Alice──AL0000A




 火村というのは、とにもかくにも悪運の強い男である。
 幼少の頃に不治の病を患って死にかけたかと思えば、タイミング良く特効薬が発明されたり、寝坊して飛行機に乗り遅れたらその飛行機が墜落したり、その前後3年は新卒を募集しなかったサニーエンタテイメントが、彼の入社した年だけ新人を採ったりするのだ。
 これだけを記述すると、単に運が良いだけのようにも感じるだろうが、特効薬の発見があと1週間遅れていたならば、あと10分早く空港についていたならば、サニーが募集をかけるのがあと1日遅かったならば、火村の人生は今とは全く違っていただろう。
 そのギリギリ加減さときたら、これはもう、悪運と呼ぶしかないような代物だ。
 そして、伝説のアンドロイドに対しても、火村はその悪運の強さを発揮した。
 アリスを起動させる為にはもとより、彼に使用されている感情を司る機能──後日、emotion-system(エモーション・システム)と名付けられた──を研究・開発する為にも、あの手順を踏まなければならなかったのだ。
 つまり、火村があの時腹立ち紛れにアリスの鼻をつままずに、彼の解体を始めていたならば、全てのデータがデリートされてしまったのだ。
 まずはお前のことを説明してくれとアリスに要求して、その事実を聞かされた時、火村は思わずくわえていた煙草を机の上に落として火事を出しかけてしまう程に驚いた。
 そんな危ない橋を渡りきった自分もびっくりだが、何よりも大切だと言っても過言ではないその情報が誰にも知られていなかったことの方がよっぽど驚きだった。
「お前、それで、よく今まで無事だったな」
 呆れた口調で呟いた火村にアリスは軽い調子で応じた。
「保管されとった場所が場所やからね。都庁の地下10階にある要人専用核シェルター内の、しかもコールドスリープセンターに誰が入ってこれる?」
「さあ、誰だろうな」
 とは言ったものの、それが政府関係者であることは確実だ。
 アリスが眠りについてから、都庁は5回新築されているが、その地下シェルターは地中深くにあるだけに、そのままの状態で維持されていたのだろう。
 多分、アリスがスリープした時点では、彼が解体不能であることは、誰でも知っている情報だったのだろう。つまり常識である。
 常識であるが故に、誰もそれを文書化なりデータ化なりにしなかった。そして、時代が変わると共にそれは常識ではなくなり、いつしか失われた……そんなところだ。
 今更それを知ったところでどうなるものでもないが、感情を持っているからだけではなく、誰にも手が出せないという部分で、アリスは伝説のアンドロイドであり得たのだ。
 だが、その伝説もう一つの意味を失い、現在の日本経済は、かの平成不況以来と言われる程に悪化していた。
 だから、アリスが火村の元へと運び込まれることになったのだ。
 それにしても──
 考えても無駄なのは知っているが、どうしても思わずにはいられなくて、火村はすり切れんばかりにギリギリと奥歯を噛みしめた。
 ──そこまでするなら、緊急対応プログラムなんて組んどかねぇで、いっそ自分で解体しとけっ!
 火村が憤るのももっともだ。
 なんせ、スリープ解除方法があの有様で、しかも解体したすぐさま壊れてしまうだなんて、どうぞ壊してくださいと言っているようなものである。
 こいつを作った博士は絶対に変人に違いないと確信する火村は、自分がそんなアリスを起動できてしまった時点で充分普通ではないということを自覚していない。

*   *   *

「アリスっ! てめー、俺のバジルチキンサンド食っただろう!」
「確かに食うたけど、なにもサンドイッチ一つにそこまで目くじら立てんでも……」
 火村の研究室からアリスが今居る第3モニタールームまでは高速エレベーターを使っても降りてくるのに5分程度かかる。
 確かに、ここに降りて来る前、ちょっとしたいたずら心で火村の机の上に乗っかっていた皿から、サンドイッチをひとつだけつまみ食いしたが、たかだかそんなものひとつのために、ここまで来るかとアリスは大げさにため息をついて見せた。
 アリスが火村の元にきてから、既に3年の時が経つ。
 火村は、半月ほどかけてアリスの能力を見極めた後に、彼に自分のアシスタントとして仕事を手伝っては貰えないかと切り出した。
 アリスは火村を管理責任者と認めて以後、自分に使われているシステムに関する情報を彼に提供することを惜しまなかったが、その情報をもらって別の開発スタッフと組むよりも、情報源そのものと組む方が効率的だと考えたからだ。
 そして、それは正解だった。
 いくらなんでも人間に近すぎて、そのままの状態では消費者に不安を与えかねないアリスの情緒システムの応用法に関して、彼は火村に誰よりも適切な意見をくれたし、指示した仕事をあげてくるのも誰よりも早かった。
 それまでは、他人に仕事を振って、何度も質問されたり、その遅さにイライラするよりはと、全ての仕事を自分で抱え込み、会社に泊まり込むことが多かった火村だが、アリスと仕事を分担することによりそれもなくなった。
 火村が休む時はきちんと休んだ方が、作業効率が良くなるということに気付いたのもこの頃。
 結果、アリスの名を取って、ALシリーズと名付けられたemotion-system搭載のアンドロイドは、当初の予定よりも格段に早く、1年半程前から市場に出回っていた。
 ALシリーズの市販品、第1号のIDナンバーは『AL-A0001A』。
 そして、その生みの親ともいえるアリスのIDは『AL-A0000A』である。
 伝説のアンドロイドとはいえ、所有者及び管理責任者──大抵の場合、このふたつは同一名であることが多い──をアンドロイド管理センターに登録しなければ存在を許されないアリスに対し、他と物と区別する意味も込めて、彼には普通有り得ないゼロナンバーが与えられていた。
 そして現在、より感情表現が豊かになったAL-Bシリーズの発売が目前に迫っていた。
 アリスがモニタールームで行っていたのは、その最終チェックである。
 当初の目的通り、世界中に大きな反響を投げかけたemotion-system搭載アンドロイドは、現在その市場を独占しつつあり、生産が追いつかない状態だ。
 この新シリーズも発売されればすぐに売り切れてしまうことだろう。
 そんなドタバタした時期に、サンドイッチひとつのことで、こんなところにやってくる火村に、アリスはちょっと呆れていた。
 余談だが、この呆れるという感情は、既存のALシリーズにも、これから発売予定のシリーズにも登載されていないものだ。
 理由はそれこそ呆れるほど簡単。やっぱり、必要ないからだ。
 そんな必要のない感情まで持ち合わせるアリスに対して、火村は熱く主張を始めた。
「ただのサンドイッチじゃない。寄りによってバジルチキンサンドだ。最後にアレを食わなきゃサンドイッチを昼飯にする意味が無くなるんだよ。今日のランチが台無しだっ!」
「ランチて程のもんか? 単なるミックスサンドやん。しかも昼やないし」
 確かに、午後4時という時間は、どう考えてもランチタイムではない。
 アリスの突っ込みはもっともである。
 しかし、火村にとってはもっともではなかったらしい。
 アリスが、俺でもちょっと無理かもと思う程の長い台詞を火村は息継ぎもせずにまくし立てた。
「いつ食ったって俺が昼飯だと思えば昼飯だ。それに、単なるミックスサンドに、ハムや卵やキュウリのじゃなくてバジルチキンサンドが入っていてたまるかよ。あれはナスキャビサンドから始まってスモークサーモンサンドにクリームチーズ&ブルーベリーソース、モッツァレラ&トマトサンド、ラ・フランスジャム、そしてバジルチキンで終わる、火村スペシャルミックスサンドだ」
 そんな火村に心の中で「お疲れさん」と呟いた後、アリスは思ったことをそのまま口にした。
「そのミックスサンドの内容もすごいけど、ネーミングもまたすごいわ。いやぁ、会社に貢献しとるとそんなもんまで作ってもらえるんや。俺も頑張ったらアリススペシャルて名前でオール生ハムメロンのサンドイッチ作ってもらえるやろか」
 そう、このアリスというアンドロイドは、食べ物をエネルギーに変えることもできないくせに、いっちょまえに味の好みだけはあるのである。
 アリスのこの台詞に、今度は火村が呆れる番だった。
 究極の無駄飯食いとはお前のことだと言わんばかりに吐き捨てる。
「んな訳ねーだろ」
「何で? 俺がアンドロイドやから? 火村、それは差別発言やで。友人として扱う言うたくせに」
「友人だと思ってなかったら、こんなことで怒るかよ。違う。例え、お前が人間でもそんなメニューは作って貰えない」
「生ハムメロンは高いから?」
「違うっ! この際、パンにメロンなんて挟んだらぐちゃぐちゃになるだなんて突っ込みはなしにしてやるが…」
「プリンスメロンなら大丈夫やろ」
「そんな生ハムメロンの何処が楽しいってんだっ! そーじゃなくて、そもそも火村スペシャルミックスは社員食堂のメニューじゃねぇんだよ」
「なら、隣のビルの茶店?」
「社員食堂よりもっとあり得ないだろうが。火村という名前が付いている時点で俺が作ったに決まってる」
「えぇ〜! 今朝に限って朝早くからキッチンでごそごそやっとると思うたけど、自分で作ったん?」
「悪いかよ」
「悪くはないけど、ちょっと侘びしいかも」
「侘びしくても情けなくても、本当にうまい物が食いたくなったら自分で作る。これが一番簡単で安上がりなんだよ」
「いくら安上がりでもなぁ」
「何だよ、言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「別にぃ〜」
「畜生、感じの悪い奴だな。解体されたいかっ」
「は〜んだ、できるもんならしてみろや」
「言ったなっ。覚えてろ、いつか絶対壊してやるからなっ!」
 なんだかんだと言いつつ、頼りになるパートナーであり、喧嘩するほど仲の良い友人──
 これが、出逢ってから3年目の冬を迎えた彼らの関係である。

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