昼下がりの保健室(8) 《15禁》
「いきなりこれかいっ。普通、予告とかするだろっ」 某ニュースキャスターが『出来るだけニュースです』とか言っている頃合。 中原は格技場の更衣室で悪態をついていた。 そもそもスポーツ系のクラブが恐ろしく充実していない和泉澤学園高等部には、格技場を使う様な部活は存在していない。 よって、この格技場は、体育の授業で柔・剣道をする時と、何故か毎年行われるクラス対抗百人一首大会の時くらいにしか使用されない。 そんな処のしかも更衣室に、中原は閉じこめられていた。 気付けば夏休みが1週間後に迫ったある日の水曜日。中原は保健室には出向かず、期末考査がわりに提出させた課題の確認と採点をしていた。 先週、色々考えさせられることもあったし、毎日来いと言われている訳じゃないんだからと、自分自身にしなくても言い訳をして。 仕事を始めてみて、ここ半月ばかりいかに自分が保健室で遊んでばかりいたのかを中原は実感する。 ああ、そういえばアレもコレもと次々とやっつけなくてはならない雑用が出てくるのだ。 そんなこんなで、帰宅はすっかり遅くなり、中原が美術準備室を後にしたのは既に9時が近かった。 学園祭時期でもない限り、7時を過ぎると閉ざされてしまう正門とは違い、校舎の裏側にあるオートロックの職員専用通用門は教員全員に携帯が義務づけられているIDカードで簡単に開けることが出来る。 それでなくとも、駅に向かうには正門から出るよりそちらの方が近いので中原は迷わず通用門に急ぎ足で向かった。 裏庭を抜ける途中、無駄にでかくて邪魔なんだよなこの木、と、秋になると食堂のおばちゃん達がギンナン拾いに精を出すイチョウの木を横目で眺め、通用門へと辿り着く。 財布からIDカードを取り出し、鍵を開ける。 無意味に頑丈に出来ているそのドアを開けた時、まるで、車で急ブレーキをかけられた時の様な衝撃を身体に受け、中原はそのまま意識を失った。 そして、次に中原が意識を取り戻した時には、こんな有様なっていたのだ。 気を失う瞬間、それでも中原の網膜が捉えたその加害者は、いつぞや中原にライバル宣言をして走り去っていった咲山とかという奴で。 中原は彼にいきなりスタンガンで襲われ、気絶させられたのだ。 そりゃあ、悪態の500位は付きたくなるところだ。 変なところで生真面目な中原は物の流れというものを、大切にする。 中原としては、廊下ですれ違うときに足を踏まれたり、授業中に嫌がらせ──咲山の選択は美術ではなく音楽なのでこれは無理というもの──をされたり、保健医にこれ以上近づくと酷い目に遭うぞ、と脅されるところから始まって欲しかった──というか、そうなるものだと思い込んでいた。 それがいきなり拉致監禁ときたもんだ。 目に見える行動は起こさなかったが、きっと咲山は虎視眈々と機会を狙っていたのだろう。 ごちゃごちゃと考えずに、素直に保健室に行っておけば良かったなぁ〜と後悔したって、今更遅い。 それに、今日でなくともいつかは起こったことなのだ。 ひとしきり悪態をついてから、中原は自分の持ち物を改めた。 取りあえず財布は本体・中身共々無事だし、鞄も中原が転がっていたすぐ脇に放置されていたが、携帯電話は無事ではなかった。 しかも、盗まれているとか壊されているとかいうのではなく、バッテリー部分だけが持ち去られているのだ。 はっきり言って、この状態はストレスが溜まる。いっそのこと壊してくれていた方がかえってスッキリするし、相手の気持ちも解る。 携帯電話に怒りをぶつけてくれて、自分に対する怒りが減るならラッキーてなもんだ。 このやり口は、微妙に窃盗や器物破損にならないように考えを巡らせている気配がある。 中原が教員だけに、よっぽどのことが無い限り、警察沙汰にはならないことを読んでいる雰囲気。 スタンガンを使ったのだって、傷つけようとした訳ではなく、ここに閉じこめて精神的苦痛を味あわせるのが目的だろう。 だとすれば、遅くとも明日中には解放されるだろうが、誰だってこんな処に長いこと居たくはない。 咲山がどうやって格技場及び更衣室の鍵を開けたのかは定かではないが、もともとがチャチな南京錠が付いていただけなのだ。器用な者なら、針金で開けることも可能だろう。 その後、自分で購入した鍵に取り替えてしまえば、鍵穴と格闘するのは1度ずつで済む。 が、咲山のやり口が解ったところで、ここから出られるものでもない。 照明のスイッチは室内にあるから、明るいところに居られるのは幸いだったが、そもそもが更衣室だから窓なんて付いている筈がないし、ドアだって壊れそうにない。 それに、何だって男子高の更衣室に鍵なんてついているのだ。しかも外から掛かるやつが。 そう毒づく中原だが、体育授業の間、貴重品を集めた袋をそこに置きっぱなしにしておくのだから、掛かって当たり前だ。 取りあえず大声で叫んでみるか、と息を吸い込みかけて、中原はここが警備員の詰め所からほど遠いことを思い出す。 結局、朝まで閉じこめられているしかないのだろうか。否、朝になったところで、出られるかどうかは解らない。 明日になっても発見されなかったら、無断欠勤になっちゃうな〜。 と緊張感のないことを考えながら、取りあえずは落ち着け自分、と、ポケットから煙草を取りだし火を点けて、鞄の中に入っている筈の携帯灰皿を探し始める。 その灰皿は、余計な時には真っ先に目に付くくせに、使いたい時にはなかなか顔を出さないという曲者だ。 最初は手探りで鞄をごそごそやっていた中原だが、そのうち面倒になって、更衣室の床に鞄の中身をぶちまける。 どうせ時間はたっぷりあるし、鞄の中身でも整理してやれとヤケになった結果だ。 両手で雑多に詰め込まれた資料や小物をかき分けると、灰皿は直ぐに見つかった。 その灰皿に煙草の灰を落としながら、コレは要る、コレは要らないと鞄の中身を左右に振り分けて行く。 大体にして、中原の鞄というのは自分でも無駄だと思う物が結構詰め込まれている。 今使っている携帯灰皿だって使われることは殆ど無いし、ボールペンサイズのペンライトなんて、ここが真っ暗な地下室とかなら大層役に立っただろうが、今は無用の代物だ。が、それでもそれらは『要る』の山に振り分けられる。 では、要らない物とはどんなものか。 それは、期限切れのカラオケの割引券だったり、何故かピザ屋のチラシだったり、どんなに腹が減っても絶対に食べる気にならない鳩サブレの残骸だったりする。 更には開いて見なくたって、絶対に中身がそれを包んでいる紙と同化していると確信できるガムを、『要らない』の山に振り分けている時、中原に幸運が振ってわいた。 そのガムを取った拍子に荷物の山が崩れ、半分読んでからそのつまらなさに続きを読む気になれず鞄に入りっぱなしになっていた薄い文庫本の下から、回線一体型のメール端末が姿を現したのだ。 もともとバレンタインに別れた彼女とメールをやりとりするためにだけ購入したその端末は、その後使われることもなく、解約しようとしようと思ってそのままに鞄に入れっぱなしなっていたのだ。ありがたいことにACアダプタまで一緒に。 すぐさま電源を入れ、メール画面を起動する。 購入した目的が目的だけに、登録されているのは前カノのアドレス1件きりだったが、保健医のメールアドレスは記憶しているから問題はない。 ここで補足を付け加えるが、中原が天王寺のメアドを覚えていたのは、決して驚異的な記憶力の為ではない。 感嘆詞から始まる保健医のメアドは1回見たら、夢に見ることはあっても決して忘れることのできないインパクトの強いものだったからだ。 『咲山に閉じこめられた。場所は格技場の更衣室。助けにきてくれ。中原』 用件のみの、しかもかなり高飛車な内容だが、気持ちが焦っている中原はそのことに気が付かない。 そして、メアドを覚えているからという理由ではなく、最初から天王寺のことしか頭に浮かばなかった、自分の気持ちにも。 指定外着信拒否なんかしてやがったら、ぶっ殺すぞ天王寺、と、本人が聞いていたなら助けに来る気をなくすような物騒なことを呟きながら、中原はメールを送信する。 あれだけ奇抜なメアドだど、迷惑メールが来ることもないのだろう、そのメールは戻ってくることはなく無事送信された。 それを確認して、中原は安堵のため息をつく。 一応、メールがセンターで止まっている場合に備えて、10分後にもう一度メールを送信しようと考えて。 更に、携帯に電源が入っていなくてメールが届かなかった場合でも、朝になってから打てば少なくとも無断欠勤はしないで済みそうだ。 他の誰かのメアドを思い出そうともせずに、これで問題は解決済みと中原が更衣室の壁に寄りかかった時だった。 ダンダンダンダンと更衣室のドアを叩く音と、『中原っ、中原無事か? 返事しろ、光昭っ』叫ぶ保健医の声が聞こえて来た。 「天王寺先生〜?」 それを聞いて中原素っ頓狂な声を上げた。 メールを送信してからまだ1分余り。帰り際に電気が消えているのを確認したのだから、天王寺が保健室に居なかったのは確かだ。いや、仮に暗闇で何かいかがわしいことをしていたにしても、到着するのが早すぎる。 「光昭っ、良かった……無事なんだな。ほら、咲山っ、開けろ。早くしろって言ってんだろっ。もういいっ、寄こせっ」 乱暴に鍵を開けている振動がガタガタとドアを鳴らした後、引き戸が開いて見慣れた保健医の顔が覗く。 意外と元気な中原の様子を見て、心底安心したと言わんばかりの大きなため息をついた後、天王寺はうって替わった冷ややかな表情で咲山を振り返った。 「咲山、お前、何したか解ってるんだろうな」 聞かれた咲山は格技場の畳の上にべったりと座り込んで、うなだれたままだ。 「傷害罪に監禁罪…更に窃盗罪も付くみたいだな」 バッテリーパックが外されて床に投げ出されたままの携帯を見て、天王寺が罪状を並べたてる。 「訴えるのかよ。いいぜ、訴えても。訴えられるもんならな。あははは……」 天王寺の言葉に、咲山は意地の悪い笑みを浮かべて低く呟いた後、時代劇の悪代官の如く高笑いを始めた。 やっぱりそこまで計算済か、と、中原は眉を寄せる。こちらが学園の評判を落とすことは避けるだろう見越しての今回の犯行。 ましてや、閉じこめられたとはいえ、外傷もないし、何かを壊された訳でもない。 自分でも訴える程ではないと思うし、他の先生や理事長の耳に入ったならば、確実に止めるだろう。 しかし、ここまで居直られるとやっぱり、腹は立つ。 ひと言ぐらい言ってやらねば、と中原が咲山に向かって一歩踏み出すのを、保健医は左手で制した。 そして、咲山に向かって自分が話し出す。 「まあ、確かにお前は賢くやったかもしれない。この状況じゃ、立場的に中原先生は訴えられなしな」 「俺に遠慮しないで光昭って呼べよ。なんなら、ここでヤッて見せてよ。そしたら俺も諦めてや…」 保健医が言葉を切った一瞬の隙に、咲山が茶々を入れてきたが、その言葉は途中で途切れた。 天王寺が座っている咲山の胸元を掴んで、引きずり上げたからだ。 「良く聞け、咲山。今回は許してやる。だが、次回はない。その時は、僕が君を殺すからだ。確実にな。それとも今のうちに殺されたいか?」 激しくはないが、うすら笑いを浮かべながら淡々と告げる保健医の言葉は、背筋が寒くなるほどの迫力があった。 なぜなら、顔は笑っているものの、目が笑ってはいないからだ。それどころか、刺すような視線で咲山を見つめ続けている。 「咲山、返事は?」 保健医の問いかけに言葉は出ないながらも、咲山は痙攣でもしたかの様に首を横に振った。 ここにきて、初めて自分が保健医を本気で怒らせてしまったことを感じとったのだろう。 咲山の顔色が無くなり、身体が小刻みに震えている。 「二度としないか?」 今度は咲山の首がガクガクと縦に振れる。 「ならいい。じゃあ、物分かりのいい咲山の為に、お望みのものを見せてやる」 言って、保健医はいらない物を投げ捨てる様に咲山を畳の上に放り出す。 ── お望みのもの? ── ハテナと中原が首を傾げていると、ふいに保健医に抱き寄せられ、唇が暖かいもので覆われる。 ちょっと驚きはしたものの、すぐにそれは咲山に自分たちの関係を納得させる為のものだと解ったし、何より保健医の腕の中は暖かかった。気温の問題ではなく精神的な意味で。 今になって、やっぱり自分は怖かったんだと中原は実感していた。 それでも、なんとか平気でいられたのは天王寺がきっと助けに来てくれると信じていたから。 そして今──天王寺は確かにここに居る。 それをより確かに実感したくて、口内に忍び込んできた保健医の舌に、中原は情熱的に応え始めた── |