2.月形かおる16歳の甘い高校生活
「あっ、また聞こえる」 俺、月形(つきがた)かおるは、卵を泡立てる手を止め、開けっ放しの窓から聞こえてくるピアノの音に耳をすました。 「何が?」 俺の呟きに、新も自分の手を止め問いかけてきた。 「ほら、ピアノの音聞こえてるだろ。……これって、乙女の祈りだよな」 「んっ? ああ、うちのクラスの塚原だろう。霞ヶ丘ならともかく、うちでここまで弾ける奴なんて、あいつしかいないよ」 興味ねぇよ、と言わんばかりに新は、ナッツ刻みを再開した。 「何? お前、ピアノ解るの? しっかし、男が乙女の祈りもないだろうに……」 とは言ってみるものの、甘味研究会と名乗り、週に1回ずつ、食べ歩きと甘味作成という活動をしている俺達も人のことを批判できる立場にはない。 ここで、名誉の為に声を大にして主張しておくが、この研究は決して俺の趣味ではない。 新がいわゆる甘味マニアなのだ。うちの学校が同好会の申請に甘いことに目をつけ、あれよあれよという間に甘味研究会を設立したはいいが、名簿に名を連ねている輩のうち、俺以外は完全なる幽霊部員だ。 そんな中で、何故俺が真面目に新と活動を共にしているか。ここだけは大きな声では言えない理由だ。 確かにお菓子を作成するのは趣味ではないが、俺は無類の甘い物好きなのだ。 流石に中学に入った頃から公言出来なくなっていたこの嗜好も、研究と名が付けば許されるような気がするから言葉というやつは不思議だ。 しかも、自分が率先して研究会を立ちあげたという訳ではなく、同室のよしみでという理由で、半ば無理矢理入会させられたというポーズを取れるところも、素晴らしい。 新、甘味マニアでありがとう♪(意味不明)。 「かおる、手が止まってる。話すなとは言わないから手も動かせ。それに、この曲は乙女の祈りじゃない、英雄ポロネーズだ。どうやって間違うんだよ」 「嘘だ。これ、乙女の祈りだろう。名前に似合わず、ジャンジャンジャ、ジャンジャンジャ、ジャンジャンジャって激しく始まるから、記憶あるもんっ」 「あるもんって……、そんな話し方するから、お前、かおるちゃんとか言われちゃうんだぜ」 「名前は関係ないだろっ」 そう、この、本名で宝塚歌劇団に入れそうな名前は本名だ。男なのにひらがなのかおるで名字は月形って……おい。 しかもネーミングの理由が、親父が由○かおるのファンだったからというのだから泣きたくなる。 当時31歳の男が水○黄門に無意味に差し込まれる入浴シーンを楽しみにしていたというのは、問題があるぞ問題が。 母よ、そんな男の何処が良かったんだ。 「確かに、いっちばん最初の部分は似てないこともないでもないかもしれない。でも先は全然違う。聞いて気付けよ」 「………」 俺が情けない顔をしていた理由を勘違いしたのだろう。新がかなり譲歩をした様子で、2曲の相似を認めてくれる。 しかし、似てないこともないでもないかもしれないって、その表現。つまりはちっとも似ていないってことじゃないんだろうか? だけど、俺の記憶が確かなら、これは絶対に乙女の祈りだ! 「新っ!」 「だから、手ぇ動かせって」 「行くぞ」 「はぁ〜、どこにだよ」 「音源。弾いてる本人に聞くのが確実だろ」 「聞かなくても確実だって」 「甘味のことならともかく、ピアノに関して新は信用できん。お前昔、フロッピーを電球にかざしたら、中のデータが見えるって、俺に嘘教えただろう。俺、あれ信じて大恥かいたんだぞ」 「……信じるなよ、そんな話。まさかそんな話信じる奴がいると思うかよ。この件に関しては俺が正しい」 「その自信たっぷりな断言に、俺が何度騙されてきたと思ってるんだ。確認するまで、俺はぜぇ〜ったい、信じない。これは乙女の祈りだ」 「解った、じゃあ、確認に行こう」 「よしっ!」 「だが、ちょっと待て。確認にいくのは、ケーキをオーブンに入れてからだ。ほら、泡立て開始」 「なに暢気なこと言ってるんだよ。そんなことしている間に弾いてる奴が帰ったらどーすんだよ」 「大丈夫だ。塚原は少なくても2時間は練習室にいるからな。それよりも卵の泡立てが先。途中でうっちゃいといて、まともなケーキが出来ると思うのか? もし仮にげんこつ飴みたいに固いケーキが出来ても、お前が責任持って全部食う覚悟はあるのか? その覚悟があるなら、今でもいいぜ」 「……解った」 俺はしぶしぶ泡立て器を手にした。 新は甘味を愛しているだけあって、どんなに前衛的な作品が出来上がったとしても、材料を無駄にすることは許さない。 失敗作を俺に食わせると言ったら最後、絶対に食わせるだろう。 確かに俺は甘い物好きだが、そんなもんまで食いたくない。 こうやって新共々、ケーキを作っているのだって、奴の指示通りに作れば、安価で美味い甘味が食えるからなのだ。 畜生〜。 結局、新の意のままに操られている自分を情けなく思いながら、俺はその怒りをボールの中の卵にぶつけたのであった── ☆ ☆ ☆ ピアノの音が一段落つくのを待って、新は練習室の小窓をノックした。 譜面を捲って何やら書き込んでいる様子の塚田(だっけ?)が、ノックに気付きこっちを向いた。 新の顔を見て、一瞬不思議そうな顔をしたものの、手招きしてくれる。 っていうか、こいつは男なのか? うちのピアノ練習室でピアノ弾いてて、あげくに制服まで着てるんだから、うちの生徒なのは確かなんだろうが、霞ヶ丘の制服着てたって絶対不審に思わない。 しかし、いくら今まで同じクラスになったことがないにしたって、こんなに目立つ奴をどうして俺は今まで知らずに居られたんだ? 男に対してこんな感想を抱くのはどうかと思いはするが、可愛い──可愛すぎるっ! 「邪魔して悪りぃな、塚原」 「別に邪魔ってことはないけど。なんか用?」 「いや、こいつが塚原にどうしても聞きたいことがあるっていうから」 新が俺を親指で指差した。 「俺っ、D組の月形かおる──よっ、よろしくっ!」 何で自己紹介なんだよっ、と自分でも思いつつ、俺は上擦った声でそれを終えてしまっていた。 「はぁ、どうも。塚原です」 ポリポリと人差し指で頬を掻きながら返答する塚原。どうやら俺は完全に退かれてしまったらしい。 「あっ、あのっ──」 「聞きたいことって何?」 フォローをしようと話しかけた途端、冷たい口調で塚原がそれを遮った。 「えっ──」 思考が完全に停止する。 聞きたいこと、聞きたいこと、聞きたいこと──。 彼氏は居るの?(なぜ彼女じゃないんだっ!) 名前はなんていうの?(聞いてどうするっ!) ピアノ上手いね。(ばかっ、それは感想だっ!) 「出来れば早くしてくれない。今はまだ邪魔じゃないけど、それ以上百面相してるっていうなら、邪魔にするよ」 ここで気付く。 確かに俺のテンションは高くて、ちょっとばかり、おかしなリアクションをしているかも知れないが、ここまで冷たくされる様なことをしただろうか? 「塚原〜、怖いって。そんなに警戒しなくても大丈夫だから。こいつはお前が先刻弾いてた曲の名前聞きたいんだとよ」 そう、それだ。そもそも、俺はそれを確認する為に来たんだった……。 しかし、警戒って? 「だって、怪しいだろ、この人。まあ、そうじゃないならそれにこしたこと無いけど。先刻の曲ってショパンのノクターンのこと」 怪しいって俺が? 何が? 「違う。最初に弾いてたやつ。英雄ポロネーズだよな」 「そうだけど……早川、お前ら、わざわざそんなこと聞きに来た訳?」 呆れた様子で、塚原が新に問いかけた。 やっぱり、こんなことを聞きに来るのは間抜けな奴のすることだ、と後悔してみたところで今更遅い。 「こいつが、あれは乙女の祈りだって言い張って聞かなくてな。本人に確認すれば気が済むかと思って」 「乙女の祈りぃ〜。あはは〜、確かに最初は似て無くもないけど、普通途中で違うって気付くだろ〜」 あっ──笑われた。 名前のせいで、からかわれたり、笑われたりすることには慣れていたつもりの俺だが、塚原に失笑されるのは、何故か凄く胸が痛んだ── 「だよな〜、俺もそう言ったんだけど、こいつ俺の言うことは信用出来ないんだと。かおる納得したか?」 「うん」 力無く頷く俺に、ちょっとばかりは同情してくれたのか、塚原が声を掛けてくれる。 「そんなに、しょげることないよ。本当に最初の部分は似てるしね。ピアノやらないんだろ。だったら、乙女の祈りの出だしを知ってたことの方がすごいって。大抵の男子高校生はこの部分しか知らないぜ」 台詞の最後にピアノの音が重なる。 確かに聞き覚えのある旋律に耳を傾けながらも、鍵盤の上を何か別の生き物の様に滑る、塚原の指先に俺の視線は釘付けだった。 こんな綺麗な旋律を作り出せる、こいつの手には、一種の魔力が宿っているのではないだろうか。 「へぇ〜、やっぱ、上手いもんだな〜」 新が感嘆の声をあげる。もちろん俺も同感だ。 「そうでもないさ。結局コンクールの成績は、入賞どまりだし」 そんな俺達に対して、塚原はクールな返答をよこす。 くぅ〜、そんなところがまたそそるじゃないかっ。 「入賞できるだけで、すげーよ。しっかし、部活って訳でもないのに、毎日よく練習してるよな〜」 「部活だったらサボってるって。だけど、ピアノを続けるって決めたのは俺だから。部活の先輩には嘘つけても、自分には嘘つけないだろ。だから、練習するしかないの」 すげー。 マジですごいと思う。 ピアノの腕ももちろんだが、軽い口調で発せられた割には、決意を含んだ言葉の内容に感心する。 「ってことだ。かおる、邪魔にされない内に戻るぞ」 「うん。あっ、そうだ。今、俺達ケーキ焼いてるんだよ。もし、練習終わって暇だったら食べに来ない?」 ダメ元で誘いを掛けてみることにする。まあ、ケーキにつられる男子高校生がそう沢山いるとは思えないが……。 「ケーキって……なんで?」 案の定、塚原の表情があっけにとられたものへと変化する。 「ああ、俺達、甘味研究会なんだよ。ケーキづくりはその一環。ホントに、良かったら来いよ。俺のレシピは美味いぜ〜」 新、ナイスっ! 俺はお前と友達なことを誇りに思うぞっ。 「う〜ん……魅力的なお誘いだけど、遠慮しとくわ」 ちっ、魅力的なら何故断る、とかって思っちゃう俺って、やっぱ自分勝手? 「まあ、無理には誘わないさ。ケーキのあまりの美味さにお前に惚れられたら困るからな」 「ありえねーって。お前こそ、俺のピアノの腕に惚れるなよ」 「それこそ、絶対ありえね〜。邪魔して悪かったな」 「いや、いい気分転換になった」 二人の間で楽しそうに交わされている会話。 が、お前ら、何の話だそれはっ。 と思う反面。 ありえないのか、やっぱり── と、何に対してどういう風にかっがりしているんだか、自分でも信じられない感情が俺の心を支配する。 新に促され、練習室を後にしようとした時、塚原が俺達の背中に声をかけた。 「まあ、頑張って」 「ああ、まかせとけ」 新は自然に返事をしているけど── 頑張るって何を? ぐるぐると頭の中を駆けめぐる色んな思いを整理しきれないまま、俺は新と共に、調理室へと戻った。 そして── この答えは、ケーキの焼き上がりを知らせる、チーンというオーブンの音と共に、天から降って来た。 これは、恋の始まりだ── |