昼下がりの保健室(9) 《15禁》



 ここで時間は少々遡る。
 本人達はあずかり知らぬことだったが、今回の事件のそもそもの始まりは、いつも時間に保健室に顔を出さない中原の様子を天王寺がこっそり確認しに行ったことに端を発する。
 細川はうまいこと追い払ったものの、以前保健医が中原に告げた様に、彼以外にも新米美術教師狙いの人間が存在することも事実である。
 どっちを向いても、どーしてそんな奴ばかりが転がっているんだと憤ってはいけない。
このシリーズはわざわざそんな奴らだけをピックアップして書かれているのだから当たり前なのである。
もちろん、生徒及び教員の80%はごく普通にストレートな人間だ。
 全寮制男子校という場所において、この数字が多いのか少ないのかは作者自身もよく解らない。
 閑話休題。
 ともかく、数週間に渉る根回しが効をそうして、学食の噂話にのぼる程には、天王寺の中原の仲は校内に浸透していた。
 いや、中原はともかく、保健医は最初から噂を立てるために少々わざとらしい位に思わせぶりな行動をとっているのだから、それは当たり前だ。
 誰がどういう理由でどうやって作ったのかは、今となっては定かではないが、和泉澤学園中・高等部には、他人の恋人(もの)には手を出さないという裏ルールが存在する。
 そもそもが、誰が作ったのかもわからない裏ルールで、法的効力はおろか、校則でもないのだから、その気になったら守る必要などひとつもない。
 しかし、先輩から口伝される学園内での裏ルールは、校則なんかよりもよっぽど守られているというのは、和泉澤に限らずどこの学校でもよくあることである。
 この『他人のものには手を出してはいけない』という先入観を利用したのが、今回の保健医の作戦だ。
 保健医や中原は学生ではないから裏ルールの適用外なのだが、学園内の生徒には『他人のもの=手出し禁止』という数式がインプリンティングされているので、深く考えることなく、あっさりと退く人間が多いのだ。
 その比率はおよそ7割強。それだけで、煩わしさは半減(7割減?)する。
 が、問題は残りの3割の人間だ。
 なぜなら、残った奴らは物事を深く考える輩な上に、当たり前だが諦めが悪い人間だからである。
 ましてや、その対象が全て生徒である保健医とは違い、中原を狙っているのは、教員が殆どだ。
 人数的には保健医狙いの生徒の方が多いが、危険度的には中原の方がずっと危ない。
 もちろん、その最たる人間が細川だったことは言うまでもないが、それを追い払ったからといって中原が完全に安全という訳ではないのだ。
 嘘はつくけど約束は破らない、という、誠実なんだか姑息なんだか訳の解らないモットーを持つ保健医は、そんなこんなで美術準備室にこっそりと偵察にいったのである。
 行ってみたなら、中原はきちんと準備室にいて、どうやら溜まった仕事を片付けている様子だった。
 取りあえずは安心し、更に職員室に戻ってから、中原狙いだと保健医が目を付けている教員の状況をチェック。
 1人が研修会で出張していて、残りの2人は帰宅していることを確認した後、保健医は例によって浪岡と1時間程世間話をして、自分もマンションに帰ることにする。
 教員の他にも、咲山という危険人物が居るには居るが、奴は先程捕まえて、天王寺の部屋に来る様に言ってある。
 まあ、彼が想像しているものとは、かなり趣の違った呼び出しではあるだろうが。
 ちらりと腕時計を眺めると、既に時刻は7時半を回っている。
 7時に駐車場で待っていろと言った保健医に、今日は親から電話がかかって来る日だから後で行く、と答えた咲山は今時の高校生には珍しいことに、携帯電話を所持していない。
 いつだったか理由を聞いたら、あんなものを持っていたら電波で頭がおかしくなると、きっぱり言い切った咲山は、ある意味面白い奴ではある。
 もちろんそんなことを本気で思っている訳ではなくて、誰もが持っている物には興味がないというだけだろう。それに、思わず笑いを誘う理由をつけるところが咲山の気の利いたところだ。
 とはいえ、そんな気の利くところが、今回は不安要素のひとつでもある。
 まあ、高瀬先生(化学教師。咲山の以前の思い人)の結婚が決まった時も、多少荒れはしたものの、あっさり気持ちを切り替えた咲山のことだ。話して解らないことはないだろう。
 咲山に平手打ちの1発くらいは食らう覚悟ができているの保健医は、小さなため息をひとつつくと、ゆっくりと車を発進させた。

☆   ☆   ☆

 最近の咲山の日課は、庭から保健室を覗いて、中原が居るか否かを確認することである。
 そこに中原を見つけたならば、保健室には行かない。
 最初は、あの保健医のことだから、何か目的があって中原のことを好きな振りのかと思ったが、そうではなかった。
 天王寺は本気なのだ。
 いつだったか、保健医が作っていた書類のファイルを誤ってデリートしてしまった時だって、注意はされたものの、声を荒げることなどしなかった天王寺が、棚に置いてあるカップにちょっと触れただけで「触るなっ」と怒鳴り声を上げたからだ。
 ウケを狙ってか、今までは変な湯飲みしかなかった保健室に、その小洒落たカップが出現したのは、中原のそれと完全に一致している。
 よっぽど鈍くさい奴でなければ、それが中原からの贈り物だと気付くというものだ。
 以前は保健室のスペアキーを貰っていたり、休みの日にはドライブに連れて行って貰ったりして、少なからず自分は保健医にとって特別な存在だと思っていた咲山は、中原の出現により、本当の特別とはどういうものなのかを知った。
 そして、自分はちっとも特別ではなかったことにも。
 もともと、そういう性癖の持ち主であった咲山は、男無しには生活が成り立たない。
 中2から高1にかけて付き合った先輩と、彼の卒業を理由に別れてからこっち、身体だけの関係を持つ人間が常に複数いる状態だった。
 だけど、それだけじゃ心が満たされないのも確かで。
 どうしていいか、なにがしたいのか解らないまま、乱れた生活を送る咲山を変えたのは保健医だった。
 図書局員である特権を利用して、閉館後の図書室で数ある相手の1人との情事を楽しんだ直後、資料を取りに来た天王寺とばったり会ってしまったのが始まり。
 空気の入れ換えの為に、窓を開けてあったものの、保健医がやって来たのは、咲山が身支度を整えてから5分とたっておらず、その場には独特の匂いが色濃く残っていた。
 流石に職権乱用が過ぎただろうかと、なにかひとことお説教じみたことを言われることを覚悟した咲山だったが、保健医の口から出たのは思いがけない台詞だった。
『テーブルの上じゃ背中が痛いだろう。保健室のベッド貸してやろうか?』なんて、とてもじゃないけど教師が言っていいことだとは思えない。
 それでも『じゃあ、今度借りに行きます』と切り返して、その場は別れた。
 本当に保健室のベッドを借りる気などなかったが、よもやそれで小遣い稼ぎでもしているんじゃあるまいな、と、それを確認したくて咲山は後日保健室に出向いた。
 変な湯飲みに入った番茶なんかを振る舞われながら、思ったままを口にすると保健医は爆笑して、本当に貸す訳ないだろうと言った。
 何人かに同じことを言ったことがあるけど、そんなことを確認しにきたのは咲山が初めてだとも。
 まあ、見つけたのが僕だったから良かったけど、程々にしておけよ、という言葉には何故だか素直に頷けた。
 大人ぶって説教をする訳でもなく、誰とは言わないが(某英語主任だ)黙っててやる代わりに自分にもやらせろと強要する訳でも無い保健医に、咲山は素直に好感が持てた。
 もちろん最初は人間的にだ。
 それが、恋心と名の付くものに変わったのはいったいいつなのだろう。思い出そうとしてもはっきりとは思い出せない。
 だけど、それが足繁く保健室に通うようになってから、間もなくであるということは確かだ。
 とはいえ、あんな状況を目撃されたのが、保健医と親しくなるきっかけだった咲山である。
 素直に想いを口にしたところで、本気にされないだろうし、天王寺が自分を受け入れてくれるとも思えない。
 なので、咲山は生徒のカウンセリングを専門とする保健医が自分を突き放せない状況を作り出すことにした。
 学園内では内緒にしているが、化学教師の高瀬は咲山の母方の従兄弟だ。まだ、他人には知られていないが、彼の結婚が半年後に迫っていることも既に知っている。
 咲山はこの状況をフルに活用することにした。
 いつもの様に保健室に出向き、しかし、いつもとは違う様子で何かを言いかけてやめるという行動を数回繰り返す。
 そして、ようやく決心したと言わんばかりの演出をして咲山が保健医に語った内容はこうだ。
 自分は高瀬先生のことが好きなんだと。だけど、高瀬先生はストレートで、三月程前に彼女らしき女性と街を歩いているのを目撃してしまったと。
 それがショックで誘われるままに、好きでもない相手と身体の関係を持ってしまったと。
 俺はどうしたらいいんだろう、と涙ながらに語る咲山に天王寺は言った。
 そういう思いは吐き出してしまった方がいいと。
 辛くなったら、いつでもここにおいでと。
 そして、高瀬の結婚が学園内で公表された日──咲山はその目的を達成した。
 遊びでいいから、高瀬の代わりに自分を抱いてくれと告げて──
 そんな自分が不安定に見えたのだろう、保健医は咲山をちょっとだけ特別扱いしてくれた。
 そう、今思えば、ほんのちょっとだけ。
 あからさまに咲山に下心があると見て取れる生徒が、保健医の目の前でべたべた自分に触っていても、天王寺は笑って見ているだけだったし、愛の言葉も囁いてはくれない、そしてキスされもくれない。
 いや、キスをしてくれな訳ではないけれど、情事の時以外は絶対に許してはくれなくて。
 それは、自分が恋人ではないと断言されている様なものだった。
 それなのに──
 自分がこんなにまでして、ようやく身体だけは手に入れた保健医なのに──
 本日、日課の裏庭確認を終えて、中原が来ていないことを知り保健室に向かった咲山は、ちょっとばかり焦った表情で保健医が部屋を後にする姿を目撃した。
 やや早足で東階段を上ってゆく保健医を見送った後、ダッシュで西階段に向かい一気に4階まで上りきる。
 曲がり角から、顔だけ出してからこっそり美術室の方を覗くと、そこには先刻とはうって変わってゆっくりとした歩調で立ち去る保健医の後ろ姿が見て取れた。
 これを見た瞬間、咲山の怒りのゲージはマックスに達した。
 自分が欲しいもの全てを中原は保健医から貰っている。なんの努力もしていないくせに。
 なにも起きていない内から、こんなにも心配されて。
 なら、その心配を本当のことにしてやる。
 掌に爪が食い込み血が滲む程にこぶしを握りしめて、咲山がこの時した決心は、この後、保健医から自宅に誘われても変わることがなかった。
 だって、咲山は自分が保健医に愛されていないことに気付いてしまったから──

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