Pain in my Heart  (3) 原作:諸々の事情により秘密
Novelize:諸々の事情により冴木


「どうぞ」
 渉を保健室に運び込み、ベッドに寝かせた後、保健医は尚紀にお茶を入れてくれた。
 どうしてだかは解らないが、どの家庭にも1個くらいは存在が確認される、やたらと魚偏の漢字がプリントされた寿司屋の湯飲みに。
「……どうも」
 自分では敵だと思っている人物にお茶なんか入れられてしまい、尚紀は戸惑いながらも、一応礼を言った。
「家の事情は渉から聞いたかい?」
 まさか変な薬でも入ってるんじゃ……等、物騒なことを考えながら湯飲みの中を覗き込んでいた尚紀は、保健医の問いかけに顔を上げた。
「少しだけ……でも、この学校に来たいきさつとかは……」
 尚紀の返答に──これは尚紀の被害妄想かもしれないが──天王寺は、なんだその程度のつき合いか、とでも言いたげな笑みをこぼした。
「僕の両親が海外に転勤することになってね。渉の面倒は僕がみるつもりだったんだけど、どうしても一緒に住むのは嫌がるんでね。かといってひとり暮らしなんかさせられないって親父も頑張るし。全寮制のここに入るならって条件で双方を納得させたんだ」
「あんた……渉に何したんだよ。すごく怖がってるようだけど」
 先輩からは鵜呑みにするなと釘をさされていたが、渉がそんなにまでも天王寺と住むのを嫌がるのには、やはりその辺に理由がありそうだ思い、尚紀は話の水を向けてみた。
「ああ、別に大したことじゃないんだけどね。渉は繊細だから……」
 言葉を濁した天王寺に、尚紀はいよいよ噂は本当だと確信した。
「……いくら、実の兄弟じゃないからって、自分の弟にまで手を出すのかよ、あんたは」
 尚紀の言葉に保健医は大きく目を見開いた。
「渉に聞いたのか?」
 おやおや、そこまで話しているとは意外だねぇ〜という表情を隠そうともせずに、天王寺は尚紀に問いかけた。
「いや、妙な噂を聞いたもんでね」
 ── ちっ、マジかよ。
 確認の意味を込めてのかまかけだったが、こんなにあっさり肯定されると、不用意に噂を信じてはいけない等と生真面目に考えていた自分がばからしくなる。
 だから、はっきりと目の前の保健医に向かって告げた。
「あんた、ウチの生徒の何人かに手を出してるんだってな」
 尚紀の言葉に天王寺はふふんと鼻を鳴らした。
「合意の上さ。問題はないだろう。それもカウンセリングの一環だよ」

 いけしゃあしゃあ(副)〔俗〕──つら憎いほどあつかましいさま。平然と恥知らずなさま。天王寺徹を形容するために作られた言葉。

 と国語辞典に載せたくなるような保健医の言いぐさに、尚紀は大きくため息をついた。
 ウチの学校はどうしてこんな奴を教師にしとくんだ? とは思うものの、部長のいう通り、だからこそ、和泉澤にふさわしい保健医なのかも知れない。
 ── だけどなっ!
 尚紀はこぶしを握りしめる。
 ── 慰めるのは心だけでいーんだよっ!
「──以前は渉も僕に良くなついてくれていたんだけどね……。あの時からだな。渉の態度が変わったのは……」
 尚紀の憤りをよそに、保健医は遠い目をして語り出した──

☆   ☆   ☆

「渉、今日から僕が君のお兄ちゃんだ」
 両親が死んで、叔父さんのうちに引き取らることになって──不安で不安でしょうがなかった時、差し伸べられたその手は、とても大きくて頼りがいのあるものに見えた。
 背中を押すのではなく、差し伸べられるその手──
 やさしい手──
 ── ああ、これは夢か。
 夢の中で渉はこれが夢だと気付く。
 目の前に広がっているのは、見慣れた風景。
 渉が淋しそうな表情を見せると、天王寺はいつも近所の河原へと彼を散歩に連れだした。
 その度に天王寺は、本当にあった不思議な事件の話とか、一風変わった生態の動物の話だとか、色々な話を聞かせてくれて。
 渉の顔に笑顔が戻った時、決まってこう聞くのだ。
「渉、僕のこと、好きだろう?」
 その問いかけに、渉も決まってこう答える。
「うんっ」
 数年前の自分がそのやりとりをする様を、渉は古い映画のフィルムでも見ているような感覚で傍観している。
 だから、これは夢──
 その証拠に、場面がいきなり切り替わる。
「渉」
 今度は自分の部屋の中だ。
 やさしい呼びかけと共に、天王寺の唇が首筋に降りてくる。
「ちょっ…、やめろって。もうすぐ友達が来るんだよっ。こんなことしてる場合じゃ……」
 あっ、あの時だ──
 それに気付いた瞬間、傍観者である渉の心臓が水でもかけられたかのように冷たくなる。
 続きを見たくはなくて、ぎゅっと目を閉じてみるが、それでも目の前の広がる光景は変わらない。
「まだ、平気だろう」
 余裕あり気な笑みを浮かべて、天王寺は今よりも更に幼い渉のTシャツの中に手を滑り込ませた。
「やっ…」
 左腰を撫で上げられ、身をすくませた拍子に腕の中に抱き込まれる。
 ── やめろっ、やめてくれっ。
 渉がいくら願っても、天王寺の動きは止まらない。
 抗う渉の顎をつかまえて、濃厚な口付けを落としている。
 ── やめろっ、じゃないと……
「わたるー? 悪いな、勝手に上がって。チャイム壊れてんぞーっ」
 彼らが身を離す暇もなく、ドアが開いた。
「あっ」
 短い声を上げて、そのまま凍り付く友人。
 その時向けられた嫌悪の眼差しに傷つく自分。
 そう、これは──
 忘れたくて忘れたくてどうしようもないのに、決して忘ることができない出来事──
 そんな目で見ないでくれ……。
 そんな目で──

☆   ☆   ☆

「はっ」
 目の前に白い天井が広がっている。
 暫く放心して、渉はそこが保健室だと気付く。
 取りあえず、悪夢から解放されたことに安堵をみて、渉は大きく深呼吸した。
「あんた……渉をそんな目に遭わせておいて、よく平気でまたちょっかい出せるよなっ」
 ようやく呼吸が落ち着いてきた時、渉の耳に尚紀の声が飛び込んできた。
「失礼な。僕は僕なりに責任を取ろうとしているんだよ。僕と本当の恋人同士になれば、渉もあの時のことを恥じる必要はなくなるわけだし」
 なんで尚紀がと思う間もなく、続けて聞こえてきた天王寺の言葉に渉は耳を疑った。
 どう考えても、この二人の会話は自分の夢とシンクロしている。
 なるほど、天王寺があの時のことを語っていたので、あんな夢を見たのだろう。
 なんで──なんで彼は尚紀にそんな話を聞かせたのだろう。
「ケッ! 何いってんだか。あんた、自分がどんだけ渉に嫌われてるか解ってないようだな」
「君こそ解ってないね。渉の複雑な心の奥にある本当の気持ちを。現にあの子はいつも苦しい程僕のことを考えている。新しい環境でうまく立ち回る余裕も無いほどにね」
 夢から覚めたにもかかわらず、渉は再び自分が悪夢の中に落ちていくような感覚を味わっていた。
 やっと──少しは心を開けそうだと思った友人を、失うはめになるのかと。
「勝手な解釈だな…」
 あまりに勝手な言いぐさに、尚紀は目の前の人間に心の底から怒りを感じた。
 握りしめたこぶしが、ぶるぶると小刻みに震えているのが自分でも解るくらいに。
 そんな尚紀に気付く様子もなく、天王寺はチラリと腕時計を眺めた。
「失礼、今から職員会議なんでね。外させてもらうよ。まあ、ゆっくりしていきたまえ」
 自分に余裕があるところを見せつけるように席を外す天王寺に対して、どーしてくれようあの男っ! と尚紀は結構本気で殺人計画を妄想しはじめた。
 渉を悲しませちゃ可哀想だから、ここは完全犯罪で……
「尚紀」
「あっ」
 山に埋めるのと海に沈めるのとどっちがいいだろう、等と完全犯罪にはほど遠いことを尚紀が考えていると、パーティションの向こうから渉が姿を現した。
「もう、大丈夫なのか?」
「うん」
 肯定の返事をする渉の顔色は、確かに先刻よりは随分いい。
「みっともないな、俺。嫌なこととかあると、すぐ具合悪くなって。子供みたいだ」
 自嘲の笑みを浮かべながら言う渉に、尚紀は安易にあんな質問をした自分を心苦しく思う。
「……悪かったな。先刻は嫌なこと聞いたりして」
「いや……」
 それはどうでもいいんだといった感のある返答をした後、渉は苦しそうな表情を浮かべて尚紀に問いかけた。
「あいつから、聞いただろ。俺達のこと」
 やっぱりこいつも嫌な顔をするのだろうか、男同士であんな事って──と、ギュッとYシャツの胸元を握りしめ渉は身構える。
「ああ、ひどい奴だよな。思いこみも激しいし。あん奴につきまとわれて迷惑この上ないよなっ。お前災難だったなぁ」
 災難だったなぁとまるでドブにでもはまった時のような尚紀いいぐさに、渉はフッと笑みを漏らした。
「なっ、なんだよ。なんで笑うよ?」
「いや……。お前が言うと全然大したことじゃないように聞こえるなって……」
「あっ、俺、無神経だった?」
 渉の経験したことが辛くなかったなんて思っている訳じゃない、もしそんな風に思っていると感じさせたなら謝らなきゃと尚紀は渉に問いかけた。
「ううん……サンキュ」
 そんな尚紀に、ゆっくりと首を横に振って見せた後、渉は俯いた。
「早く……忘れたい…」
 喉の奥から絞り出されたような渉の声。
 渉を守ってやりたい──
 天王寺を殺そうかと思った時以上に、尚紀は本気でそう思った。
 まずは渉の気持ちを浮上させようと、ポンと頭に手を乗せた。
 やはり、人に触られるのが怖いのだろうか。渉がビクッと身をすくませる。
「やっぱり、触られるの怖いか?」
 尚紀の言葉に渉の顔に血が上った。
「なっ、誰がっ!」
 怖いんじゃなくて、嫌いなんだ、と言おうとした処で、ギュっと尚紀に両手を握りしめられる。
 えっ?
 驚いて、尚紀の顔を見上げると、そこには思いの外真剣な表情があって。
「忘れちまえよ。あんな奴のことなんて」
「うん……」
 そうだ、尚紀の言うみたいにドブにはまって恥をかいたのと大差がないのかもしれない、気にしなければ良いんだよな、と渉は気を取り直す。
 気付けば尚紀に両手を握りしめられているのは、特別嫌じゃない。
 焦らなくても、ゆっくりでもいいんだよな……
 そう思い、渉が視線を上げると、なんだかイイ雰囲気に流されてその気になってしまった尚紀のどアップが目の前にあった。
「何すんだよっ!」
 お前が、焦んなよっ。
 と、体力は無いが瞬発力はある渉の蹴りが、尚紀の腹に決まる。
 ごふっと変な声を上げて、正気に戻った尚紀は「イヤ、冗談、冗談…」と右手で腹を押さえ、左手を振って、その場を取り繕った。
 気持ちは解るが、焦るな、青少年──

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