Alice──AL0000A




「…………」
 一大決心で、火村が自分でも恥ずかしすぎると感じる台詞を口にしたというのに、アリスは黙ったままだった。
 多分、火村の台詞が冗談か否かを判断しているのだろうが、どっちにしたって、言われた方が退いてしまう台詞には違いないだろう。
 こんなことならば「お前は俺の輝ける星さ」とでも言った方が、確実に冗談になる分まだましだったかもしれない。
 いや、別に冗談を言いたいわけではないのだが。
「火村」
 突然、アリスに名を呼ばれ、火村はごくりと喉を鳴らした。彼がこれから何を言うつもりなのか、全く予想がつかなくて。
「今の台詞、俺の目、見ながら言うて」
 冗談なんかではなく、真剣な表情と口調でアリスに告げられ、「えっ」と一言発した後、火村は再び固まった。
 前言撤回。アリスが何を言うか全く予想がつかなかったというのは嘘だ。
 自分は予想していたのだ。
 アリスが冷たい視線で自分を一瞥するだとか、真面目に応えろと怒り出すとか、可能性は低いものの面白い冗談だなと笑ってくれることだとかを。
 これがまだ「目を見て言えるか」だったなら、それは予想の範疇に入っていたかもしれない。
 それならば、言えないことを前提としての問いかけだから。
 しかし、アリスは「目を見て言え」と言った。
 そっぽを向いて言っても、充分すぎる程恥ずかしいあの台詞をだ。
 嘘ではないからこそ、とてもじゃないが、相手の目を見て言えない台詞というのも、世の中には存在するのだ。
 だが、出来ないことを無理してやらなければならない時があることも事実。
 そして、火村にとってのその時は、確実に今だった。
 ──畜生っ!
 火村は苦々しい表情と共に、右手で髪の毛をかき回した後、大きく一度深呼吸して、アリスに向き直り、彼の目を見つめた。
「お前は、俺の、アリスだ」
 二度とは言わないからなという意志を込めて、一言ひとことをはっきりと区切って言う。
 それを聞き終えたアリスは、何を納得したのか首を上下に振って「よしっ」と言った。
 ──何が『よしっ』なんだ?
 まあ、「よしっ」てことは、悪かないんだろうな、という、火村らしからぬ、なんとも曖昧な解釈はそれでも正解だった。
 様子がおかしくなるのも突然ならば、それが元に戻るのはもっと突然。
 そんな感じで、アリスの態度が唐突に元に戻ったのだ。
「それにしても、あんな台詞、よう真顔で言えたもんやな。さぶいぼ立つわ」
 あ〜、さぶさぶと言いながら両手で二の腕をさするアリスの態度に火村は表情を緩めた。
 アリスの言っている台詞の内容には大いなる反論があるものの、彼と再びこんな風に嫌味の応酬ができることが素直に嬉しかったからだ。
 折角だからと、火村はアリスの挑戦を受けて立つ。
「立てられるもんなら立ててみろよ。出来たらお前が夢見てた生ハムメロンのサンドイッチ作ってやるぜ。それにだ、先に泣きそうな顔して『俺は君とっての何?』って聞いてきたのはお前じゃないか。いやいや、不安にさせたのは俺が悪かったよ。その件に関しては素直に謝るさ」
「例によって、心がまったくこもっとらん謝り方やな。でも、ま、今回は許したる。君が《アリス》を見ていてくれるなら、俺は別に単なるプログラムでもかまへん」
 アリスの言葉に火村は眉を寄せた。
 この期におよんで、どうして話がそこに戻ると。
「アリス……違うだろ」
「うん、君の言いたいことは解っとるよ。俺とテレサは同じアンドロイドでも全く違うて言いたいんやろ。確かに俺ってば、特別仕様やしね」
「アリス、それも違う」
「うん、そうやね。それも解っとる。俺は多分、彼女が羨ましかったんや。たとえ量産品でもその持ち主にとっては代わりのきかん、たった一つのものになりえた彼女が。俺がこの世に生まれたそもそもの理由が、誰かの代わりだっただけに」
「あっ──」
 一声発して、火村は目を閉じ首を左右に振った。
 そういえば、一番最初にアリスは言っていた。
 自分は博士の大切な人とそっくりな外見で作られていると。
 極めて人間に近い感情を持つアリスは知ってしまったのだ。自分を作った博士が自分自身ではなく、その姿に他の誰かを見ていることを。
 その切なさを想像し、火村は唇をかむ。
 そして、次に口を開く。
 俺はお前を見てる──と伝えたくて。 
「アリス──俺は……」
「うん、君は他の誰でもなく俺を、《アリス》を見てくれとる。せやから、それでいい。それだけで充分や」
 微笑みながらも、どこか淋しそうな表情のアリス。
 ──どこの世界にそんな複雑な表情ができるアンドロイドがいるっていうんだ!
 次の瞬間、火村はアリスをその腕の中に抱きしめていた。
 こいつはもう、アンドロイドなどではない。火村にとってもっとも愛おしい《人間》だ。
「……火村?」
「うるせぇ、黙ってろ」
 言って、抱きしめる腕により一層の力を込める。
 言葉では伝えきれない何かを、どうしても彼に伝えたくて。
 いや、これはとってつけた言い訳だ。
 抱きしめずには居られなかったのだ。
 そんな火村の心中を知ってか知らずか、言われた通り黙ったアリスを、どれ程の時間抱きしめ続けていたのだろうか。
 アリスの指先にトントンと背中を叩かれ、火村は相手の肩口に埋めていた顔を上げた。
 アリスの瞳を覗き込むと、意味ありげに微笑んで、こっちを見ろというように左下に視線を流す。
 その視線に促され、火村もそちらに目をやった。
 ──腕?
 火村の目に飛び込んできたのは、アリスの左腕だ。
 怪訝に思い、火村がアリスの顔に視線を戻す。
 『よく見ろ』
 黙っていろと言われたからだろうか。アリスが声には出さずに唇だけで火村に告げる。
 訳が解らないながらも、火村はアリスの腕を改めてまじまじと眺めた。
 華奢な手首にはめられた銀色のブレスレットに、白い肌、ご丁寧にも1本1本植毛されている色素の薄い産毛。どこからどうみても人間のものにしか見えないアリスの腕だ。
 ──って、おいっ!
 火村は思わず抱きしめていたアリスを突き放し、その左腕を両手で掴んだ。
「アリス、てめぇ、なんで隠してやがったっ!」
「隠してなんかおらんよ。聞かれなかっただけや。そして、たまたま今まで見せる機会もなかった。それだけやな」
「どこまでも、意味不明なことを──」
 火村は今すぐコールドスリープしている博士をたたき起こして胸ぐらを掴みたい衝動にかられる。
 なぜって、アリスの腕にはしっかりと鳥肌=さぶいぼが立っていたからだ。
「生ハムはプロシュートにしてな」
 ──お前、切り替え早すぎ……
 にっこり微笑むアリスに、火村は憮然とした表情で、それでも約束は守る旨を告げる。
「メロンは夕張メロンにしてやるよ」

*   *   *

 医療技術が進化すると、それに併せて病気も進化する。いつの時代になっても、その図式に変化はない。そして、それは何も人間の病気ばかりに限ったことではないのだ。
 ここ5年ばかりで、一気に世界中に広がってしまった豚結核の弊害で、プロシュート(蛇足だろうが、イタリアの高級生ハムだ)の入手は現在非常に難しい。
 奇跡的にも日本では、その病気の感染が報告されていないだけに尚更。
 負けず嫌いの火村のことだ、意地でもプロシュートを手に入れるために、しばらくそれにかかり切りになるだろうと踏み、アリスは敢えてそのハムを指定した。
 気持ちの整理をする時間が欲しくて。
 アリスは人間と同じく感情というものを持ち合わせるが、同時に人間にはない機能も持っている。
 心拍数や呼吸の仕方、更には体温の変化等によって、相手がどういう状態であるか、ある程度知ることができるのだ。
 あの時──アリスを抱きしめていた火村は、感情が高ぶっており、ことによるとそのまま自分を押し倒しかねない状態だった。
 アリスが鳥肌を立てることができるのは、単に、より人間に近いアンドロイドを作ることにこだわったマニアックな製作者の趣味である。
 趣味であるからこそ、アリスにはあまり必要のない機能が山ほどついているが(一例を挙げるならば、内部に入り込んだ埃を除去する為のファンが作動する時に、くしゃみが出るだとか、一定時間以上スリープしないでいると目が充血するとかだ)、使用目的があるからこそついている機能も、当たり前だが沢山ある。
 自分のモデルとなった博士の友人と、博士本人の関係が実際どんなものであったのかは不明であるが、少なくとも博士側には恋愛感情があったのだと思う。
 自分の有する機能がその証明だ。
 例によって博士のこだわりからか、アリスは女を抱くこともできるが、男を受け入れることも出来る。
 とはいえ、今まで前者の機能は使われたことがなかったが。
 つまり、言葉を返すなら、後者の機能は使われたことがあるということだ。
 しかも、博士がコールドスリープするまでは、頻繁に──
 最初からそういうものだと思っていたので、博士に抱かれることには何の疑問も感じていなかったし、その行為自体にも、アリスは特別な感情は持ち合わせていない。
 だから、火村が自分を抱きたいと思うならば、敢えてそれをはぐらかす必要はなかったはずなのだ。
 しかし──
 こんな状況で──同情で彼に抱かれるのは嫌だと思った。
 誰かの代わりとしてではなく、自分を見ていてくれる相手だからこそ。
 今までだって多少の好き嫌いはあった。
 だが、それはAよりはBが好きだといった、どちらがより好きかという感情であって、嫌という程のものではなかった。
 ここにきて、自分は今、初めて《嫌》という感情の本当の意味を知ったのだとアリスは思う。
 機械として扱われたくない。
 自分自身を見て欲しい。
 お前の代わりなんていないと言って欲しい。
 思えば、ここ暫くの自分の火村に対する態度は、全部そんな気持ちの現れだったのだろうと思う。
 自分は変わった──誰に言われた訳ではないけれど、自分自身がそう感じる。
 そして、その変化が、アリスは怖かった。
 それが、何故なのかは解らなかったけれど──

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