Alice──AL0000A




「う〜ん」
 勢い余ってアリスを抱きしめてしまってから数日後。
 火村は、例の合金製のパイプで肩をトントンと叩きながら唸っていた。
 結局、合金が劣化する条件を割り出した火村は、それを強化するための研究までも押しつけられていたからだ。
 しかし、パイプ片手に、その件に関して悩んでいる振りをしながらも、火村が唸る理由は全然別のところにあった。
 いや、多少は関係あるのだろうか。
 一定の条件を完璧に満たさなければ発生しない合金の欠点。もしかすると、火村が発見したものの他にも合金を劣化させたり、逆に強化したりする条件があるのかもしれない。
 だが、それは、今回の工場の一件がなければ、特に研究しろと言われることではなかっただろう。
 なぜなら、その合金は完璧だと思われていたから。
 世の中に『完璧』なものなど、決してあり得ないというのに。
 そう、あり得ないのだ。
 火村はアリスのことは、作られた理由を含め、全ての構造を把握しているつもりでいた。
 今思うと、何を根拠にそんな自信があったのだろうと、自分自身で不思議になる。
 確かにアリスは火村が尋ねたことには──時には尋いていないことまで──快く応えてくれはしたものの、起動方法からして尋常じゃなかった彼に、自分の常識では思いつけない秘密が隠されていても、決しておかしくはないのに。
 どうして考えてみなかったのだろう。
 何故、アリスがあれほどまでに人間に似せて作り込まれているかの理由を。
 どうして今まで気にせずにいられたのだろう。
 アリスに使用されている人口皮膚が、この5年間一度も取り替えていないのに、まるで新陳代謝をしているかのように、全く劣化していないことを。
 どうして疑ってはみなかったのだろう。
 アリスの製作者である博士のことを尋ねても、よく知らないとしか応えない彼の言葉が本当かどうかを。
 どうして察してやることができなかったのだろう。
 最初に自分は博士の大事な人に似せて作られていると言っていた、アリスの心の痛みを。
 自分はアリス自身を見つめてはいたが、彼のことを何も解ってはいなかった。
 だから──
 自分が何も解っていなかったから、あの時、アリスにはぐらかされたのだろうか。
 まだ、口づけさえ落としていないあの段階で。
 これだけは、知っていながら敢えてアリスに確認しなかったことだが、彼はセクサロイドと同様の──もしかするとそれ以上の──機能を有する筈だ。
 というか、少なくともそれに必要なパーツは全て所有している。
 関西弁を操ったり、鳥肌をたてたりと、いらない機能満載のアリスに、敢えてその機能だけを付けなかったというならば、火村は逆に博士を見直すだろう。
 意味不明なのも、ここまでくると尊敬に値すると。
 だが、作られた経緯が経緯だけに、そんなことはまずあり得ないだろう。
 大切な人=恋人であるとは限らないが、アリスの場合は間違いなくその計算式が成り立つからだ。
 人が亡くなった人物に似せてアンドロイドを作る場合、その相手の属性は3種類に限定できる。
 恋人か、配偶者か、子供かだ。
 博士がコールドスリープしたのが、30代半ばの頃で、アリスの見た目年齢が20代半ばとくれば、消去法で答えが出る。
 博士が過ごしていた時代は丁度、同性愛に対しての理解が一番得られた時代だ。アリスの性別が男であることなど、その答えを出すためのなんの障害にもならない。
 いや、出生率の低下に歯止めをかける為に、同性愛が法で禁じられている今であっても、その答えは変わらない。
 ばか高い税金がかけられていても、セクサロイドを購入する人物がいることや、なによりも、自分の気持ちがそれを証明している。
 あの時、アリスを抱きしめずにはいられなかった、彼を愛おしく思う気持ちが。
 多分──関係ないのだろう。
 誰かが何かを好きになる時に、常識や理屈というのは。
 だが、それが解ったところで、自分がどういう風にアリスのことを好きなのかがよく解らない。
 確かにアリスを抱きしめたあの瞬間は、彼に口づけたいと思った。彼の全てを自分のものにしたいと思った。
 しかし、それは単に博士に対する嫉妬だったのかもしれない。
 いくら製作者だとはいえ、眠り続けている彼が未だアリスの心の大部分を占めていることが。
 君は、俺を見てくれる。だからそれいい──
 アリスのこの言葉は──たとえ、彼自身が自覚していなかったとしても──『俺を見て、博士』という言葉の裏返しに他ならないから。
 火村には相手の気持ちが何処を向いていようとも、それでもアリスが好きだと断言できる程の自信が、今はまだない。
 だが、その反面、心の奥底で願っている自分がいる。
 この気持ちが、確実に恋に変わる、その瞬間が欲しいと──

*   *   *

 心の奥底で何を願っていようとも、そんな瞬間がそんじょそこらに落ちている筈もなく、更にはいつまでもう〜んう〜んと唸ってばかりいる場合でもなく、火村の悩みはあっさりと日常に飲み込まれた。
 合金強化の研究の他にも、火村が抱えている仕事は山ほどあったし、目先のことに気をとられて、芹沢の件を後回しにしてしまったがツケが、ここに来て一気に回ってきていた。
 一体どこから入手したものやら、芹沢は、ちまたで《悪魔のディスク》と呼ばれるイリュージョンディスクにのめり込みやがったのだ。
 イリュージョンディスクは、200年程前にこの世に現れ、あっという間に規制されてしまったものだ。
 だが、現在でも闇で取り引きされるそのソフトは、麻薬と同様の誘惑と効果と金を生み出す。
 人の脳波に直接作用するそれは、薬という形ではなくとも、強力な幻覚剤と呼ぶべきものだ。
 もともとは、映画を3Dで楽しむためのハードを使って、イリュージョンディスクを再生すると、現実では決して得られないような高揚感が得られる上に、望んでいたことが現実となるのだ。
 あくまでもヴァーチャルの世界。
 しかし、それが現実よりもよっぽど楽しい世界ならば、特別弱い人間でなくても、人はそちらにのめりこむ。
 そして、キリがないと知りつつも、数回使用すると身体が慣れてしまい効果が薄れるそのディスクは、次々とより効果が強いものを買い続けずにはいられなくなり、もちろん、全ての物がそうであるように、効果が強くなればなるほど、値段も上がってゆく。
 そう、精神も健康も金も、その全てを削り取る、まさしく悪魔のディスク、それがイリュージョンディスクなのだ。
 友人の部屋を訪れ、自分の目には見えない幻のテレサに話しかける芹沢の姿を見た時、火村は泣きたくなった。
 自分の友人はここまでもろい人間だったのだろうかと。
 芹沢の頭から、3Dを体感するために必要なヘッドセットをむしり取り、火村は友人の肩を揺さぶった。
 急に現実に引き戻されたために、暫くは呆然としていた芹沢であるが、自分の目の前にに火村がいることに気付くと、嗚咽をあげて泣き出したのだ。
 テレサに会いたい──と。
 そんな友人を、ブランデーをたっぷり落としたホットミルクで落ち着かせ、彼が寝ている間に全てのイリュージョンディスクを破棄した。
 そして、その日はそのまま芹沢の部屋に泊まり、彼が起きるのを待って、二度とイリュージョンディスクには手を出さないことを約束させ、自分も出来る限りこの部屋に顔を出すことを約束した。
 約束どおり、芹沢の部屋に通い詰める火村に向かって、
「友達を心配するのは結構やけど、俺は君の健康の方が心配や」
 と、アリスが帰宅した火村に人差し指を突きつけたのは、彼が芹沢の部屋に通い出してから10日余り経った頃合いだ。
 アリスの心配はもっともだと思う。火村は自分自身でもそろそろ体力の限界を感じ始めていたし、永久に芹沢のところに通い続けることなんてできる筈がない。
 しかし、1人にすると、芹沢が淋しさから再びイリュージョンディスクに手を出すことは、ほぼ確実だ。
 これは、友人を信用していないのではなく、イリュージョンディスクが持つ強力な常習性に起因する問題なのだ。
 とあるワクチンを投与し続ければ、イリュージョンディスクを使っても悪夢しか見られなくなることは知っている。
 だが、その薬はその辺のドラッグストアで買える代物ではなく、イリュージョンディスクの中毒患者を更正させるための専門機関しにか存在しない。
 そして、専門機関に彼をゆだねてしまうと、もれなく刑務所行きもくっついてくるのだ。
 いくら情状酌量の余地があっても、それを使用した者には決して執行猶予がつかないのは、それだけイリュージョンディスクが問題視されているからだ。
 事情が事情だし、相手が友人だけに、火村はそれを避けたかった。
 まあ、他にもちらりと頭の片隅をよぎった解決策がないこともないのだが、それは、友人を刑務所送りにするよりも、人としてどうかと思える方法だった。
 そもそもの諸悪の根元であるイリュージョンディスクからヒントを得た解決策だっただけに、もうちょっと、もうちょっとだけと、それを実行するを先延ばしにして迎えた16日目。
 今度は人差し指ではなく1枚のディスクをアリスは火村に突きつけた。
「今、ざっとスキャンしてみたんやけど、君、いつ倒れてもおかしくない状態やで。もう、方法選んどる場合やないんやないの。スクラップ覚悟で俺も共犯者になったる。コレ使い」
「コレ使いって……、内容は?」
「アリス特製イリュージョンディスク、記憶すり替えヴァージョンや。芹沢さんに必要なのは、テレサの死を受け入れて他のアンドロイドを所有するためのきっかけや。筋書きはこう。芹沢さんが現場に駆けつけた時、テレサはまだ生きていた。虫の息の彼女はこういう。私はもうあなたとは一緒にいられない。私のこと忘れないでいてね。でも、あなたは幸せになってくれなくちゃ駄目。私に遠慮なんてしないで、新しいアンドロイドと仲良く暮らして……ガクッ(絶命)。とはいえ、テレサ以外のアンドロイドと暮らすだなんて考えることも出来ない芹沢さん。しかし、そんなある日、芹沢さんは冬の雨に打たれて路地にうずくまる、捨てアンドロイドをみつけるんや。一度は無視して帰宅したものの、やはり気になって後から見に行くと、そのアンドロイドはまだそこにうずくまったままやった。よくよく思い出してみると、その日は芹沢さんがテレサを手に入れた日──つまりテレサの誕生日や。そんな日に捨てアンドロイドを自分が見つけたのはテレサの意志かもしれない。そう考えた芹沢さんは、雨に濡れるアンドロイドに傘を差し掛けて、自宅に連れて帰る。どうや? 我ながら完璧なシナリオや」
「……捨てアンドロイドってお前──」
 現代においてアンドロイドを捨てることなど不可能だ。いくら左手首の認識票を引きちぎったところで、彼らの骨組みには製造番号が刻み込まれているのだ。
 そんなことをしたら、あっという間に所有者が割り出され、警察から連絡が入り、罰金を払わされるだけだ。
 アンドロイドを処分したければ、手続きを踏んで誰かに譲るか、金を払ってスクラップ工場に持ち込むしかない。
 まあ、その点は百歩譲って目をつぶるとしてだ、なんなんだその恥ずかしいシナリオは。
 遅刻しそうな女子高生が食パンくわえて道路を走り、角を曲がったら素敵な男の子とぶつかって、それがきっかけで恋に落ちるってのと同じくらい、現実にはあり得そうにない話だ。
 と、思ったままを火村が告げると、アリスはにっこりと笑ってこう言った。
「あほやな火村。あり得そうもない話やからこそ、インパクトが強いんやないか」

*   *   *

 結局、アリスの笑顔に押し切られる形で、火村はその計画を実行することになった。
 アリスの作ったイリュージョンディスクもどき──といっても、その効果は本物よりも強力だったりするのだが──を、巷で話題の人気ソフトだと偽り芹沢に再生させる。
 もちろん、そんなもので他人の記憶を操ることが、犯罪なのは承知の上だ。
 だが、優しい嘘がこの世に存在するなら、優しい犯罪も存在してもいいのではないだろうか。
 ──ってのは、単なる言い訳か。
 と、苦笑しながら、ことの成り行きを見守って得られた結果は、満足できるものだった。
 以前の所有者に虐待されていたという、偽の記憶を植え付けた、捨て──本当は単なる中古──アンドロイドを芹沢は受け入れ、彼女はテレサの生まれ変わりだと、火村に紹介したのだ。
 ほら、俺の言った通りやろ、とこっそりウインクしてみせるアリスに、曖昧な笑顔で応えながらも、火村は急に自分たちがしたことが恐ろしくなった。
 しかしながら、それは犯罪を犯してしまったことからくるものではなかった。
 それは、人の記憶がこんなにも簡単に塗り替えられてしまうことに対しての、耐え難いほどの──恐怖。

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