昼下がりの保健室(5) 《15禁》



 中原は考えを深く掘り下げないお気楽な奴ではあるが、決して察しの悪い人間ではない。
 保健医の『恋人になって欲しい』という発言が『恋人の振りをして欲しい』という意味だときちんと理解できていた。
 しかし、理解できるのと納得できるのは違う。
 中原としては保健医のその作戦を、大いにどうかと思っていた。
 ライバルの出現は相手を煽ることはあっても退かせることなど、まずはない。咲山とかいう生徒がその代表例だ。
 だから思ったままを告げる。
「その作戦はどうかと思います」
 とはいえ、そこまで思ったままを伝えることこそ、どうかと思われる。
 そんな中原の発言に、天王寺は声をあげて笑った。
「いや〜、ほんっとうに君って素直でいいねぇ。確かにどっかの同人誌みたいな話の流れだね」
 こら、保健医。それは冴木に対する挑戦か?
「同人誌みたいかどうかなんて俺には解りませんけどね。悪趣味ですよ」
「悪趣味ねぇ。別になんでもいいけど、この作戦、もう動き出してるよ」
「はっ?」
「だって、咲山くん鞄置いて帰っちゃったんでしょ」
「はあ」
「多分、君を勝手にライバル扱いして、悪態までついたでしょ」
「……まあ、そうです」
 何故そこまで判る、保健医。
 よもやそれもお前の作戦か、と思いかけた中原だが、普通に考えてそれは無理だ。
 そもそも、咲山はともかく、中原がいつ保健室にやってくるかなんて天王寺に予想が付く筈がない。
 中原の予想はある意味正しくて、ある意味間違っていた。
 保健医はただ、咲山を残すことでそうなる確立を上げただけである。もちろん、本日美術部の活動があることも計算に入れて。
 結果、まんまとその計画は成功をみた。それだけだ。
「なら、僕がここで、君に協力をお願いしてもしなくても、結果は同じだよ」
「同じとは?」
「僕に協力したってしなくたって、咲山くんには敵視されるってこと。だったら、まだ僕に協力した方がいじめられがい、あるんじゃないの?」
 やりがいだとが生きがいだとかならばともかく、いじめられがいだなんて、中原はちっとも感じたくはない。ただ、無意味に敵視されるのはもっと嫌かもしれない。
 結局は引き受けることになるんだろうな、と自分の流されやすさとふがいなさを中原はしみじみと噛みしめていた。
「俺って、なんだかすごく不幸な気がする……」
 思わず漏れた中原の呟きを、天王寺は笑顔で受け止めた。
「僕は君って結構幸運だと思うよ。なんてったって、僕の恋人になれるんだもの」
 けっ、良く言うよ。という中原の思いは、思い切りよく顔に出ていた。
「そんな顔しないの。いいこと教えてあげるからさ。同じ芸術系だからって理由で工芸の講師の細川先生、君になにかと親切でしょ」
「それがなにか?」
 工芸のクラスで陶芸の講師をしている細川は、中原の父親の様な年の頃で、落ち着いた雰囲気が素敵な陶芸家である。が、素敵なのはあくまでも雰囲気だけで、外観はいわゆる中年以外の何者でもない。
 中原は幾度から彼に誘われて、居酒屋に飲みに行ったことがある。
 見かけによらず、酒には滅法強い中原は、その時、ビール1本で酔える細川が安上がりで羨ましく思ったものだ。
「彼、学内じゃ有名だよ。気に入った子連れ出して、ご馳走なんかして、気を許させておいて、最後には自分がご馳走様」
「なっ、なんですか、それっ! どうしてそんな人を講師にしておくんですかっ」
「だって、その癖さえなければ、陶芸家としての腕は一流だもの」
「だからってっ!」
「そう、怒るな。同意の上なら、まあ、見て見ぬ振りっていうのが学園の不文律なんだけど、昨年くらいから彼の行動は目に余って来てね。学園側も同意の上だとしても、今度生徒に手を出したら首だと宣告してある。実際、僕がカウンセリングをしている生徒にも1人、彼に関係を強いられていたのがいるよ。だから、ね」
「だから何なんですか?」
「彼、生徒に手を出すなとは宣告されているけど、教師に手を出すなとは、まだ言われてない筈だから」
 保健医の言葉に中原は身を震わせた。
「まっ…まさか?」
「まさかというより、当然って感じ? そう、狙われてるのは君。さて、どうする?」
「どっ、どうするって?」
「僕の恋人になってくれるなら、どんなことをしてでも僕が彼から君を守ってあげよう。だけど、そうじゃないなら知らないよ。いくら警戒してても薬でも盛られちゃったらねぇ〜」
 そんなことをしでかしそうなのはお前の方だ、と思ったものの、さしもの中原をそれを口や表情に出すほど間抜けではなかった。
 それに、心当たりもあった。
 外じゃゆっくり飲めないから、今度自宅に遊びに来いと、細川にしつこく誘われていたのだ。
 工房には自分しか居ないから、遠慮することはないと。
 しかし、中原はその誘いをのらりくらりとそれを断り続けていた。
 もちろん、保健医の言うような身の危険を感じてのことではない。
 つき合いもあるし、陶芸家としての腕も尊敬しているから、居酒屋ぐらいにならお供するが、ぶっちゃけ弱い相手と酒を飲んでもちっとも面白くないからだ。
 が、あまりに断り続けるのも何だから、1回くらいは……と思っていた矢先のこの情報。
 審判の気持ちひとつでどちらにでも転んでもおかしくない、ギリギリセーフみたいなものである。
「ねっ、君はひどい目に遭ったと思っているかもしれないけど、あんな親父にやられる位なら、若くてテクニシャンな僕にイかされる方が大分マシだったでしょ」
 確かに幾分マシかもしれないが、どっちも我が身に降りかからないのが一番いいに決まっている。
 そんな、中原の心中を察したのか、保健医はダメ押しのひと言を追加した。
「それに、君を狙ってるのって彼だけじゃないしねぇ〜。さてさて、実際誰かに襲われてみる? それとも、身の安全は確保されてる僕の恋人になる?」
 究極の選択っていうのは、こーゆーことをいうんだな……と、中原はちょっと遠い目をした。
 しかし、ここまで言われてしまっては答えは決まっている。
 なんせ、相手は6年間も男ばかりのこの学園で過ごした上に、そこに舞い戻ってきている内情を知り尽くした保健医だ。多少の誇張はあるかもしれないが、言っていることに大筋で間違いはないのだろう。
 そんなつもりが全然ない中原に──自分を対象とした──男の下心が感じとれる筈もなく。
 下手をすると、今以上に男としての不名誉を背負ってしまうことになりかねない。
「……本当に、身の安全は確保してくれるんですね」
「約束しよう。まあ、その為にキスくらいは我慢してくれたまえ。なぁに、減るもんじゃなし、直ぐに慣れるさ」
 確かにキスは減らないだろうが、その前に自分の神経がすり減ってしまいそうだと、中原はがっくりとうなだれて、大きくため息をついた。
 そんなことをしていた中原は、保健医が小声で『君が望まない限りは、ね』と付け足したのを知る由もなかった。

☆   ☆   ☆

「寿司屋の湯飲みに、コーヒー出すのはやめて下さいって言ったでしょっ」
「どうして。シブくていいじゃない、この湯飲み」
「6万5千歩くらい譲って、寿司屋の湯飲みはよしとしましょう。でも、あなたのその湯飲みはなんです。趣味が悪い。お茶ならともかく、そんな湯飲みでコーヒー飲むなんて、俺の美意識が認めませんっ」
「君の美意識と保健室の備品は関係ないだろう。なあ、浪岡」
 保健医に問われ、その寿司屋の湯飲みを手にした生徒はこくんと頷いた。
 例の取引が成立したことにより、中原が保健室に頻繁に出没するようになってから半月あまり。
 今は、その地盤を固めているところである。
「他に容器がないならともかく、俺の買ってきたカップはどうしたんですか?」
「えぇ〜、折角の中原先生からのプレゼントだもの。勿体なくて使えないよ。好きな人からのプレゼントってなかなか使えないよな、浪岡」
 浪岡と呼ばれた生徒が再び頷く。
「生徒の前で悪趣味な冗談はやめて下さい。君も、こんなイかレ保健医の言うことに、いちいち頷かないの」
「酷いよなぁ〜浪岡。浪岡なら僕の気持ち解ってくれるよね」
「……解ります。中原先生、天王寺先生の気持ち解ってあげて下さい。先生は中原先生からもらった物、他の人に使わせたくないんですよ。僕なんかほら、こんな消しゴムの切れっ端でさえ、誰にも触らせたくないですよ」
 そう言うと、浪岡はブレザーのポケットから、カッターで切り取られたと見えるプラスティック消しゴムの切れ端を取り出した。
 目を伏せて、辛そうに呟く浪岡を見て、中原は自分も辛くなる。
 あたって砕けることも出来ない辛い恋心。
 しかし、それがどれほど辛いことなのかを、自分はまだ理解しきれていないのだろうと中原は思う。
 そんな思いを振り払うように、中原は再び保健医にかみついた。
「いや、浪岡くんの言ってることは、よく解るよ。でもね、この人は別。人が嫌がるの見て喜んでるだけなんだから。だってそうでしょう。ちゃんとここにはスプーンもあるのに、この人はコーヒーかき混ぜるのに割り箸使わせるんだよ。だぁ〜っ、言ってる先から割り箸で混ぜんなって!」
「混ざれば一緒だよ。口うるさい恋人を持つと大変だよな〜、浪岡。いや、恋人だったらまだマシか。恋人でもなんでもない人間に口うるさく言われたらたまったもんじゃないよな、浪岡」
「天王寺先生っ、イチイチ浪岡くんに振らないで下さいっ。彼が迷惑でしょう」
 そんな中原の言葉に、浪岡は首を横に振った。
「僕もそう思います。全然そんな気ないくせに、アレするなこれはダメって。あげくに、俺の好きなお前はそんな奴じゃないだろうだとか、思わせぶりなこと言うのって、興味持たれないより残酷です」
 多分、自分のことを語っているのだろう。静かに静かに語られた浪岡の言葉を、保健医は気付かぬふりで、軽く受け止めた。
「ほら、浪岡くんだってこう言ってる。これから君のことを残酷人間中原って呼ぶことにしよう。うん、我ながらいいネーミングだ」
「思いっきり妖怪人間のパクリじゃないですかっ。だいたい、俺がいつ思わせぶりなことしたって言うんですっ。普通、男が男から物貰ったってそんなこと思わないでしょう」
「中原先生……、普通、男が男にカップなんてプレゼントしますか?」
「はっ?」
 浪岡の言葉に中原は固まった。
 今は、こうしてネタにしているが、美意識がどうしても許さなくて自分が天王寺にカップを2客プレゼントしたのは確かだ。
 しかも、天王寺に頼まれた訳ではなく、自分が勝手に。それって、普通はしないことなのか?
「ねっ、普通はしないこと当たり前の様にしといて、この言いぐさだもの。恋する男は辛いよな〜、浪岡」
「だから、浪岡くんには振るなって!」
「他の先生には丁寧語で、僕にはタメ口きくくせに、それでも特別じゃないんだってさ、浪岡。ニブい相手を好きになるとお互いに苦労するよな〜」
 保健医の問いかけに、全くだと言わんばかりに浪岡は頷いた。
「でも、先生、諦めた方がいいですよ。好きになっちゃった方が負けなんですから」
 しみじみと呟かれた浪岡の言葉に、お互い目を見合わせた後、天王寺と中原は大爆笑した。
 笑われた浪岡は訳が解らずきょとんとしている。
 どうやら辛い恋は、少年を大人へと導く様である──

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