこに向かうことにした。 大体にして、昨日はともかく今日は美術部の活動日だ。職員会議でもあるならともかく、私用で生徒が自分を捜し出せない場所に存在するのはよろしくないのだ。 そんなこんなで、中原は二学期の指導案の見直しなんぞをしながら、時間を潰し、6時きっかりに保健室に向かった。 到着してみて、中原は自分の判断が正しかったのを知る。 なぜなら、保健室のドアに『外出中』の赤札が出ており、更に『印刷室に居ます。戻り予定は6時』という貼り紙がされていたからだ。 さて、どうしたものかと腕組みをして中原は考える。 一端戻ってリフレッシュコーナーで煙草でも吸ってくるか。それともスペアキーで入ってしまうか。 いや、天王寺が不在な時に保健室に入ると、ろくなめに遭わないのは昨日で経験済みだ。 「天王寺先生居ないんですか?」 やっぱり一服してこようと、踵を返しかけた時、背後から声がかかる。 振り返って見ると、ブレザーのボタンの色から2年生だと知れる生徒が紙の束を抱えて立っていた。 「ああ、印刷室らしいね。もう戻るみたいだよ」 貼り紙を指差し、中原はその生徒に見える様に身体を脇にずらした。 「え〜っ。今日中にアンケート出せっていうから、今まで残って集計したのに、酷でぇな〜。そう言ったからには保健室にいるのが教師としての義務だと思いませんか、中原先生」 こんなことに義務も権利もないだろうと、中原は微笑を漏らす。 「急いでるの?」 「ええ、ちょっと。金おろしに行きたいんですよ。近所のATM6時半までだから」 「なら、俺が預かろうか?」 と申し出ると、目の前の生徒は困った様に眉を寄せた。 「いや、実は帰ろうとした時に天王寺先生につかまって、アンケートの集計出せって言われて。人質…じゃなくて…もの質? に鞄預けてあるんですよ。財布も鞄の中だから……ペンケースじゃ金は下ろせないでしょ」 確かに。加えて、消しゴムやシャープペンシルでも無理だろう。 社会人の自分と違い、学生──特に高校生──の金が無いは大抵の場合、かなり切羽詰まった状況だ。 自分の経験を思い出し、いたく同情した中原はスラックスのポケットから、保健室のスペアキーを取り出した。 「なら、開けてあげるよ」 「えっ?」 驚く生徒に笑って見せて、中原は保健室の鍵を開けた。 勝手が分からず、壁を数回叩いて電気のスイッチを探り当てると、学園の指定鞄が天王寺の机の上に乗っているのが目に付いた。 「これでいいのかな。ああ、アンケートも預かっておくよ」 机の上から鞄を取ると、中原は入口に立つ生徒に差し出した。 が、急いでいる筈の生徒は、何故かそれを受け取ろうとせず、アンケートの束を渡そうともしない。 「どうした?」 「……で」 「えっ」 俯きながら低く呟く、その生徒の声が聞き取れなくて、中原は問い返した。 「なんでっ。どーしてお前が保健室の鍵持ってんだよっ」 「えっ?」 生徒の迫力に押さされて、中原は教師に向かってお前とは何だと言うこともできず、ただただ驚くばかりだ。 「どーやって、天王寺先生に取り入ったんだよっ!」 「取り入ったって……?」 取り入ったもなにも……そんなことはしていないし、したくない。 「その鍵だよ」 「鍵? ああ、昨日鍵を閉めといてくれ預かったんだよ。今はそれを返しに来ただけだけど」 「嘘だっ。それ、あんたの為に作ったんだろ」 などと詰め寄られても、単なるスペアキーにこんなに熱くなられる理由が中原にはさっぱり解らない。 「なんでそうなるの。単にスペア預かっただけだって」 「ここの鍵、一見普通の鍵に見えるけど、その辺の鍵屋じゃコピーなんて作れない電子ロックだって聞いてる。メーカーに特注するから1本3万だって、先生言ってた。自分のと守衛室にあるのと2本だけだから、今度はどんなに頼まれてもスペアは渡せないって……」 「それって……」 以前はここのスペアキーを持っていたと言っているように聞こえるのは、決して中原の気のせいではないだろう。 「畜生っ〜。最近先生の態度が変だったのって、お前のせいかよっ! やることはやるくせに、前みたいに心は開いてくれなくて…、俺…俺っ! 絶対お前なんかに負けないっ!」 最後に、中原の顔を睨みながら、アンケート用紙を床に叩き付け、彼は走り去った。 「って、そんなこと俺に言われても……つーか、オイッ、お前、鞄ッ」 と叫ぶ中原の声は虚しく廊下にこだましたのみだった。 だから中原、自分でも思っていたではないか、保健医が不在の時に保健室に入るとろくなことがないと── |