5.こんな形で聞きたくなかったこと
緑は行くあてもなく、雑踏の中を彷徨っていた。 自分が先程耳にしたことが信じられなくて。 壮太が、そんな大事なことを自分に話してくれなかったことがくやしくて。 最近、何かと周りをチョロチョロするかおるについての愚痴でも聞いてもらおうと訪れた壮太の部屋で、緑は驚愕の事実を耳にした。 いつもの如く不用心にも在宅時には鍵がかけられていない、その部屋に我が物顔でチャイムも鳴らさず上がり込み、リビングに通じるドアを開けようとしたところで、話し声に気付いた。 察するに客人はこの前会った壮太の友人らしい。 声のトーンから、あまり楽しそうな話をしている風では無いので、内容によっては遠慮しようと緑は聞き耳をたてた。 結果漏れ聞こえてきた内容は緑が思っていたよりもずっと深刻で、先程思ったことを実践するのならば、すぐにでもその場を立ち去らなくてはならないものだ。 が、緑は動けなかった。 一度話を振って誤魔化されてから、彼自分から話してくれるまで待つことを決心した、壮太がピアノをやめるきっかけとなった事故の話。 聞いちゃいけないと、思いはするが身体が動かない。 壮太の右腕に残る、多分現在では緑しか目にすることがないであろう、あの痛ましい傷跡── 単なる事故で右手を傷つけたとしても、ピアノを弾く者にとっては、その衝撃はかなりのものだろう。 ましてや、そんな事情があったのなら── 一体どうやって壮太は立ち直ったと言うのだろう。 何故、壮太は和泉澤に居続けたのだろう。 一人で立ち直れたとは到底思えない。 そして、壮太が緑にその事故のことを決して語ろうとしなかった理由も理解できた。 緑は当時の壮太とよく似た状況にいる。 今にして思えば、緑が浜矢楽器主催のコンクールに出場すると聞いた時の壮太が一瞬見せた複雑な表情も納得がいく。 学園側としても同じ失敗は二度としないであろうという目算が、壮太に緑に余計な情報を与えないという行動をとらせたのだろうが、それとこれとは話が別だ。 たとえ、心配や動揺をさせたくないという理由でも、自分の一番大事な人に振りかかった出来事を自分が知らせてもらえないなんて、悲しくなる。 関係者以外誰も知らないというならば、まだ我慢できる。壮太だってそんなことを思い出したくはないだろうから。 でも、壮太は今、目の前の友人にそれを話している。自分と同じ轍を踏まないようにという忠告の意味でだろうが、自分が語ってもらえなかった壮太の過去を他人が知っている。 その事実だけが緑の胸を痛くする。 もちろん解ってはいるのだ。 自分の感じている不満と苛立ちを、もし友人から相談されたのなら。 緑はそれが相手の思いやりであることを、友人に諭すだろう。 全てを知っていることが大切なのではない、そういう風に自分を気遣ってくれる相手の気持ちが大切なのだと。 しかし、嫌なものは嫌なのだ。 心配なんてしてもらわなくても、緑は壮太よりずっとしたたかだ。 以前出場したコンクールで入賞どまりだったところをみると、そんな事実はない様だが、仮に壮太の時と同じ画策を学園側になされていたとしてもかまわない。 それは緑にとってきっかけとなる。 実力があってもチャンスとツキがなくては、踏み出すこともできない。緑の目指している世界はそういう世界だ。 そして、もし、自分にその実力がなかった時には、後で確実にそのツケが回ってくるのだ。 しかし、きっかけがどうであれ、自分がその世界で生き残っていけたならば、それは緑の実力。 自分の実力なんて、そこで見極めればいいのだ。 だからといって、緑は壮太を弱いと思っている訳ではない。 何に対しても生真面目に思い悩んでしまうのが、壮太のいいところでもあるのだから。 心底、こんな話はこんな形で聞くべきではなかったと後悔する。 一端、胸の中に溜まってしまったこのもやもやは、ちょっとやそっとのことではぬぐい去れないだろう。 壮太のことは信じている。 けれど、隠し事は人を不安にさせる。 緑は切に思う。 俺は壮太を信じるから、壮太も俺を信じて欲しい──と。 ☆ ☆ ☆ 「あれっ、塚原?」交通事故に遭わなかったのが奇蹟、と思えるくらい知らない内に、緑は見知らぬ場所に立っていた。 「……月形」 気付くと目の前には、ある意味諸悪の根元な、月形かおるが居た。 「何? このあたりって塚原のテリトリー? 毎日あれだけピアノ弾いてて、よくこんなところまで来てる余裕あるな」 「いや、そういう訳じゃ……。お前こそなんでこんなところに居る訳? 早川は?」 チラリと信号の住所表示を確認して、緑は自分が随分遠くまで歩いて来ていたことに気付いた。 ふらふらと気付かず歩いてきてしまった自分はともかく、かおるの言う通り、この辺りは和泉澤の学生が出没する場所からかなり外れている。 「ああ、その路地入ったところに、マイナーだけど美味いケーキ屋があるんだ。新が風邪でダウンしてるから美味いケーキでも食ったら元気でるかと思って買いに来た」 「ケーキねぇ……」 胸のつかえは、依然そのままではあるものの、緑は思わず苦笑した。 かおるは新が甘味好きだと信じて疑っていない様だが、事実を知っている緑は、却って新の具合が悪くなるのではないかと思ったからだ。 そして、何も近しい人間のことを知らないのは自分だけではないことにも気付く。 更に意地悪く思う。 かおるがその事実を知ったら、どう思うのかと。 もちろん、そんな憎まれ役を敢えて買ってやる気ははさらさらないが。 「そんな嫌そうな顔するなよ。甘い物嫌いじゃないんだろう」 「別に嫌そうな顔なんてしてないよ。わざわざこんな処まで来るなんて、友人思いだなって思っただけさ」 「まあな。自分でもそう思う。っていうか、本当は自分が食いたかっただけかも。そこ、お茶も飲めるから急いでないなら寄ってかないか?」 かおるの提案に緑は思案した。 新の居ない場所ではなるべくかおると関わらない様にしていた緑だが、今ならお茶くらい飲んでもいいかと思う。 本人は気付いていないが、自分と同じ立場の人間が目の前にいれば、少しは胸の痛みが軽くなるような気がして── 「そうだな。俺もあとは帰るだけだし、飲んでくか。男2人がケーキ屋でお茶飲んでるシーンを想像すると、ちょっと退くけどな」 「塚原、それは俺と新に対する挑戦か?」 かおるの言いぐさに、緑は又しても苦笑した。調理室でケーキを焼いているだけかと思ったら、この2人はケーキ屋巡りもしているらしい。 改めて、新が捨て身のチャレンジをしていることがよく解る。 「月形、それ、専門用語でなんていうか知ってるか?」 「えっ?」 「被害妄想」 にやりと笑った緑に、かおるは渋い表情を浮かべた。 なぜなら、専門用語かどうかは疑問ではあるが、緑の言ったことは紛れもない事実だったから── ☆ ☆ ☆ 「なっ、新、聞いて」寮に帰った途端、かおるは二段ベッドの下段で横になっている新の元へと駆け寄った。 「あんまり大声でしゃべるなよ、頭痛いんだから」 「ああ、悪ぃ」 「で、何だって言うんだよ」 具合が悪いにもかかわらず、かおるの話を聞いてやるんなんて、俺も大概こいつに惚れてるよなぁ〜なんて、自分に感動しつつ、新は話の続きを促した。 「今日さ、塚原と…あっ、そうそう、ケーキ買ってきたんだ、後で食おうな。で、ケーキ屋に行く途中塚原と会ったんだよ。ダメ元でお茶に誘ったら、なんとOK出てさ〜。いや〜楽しかった。そうだ、新が中等部の時やらかした、節分豆まき事件聞いたぜ」 舞い上がってベラベラと話続けるかおるに新は顔をしかめた。 かおるの声の大きさもさることながら、その内容が新の頭痛に拍車をかけたからだ。 なにやら、熱も上がってきたような気もする。 「そんな話聞いてくるなよ」 「いいじゃん、俺、中等部のころの新って殆ど知らないんだから。それより、こんなにじっくり話せたの初めてだけど、塚原って話うまいよな〜」 「まあな。って言うか、お前、なんでわざわざ俺にそんな報告する訳? まさか病人あいてに過去の失態をネタに脅迫でもする気か。この極悪人」 「まさか。笑い話にはなっても脅迫できるようなネタはなかったしな……。なあ、新、聞いて欲しいことがある」 「だから、聞いてるだろうが」 「あの…さ。新だから、ぶっちゃけて言うけどさ」 「………」 口ごもるかおるに、新は嫌な予感を覚えた。 このまま、かおるの話を聞き続けてはいけない── 「俺さ──」 ── 聞きたくないっ! 中で鐘がうち鳴らされているように頭がガンガンする。文字通りこれはきっと警鐘だ。 ── 聞いてはいけない。 ── 止めろっ。 「かおる…」 「俺、塚原が好きなんだ。あいつを見ると、あいつといるとドキドキする。………協力して…くれるよな?」 かおるの問いかけに、新は目を閉じ、ゆっくりと頷くのが精一杯だった。 一応、かおるの行動は予想していたつもりだが、ここまではっきりと口に出されると、やはりショックは大きい。 うまくいくかいかないかというのは問題ではない。 自分が好きな相手が、自分以外の誰かを好きだという事実。 気付いていながらも、自分の考えすぎだと思い込みたかった。 しかし、それを聞いた今となっては、そんな思いこみさえできやしない── 気持ちが沈んでしまったせいか、今は頭痛のみならず、吐き気までが新を襲っていた。 健康な時に聞いたとしても、結構なダメージとなるであろうこんな話を、この状態で聞かされた新は、その後丸々3日間寝込むこととなる。 本日、一番可哀想なのは、実は緑ではなく、新だったのかもしれない── |