Alice──AL0000A




「うわぁぁぁぁ〜〜〜」
 自分の叫び声に驚き目を覚ますと、火村はガバッと身を起こした。
 暗闇に自分の荒い呼吸音だけが響き、衣服が汗を吸ってじっとりと重くなっているのがわかる。
 夢──
 目が覚めたということは、つい先刻まで火村が居た世界は夢の中だったのだろう。
 しかし、その夢には妙にリアリティがあった。
 現実と混同してしまう程に──

*   *   *

 火村は会社から彼専用に与えられている、いつもの研究室にいた。
 いつも通り山積みされている仕事に、たまに研究室を訪れるいつも通りの顔ぶれ、いつも通りの機器類に、いつも通りのコーヒーと煙草の匂い。
 いつもと全く変わりない筈なのに、何かが足りないと感じる不思議な感覚。
 それだけならば、気のせいにできたが、おかしいと思うことは他にもあった。
 PCに打ち込んであるスケジュール。
 これを打ち込んだのは間違いなく自分だ。だが、今それを見ている自分は、この予定はちょっと無茶だと感じている。
 確かに、火村は他の人間ならば絶対にこなせないとと裸足で逃げ出すような量の仕事をこなしている。
 しかし、傍から見ていくら不可能に見えたとしても、火村は火村なりにこなせる予定しか組まない。
 このスケジュールどおりに仕事をこなすとしたら、さしもの火村でも自分が2人くらい欲しくなる。
 俺は何を考えてこんな予定を組んだんだ、と首をひねると、火村は机の引き出しを開けた。
 様々なソフトとハードが充実した現代においても、不慮の事故に一番強いデータ保存の方法は紙に鉛筆で書き記すことだ。
 火事によって消失しまうのだけは、どうしようもないが、その他の場合においては殆ど無敵といっても良い。
 まず、紙に書かれた情報は勝手に壊れない。それどころか、間違って踏んづけてしまっても、磁石の近くに置いても、コーヒーをこぼしても、猫がその上で昼寝をしたあげくに粗相をしたとしても、それから情報を取り出すことは可能なのだ。
 ハードを必要としない記録媒体──つまり書籍──が、その数を減らしても決して無くなりはしないのがそれを証明している。
 更に、時を経てその文字が薄れてしまったとしても、鉛筆書きの場合、それを読みとることが可能だ。
 肉眼では見えなかったとしても、紙の上に残された炭素の成分を拾い上げれば、そこに書かれた文章はよみがえる。
 そういう事情で、書く物と書かれる物をこよなく愛する火村の机の引き出しには、走り書きのメモ用紙が常に突っ込まれているのだ。
 確か、仕事の優先順位と一番効率の良い流れの兼ね合いを考えていた時のメモが残っていた筈だと、彼は引き出しの中をかきまわした。
 目的の物を探しだした火村は、再び疑問にぶちあたる。
 紙の左側に箇条書きされているのが、今自分が抱えている仕事だというのは一目瞭然だ。その右側にある丸で囲まれた数字が仕事の優先順位だというのも解る。だが、全体量の2/5程度の仕事に数字の代わりに《→A》という書き込み、これはなんだ?
 いや、なんだじゃなくて、答えは出ている。
 仮に、《→A》と書き込まれた分の仕事を誰かに──その誰かが火村に負けないスピードで仕事をこなすのが必須条件ではあるが──処理してもらったならば、PC上のスケジュールは実行可能なものになるのだ。
 ──でも、いったい誰に?
 現在の火村の仕事はその殆どがemotion-systemがらみのものだ。
 他の仕事ならば、時間をかければ他の人間にもできるだろうが、emotion-systemだけは話が別だ。
 emotion-systemを走らせるためだけに作られたSK言語という特殊な言語を理解できる者は火村以外にいないからだ。
 ──作られた? どうして作ったじゃないんだ?
 emotion-systemは上層部に強要されて、嫌々ながらも一から十まで火村が作り上げたものだ。もちろん、SK言語も。
 それなのに、自分は今、古代の遺跡のことでも語るように、自然に《作られた》という言葉を使った。
 大抵の場合、この言葉の前につくのは《○○によって》である。
 自分が作った物に対して使うのは、やっぱり不自然だ。
 ──俺は、何か大切なことを忘れている。
 改めてそう感じる。
 だが、これ以上それについて考えている暇はない。
 確かに無茶なスケジュールだが、咄嗟の計算によると、睡眠時間を10日で4時間にしたならばやってやれない量ではないという答えが出てしまったからだ。
 ──やってやろうじゃないか。
 火村は不適な笑みを浮かべる。
 この不自然さを追求するのは、こいつらを片っ端からやっつけてからだ。
 まずは、忙しい時を狙って入ってくる、細かい仕事をまとめて処理する。
 ひとつひとつをとれば大したことのない雑魚な仕事も、ちりも積もれば山となる状態で、いっちょまえに火村の時間を費やさせてくれるのだ。
 とはいえ、気合いをいれただけあって──別に普段は気を抜いてやっている訳でもないのだが──その日の深夜には、火村の仕事は予定より5時間先行していた。
 俺ってやっぱりちょっとすごいかもだなんて、君、案外あほやろと突っ込まれそうな、自画自賛をしながらも、火村の予定は翌朝までに8時間の貯金を作ることだ。
 2日めの朝までに、この貯金を12時間にできれば、後半疲れからペースが落ちてきたとしても仕事はこなせる計算だ。
 ──また、健康管理も仕事の内だと怒られそうだけどな。
 苦笑を浮かべながらも、端末を叩き続けていた火村の指が、ふいにピタッと止まる。
 ──怒られる? 誰にだよ。
 いやいや、考えるのは後にすると決めただろう、と再び指を動かしつつも、火村の頭は仕事には戻らない。
 そうなのだ。たまに火村の態度に対して嫌味をくれる上司は居るが、健康管理をしろだなんて火村を怒る人間はいないし、ましてや自分に向かってあほだなんて口にする根性のある人間はもっと居ない。
 ──畜生、誰なんだ。
 火村の両手が再び端末から離れ、頭を抱える。
 そう、朝から感じているこの不自然さ。
 これは、居るべき誰かが居ないことにによるものだ。
 頭を抱えたまま、火村は自分の記憶の底を探ってゆく。
 そう、確かに誰かがここに居たような気はするのだ。
 コーヒーカップを差し出す手。
 鳶色の瞳。
 手首に光る銀色のブレスレット。
 前方の机の上のサブマシンに向かう人影。 
 その記憶にアクセスは出来ないものの、網膜に焼き付いた光景だけが断片的に残っている。
 そんな感覚。
 それは、確かにいつか見た光景だ。
 ──いつなんだ……
 次から次へと記憶の検索を繰り返す。
 ……違う、……違う、…………違うっ!
 どこかにストックされている記憶の筈なのに、火村の頭脳の高度な検索機能をもってしても、それは出てこない。
 その気持ちの悪さに、火村の肌は粟立った。
 ──鳥肌……
 何故だかわからないけれど、これも引っかかるキーワードのひとつのようだ。
 ──鳥肌……鼻先をくすぐる髪の毛……悲しげな瞳……駄目だ続かない。
 しかも、自分で連想しておきながら、そのつながりがさっぱり解らないとは何事だ。
 ──畜生
 火村の両手が、若白髪の多い髪の毛を引っかき回しだした丁度その時だ。
 パソコン画面にメッセージボックスが現れ、重要性の高いメールが届いたことを知らせる。
 ──こんな夜中に?
 不審に思いつつもメーラをアクティブにして届いたメールを確認すると、それは厚生省──一時期労働省とくっついていたこの省は100年程前に再び分離していた──に勤める大学時代の知り合いからで、内容は火村が依頼していた個人輸入の許可が降りたというものだった。
 ──生ハム?
 火村は首を傾げた。
 いや、確かに自分がコネを使って彼に個人輸入許可の申請をしたのは事実だ。
 しかし、生ハムは嫌いじゃないが、夢に見る程好きではないし、仮にそうだとしても日本製のものなら口に入る。わざわざイタリアからプロシュートを取り寄せようだなんて思った自分の気持ちが解らない。
 ──究極の生ハムメロンでも作れってか。
 心の中でそううそぶいた瞬間だった。
 火村は強烈なフラッシュバックに襲われる。
 バシュッ、バシュッと音を立てているかのように次々と切り替わる場面。
 この腕で抱きしめた細身の身体。
 研究室に持ち込まれたガラス張りのボックス。
 悲しげな表情。
 究極のアンドロイド。
 一番大切なもの。
 瞼が開く瞬間。
 失いたくないもの。
 よろしくと差し出された右手。
 失えないもの。
 にっこりと微笑む笑顔。
 奪い取りたいもの。
 アリス──
 全ての記憶が戻る。
 風間蒼──アリスの製作者──が永い眠りから目覚め、アリスを取り戻しにきたのだ。
 それを拒んだ火村の記憶を彼はイリュージョンディスクを使って改ざんした。
 そのディスクを作ったのはアリス。
 アリスは自分よりも博士を選んだのだ。
「アリス……アリス」
 震える唇で彼の名を呼び続けても、もう返事が返ってくることはない。
 絶望感が真っ黒に目の前を塗り潰してゆくのがわかる。
 アリスはもうここには居ないのだ。
 そして、もう二度と会う気がないからこそ、アリスは自分の記憶を改ざんした。
 火村は永遠にアリスという存在を失ってしまったのだ。
「あっ……」
 いつの間にか、頭から机の上に移動していた自分の手の甲に、ぽたりと熱いしずくが落ちた。
 自分は泣いているのだ。
 それに気付いた時、火村は自分の失った存在の大きさを実感した。
「うわぁぁぁぁ〜〜〜」

*   *   *

 嫌な夢だった。
 その内容もさることながら、気になることがあっても仕事を優先しているあたりが嫌な感じだ。
 夢の中でさえ、自分は自由ではないのだ。
 はぁ〜とため息をついてみて、喉がカラカラに乾いているいることに気付く。
 取りあえずは水だと、ベッドから降り掛けた火村は自分が普段は着ないパジャマを着ているのを見て、その動きを止めた。
 ──夢、本当に夢なのか? 大体、俺はいつ寝たんだ。
 昨夜──でいいのかどうかは解らないが、とにかく寝る前──は、自分は芹沢の部屋にいた筈だ。
 いや、自宅の玄関をくぐった覚えはある。
 だが、その後の記憶がない。
 もしかすると、アレは夢ではなくて本当に起こったことなのではないだろうか。
 自分は記憶を消され、アリスのことをすっかり忘れて普段の生活を送っていたのかもしれない。
 リビングにあるデジタル日めくりの日付が記憶と例えばひと月違っていたら、俺はどうするのだろう。
 そう思うと、火村は身動きできなくなった。
 身体どころか視線さえ動かせない。
 下手に視線を動かして、それが現実になってしまうものを見るのが怖かったたからだ。
 だが、現実は向こうからやってきた。
「火村? どうかしたん?」
 寝室のドアが開き、アリスが顔を覗かせたのだ。
 その声に、顔を上げて心底ほっとしたような表情を浮かべる火村にアリスはつかつかと歩み寄り、顔を覗き込んだ。
「悪い夢でも見たんか。汗びっしょりやん。無理するから玄関先で気ぃ失のうたり、変な夢みたりするんや。何事も程々にしとけっちゅー教訓やな。まあ、弱っとる君にこれ以上説教すんのも酷やからこの辺で許したるけどな。待ってろ、今、水持ってくるから」
 タオルと着替えもいるかな、と呟いて立ち上がったアリスの左手首を、火村の右手が決して離すものかと言わんばかりの力強さで引き留める。
 アリスの手首にはめられた、銀色の認識票がシャラリと音を立て、火村の望んだその瞬間はやってきた──

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