昼下がりの保健室(7) 《15禁》



 細川が授業を早めに切り上げたことを知らせてくれたのは、浪岡だった。
 普段よりも随分と早い時間、というより、まだホームルームも始まってはいない時間に浪岡は保健室に顔を出し、どうしたと尋ねる天王寺に自分の選択する工芸の授業が予定より随分早く終わったと告げた。
 中原は未来永劫知ることはないだろうが、何を隠そう、浪岡こそが細川の被害にあった生徒の最後の一人である。
 工芸(主に陶芸)を選択できるからという理由でこの学校に進学した浪岡は、もともと陶器に興味があった。
 あれこれと積極的に質問してくる浪岡に、細川は、なら一度工房に遊びにおいでと親切面して誘いを掛け、その日事件は起きた。
 一端そういう関係が出来てしまうと、浪岡の立場は極端に弱くなる。親にばらすと脅され、自分ではどうすることも出来ずに、嫌々ながらも細川との関係を続けて居る時、浪岡の暗い表情に気付いて保健室に引っ張り込んだのは、意外にもきちんと仕事もしている保健医だった。
 その時の浪岡の精神状態は本当に最悪だったと言っていい。
 細川と関係を持つことによって、浪岡は自分の親友に対する恋心に気付く羽目になったのだ。
 一生、気付ぬままでいられたら幸せだったのに、と思ったことは1度や2度ではない。
 普通の状態で気付いたとしたって、その恋の行方は困難だったに違いないのに、今の自分はこんなにも汚れている。それどころか、友人でいる資格さえないのではないだろうかと思い悩む毎日。
 そんな浪岡の話を聞いて、天王寺は素早く行動を起こした。
 好き放題やっている様であるが、保健医は身体の関係を持つならば、あくまでも合意の上でというのをポリシーとしている。
 と言えば恰好がいいが、実は面倒に巻き込まれるのはまっぴらゴメンというのが、その最大の理由なところが、やっぱり天王寺である。
 ともかく、匿名の投書で細川の悪事を暴いたのは保健医だし、浪岡が心に抱える傷を癒したのも彼だった。
 天王寺だって生まれた時から、こんなにも自信満々に生きてきた訳ではない。浪岡と同様の年頃には悩みもしたし、辛い経験もした。
 それをひとつひとつ乗り越えて、今の自分があるのだから、その経験も決して無駄ではなかっと保健医は思う。しかし、浪岡のした経験は一人で乗り越えるにはあまりにも辛すぎる。
 時々──否、しょっちゅうその枠を踏み越えてしまうものの、もともとお兄ちゃん気質は必要以上にを持ち合わせている天王寺だ。
 今はまだ彼と一緒にいるのがは辛いという浪岡が、その同室の友人が部活を終える頃に保健室に現れて時間を潰していくのに付き合って現在に至る。
 これが僕の仕事なんだから、君は気にしなくていいと保健医は言うが、浪岡は自分を救ってくれた天王寺にいつか恩返しが出来ればと常々考えていた。
 だから、天王寺が本気──口調は軽いが──だということにちっとも気付いていない中原に、それとなく話を振ってみたり、保健医の味方をしてみたりしていた。
 生徒に手出しは厳禁と学校側から釘を差された細川が、中原を狙っている気付いていながら、それでも天王寺は、絶対その話を浪岡に振らなかった。
 だが、誰が気付いていなくても、浪岡には細川が中原を狙っているということが解った。
 思い出したくもないが、自分が経験者であるがゆえに。
 いつもいつも、保健室に出没している浪岡は、先週、先々週と細川の企みが失敗したことを知っている。
 なぜなら、その日、中原は自分と共に7時近くまで保健室に居たからだ。
 そして、今日──。
 授業が始まった時点から、細川が妙にそわそわしていることには気付いていたが、できるものなら選択教科を変わりたいと思うほどに、浪岡はあんな奴の顔は見たくはなかったから、敢えてそちらを見ないように、自分の作品に集中していたのだ。
 更に、細川が用があるからと、いつもより10分早く授業を切り上げた時、浪岡はその目的に気付いた。
 後片づけが終わったらチャイムがなるまで自習──後片づけが終わった後に、一体どういう風に陶芸を自習すれば良いのかが、ものすごく謎ではあるが──と言い残して細川は教室を後にしたが、浪岡はすぐさま工芸室を飛び出した。
 途中で教師に見とがめられないように、具合の悪い振りをしながらも、保健室へと急いで向かい、天王寺にことのいきさつを説明する。
 その報告を聞いて、保健医は焦る風もなく、ふふんと不敵な笑みを浮べ、浪岡に礼を述べると保健室を後にした──

☆   ☆   ☆

 いつもいつも冗談めかしてはいるが、保健医が中原に言っていることは結構本当だ。
 浪岡が保健室でいつもご馳走になるコーヒーはインスタント以外だったことはないし、先生こんなのあったっけ、と不用意に戸棚のカップに触った生徒がこっぴどく叱られたのも事実なのだ。
 たまたまその生徒は、中原にライバル宣言して走り去った咲山であったが、これは本当にたまたまだ。
 それに触ったのが誰であろうと保健医は同じように、怒鳴り声を上げただろう。
 いや、最初は本当に冗談みたいなものだった。
 いちいち面白い反応をする中原を見ていて飽きない奴だと、もっと見てみたいがゆえに、この作戦を強引に承知させた。
 笑ったり怒ったり、泣きはしないものの暴れてみたり、からかわれてちょっと拗ねてみせたりする中原の行動は、思った通り見れば見るほど面白くて。
 ここ2週間ばかりで、保健医はすっかり中原にはまっている自分に気付いていた。
 ちょっと癖があるけれど、細くて柔らかそうなその髪に触れてみたいと思う。色白だが決して不健康には見えないその肌に、鮮やかな色の花を散らしてみたいと思う。無理矢理な理由をつけたりしないで、その唇を味わいたいとまで。
 どうした天王寺徹、行っときゃいいじゃないか、と自分自身を叱責するが、どうしても踏み出すことができない。
 つまみ食いがしたい程度の相手ならば、いくらでも行動に出られるだろう。
 最初の出会いがああだったというのに、今はすっかり自分に気を許して、堂々と簡易ベッドで仮眠をとる様な奴でなければ、ここまで魅かれなかっただろう。
 だからこそ、自分に無邪気に微笑む中原の笑顔を保健医は奪いたくはなかった。
 もう二度と、同じ失敗をしたくはなかったから。
 冗談めかした愛の告白は、天王寺の想いが外に溢れだしたもの。
 無理だとは思いつつも、いつかこの想いが中原に伝わることを、彼は願う──

☆   ☆   ☆

 天王寺の運転するインプレッサの助手席で、中原は考えていた。
 うまいこと丸め込まれて保健医に協力をすることになった中原は、話が話だけに、自分に敵意を持っている人間はいても、浪岡の様に自分と天王寺の仲を応援してくれている人物が居るとは思いもよらなかった。
 天王寺はいわずもがなだが、浪岡の思わせぶりな発言だって、保健医の言葉に乗っかって自分をからかっているだけだと判断していたのだ。
 しかしながら、浪岡の本日の熱い語りは、そんな中原の考えを少々揺るがせた。
 なぜなら、人をからかう為だけに、1時間も熱弁を振るえる人間がいるとは思えないからだ。
 中原先生の飲んでいるコーヒーは本当に特別だ、から始まって、今までベッドでの昼寝を許された人間はいないだとか、気が付いたら中原の贈ったカップの置き場所が鍵のかかる引き出しに替わっていただとか、天王寺の携帯の番号を知っているのは中原しかいないだとか。
 中原先生は特別なんですよ、と・く・べ・つ。
 と、その1時間の間に何回聞かされたことか。
 それは自分が保健医に協力しているからだ、と理由をつけるのは簡単だが、微妙にそれだけじゃ、ここまではしないだろうと思うことがあるのも確かだ。
 全然反対方向なのに、大抵の場合天王寺は自分の車で中原をアパートまで送ってくれるし、今日だって本当に守ってくれた。
 今のところ咲山以下、天王寺と関係を持つ者からの攻撃はないし、何だかこれでは中原の丸儲けな感じなのだ。
 こんなに先払いをされてしまうと、後からどんなやっかいごとが襲ってくるのか、少々不安になるくらいに。
 それとも、浪岡の言う様に自分は本当に特別なのだろうか?
 いや、恋人の振りをしているのだから、少しくらい大げさに特別扱いしなくては、嘘がバレてしまうからだろう。
 でも、人目がないところで自分に親切にする必要性は?
 ああ、普段からそうしておかないと、いざというときボロが出るからか。
 誰にも教えなかったというプライベートな携帯の電話番号を自分に教えてくれた理由は?
 守ると約束した手前、今日みたいなことがあった時に連絡が取れなければ困るからか。
 強引な性格と違い、意外と安全運転な保健医の横顔を見つめながら、中原は自問自答を繰り返す。
 どこまでが嘘で、どこからが本当なのだろうか。
 天王寺の行動もさることながら、自分自身の気持ちがなぜこんなに揺れているのかさえも解らず、中原はぐったりと目を閉じて助手席のシートに沈み込んだ。

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