Alice──AL0000A




「アリス……」
 伝説のアンドロイドの名を呼ぶ火村の声は震えていた。
 いや、声だけではない。
 アリスの腕を掴む手も、そして心も、身体中が初めて味わうその感覚に震えている。
 背筋から悪寒が這い上がってきているようで、それでいて胸だけは熱く苦しいこの感覚に、息苦しささえ感じる。
 今こそ全てが解った──
 自分がアリスを起動することが出来たのは、本当に奇蹟であったということが。 
 アリスが自分の元を立ち去る時が来るかも知れないと、リアルに──夢だとはいえ──実感した今、やっと。
 アリスの所有者──風間蒼。
 火村が現在手に入れたくてたまらなくて、しかし、決して手に入れることの出来ない権利を有する彼でさえ、今の火村ときっと同じことを思った。
 こんなすさまじい性能のアンドロイドを作るほどの彼は知っていたから。
 自分が目覚める日が来ない確率の方が高いことを。
 たとえ、目覚められたとしても、それまでに長い──長い時間がかかることを。
 賢い彼は推測する。
 自分の名前と頭脳が絶大な力を持っている現在はともかく、将来、アリスは欲にかられた誰かの手にかかるかもしれないと。
 そして彼は思う。
 そんなことは絶対に許しはしないと。
 だからこそ、アリスの起動方法はあんなに訳の解らないものだったのだ。
 彼以外、誰にも起こされることがないように。
 仮になにかの間違いで起こされたとしても、相手の言葉に少しでも嘘があったならば、全てのデータがデリートされてしまうように。
 それでもアリスを完全に起動させるための、唯一の道筋が残されていたのは、多分博士の賭だ。
 丁度、犯した罪の告白文を小瓶に詰めて海に流してみるような。
 今の火村には博士の気持ちが手に取るように解る。
 なぜなら、信じがたい感情ではあるが、今自分は確実にこう思った。
 アリスが自分に背を向けて、誰かの元に向かうのであれば──
 いっそ、自分の手でアリスを殺してしまいたいと。
 そうしてしまえば、アリスの全てが自分の手に入ると。
 こんな感情は恋とは呼べない──
 こんな情熱は愛でさえない──
 ただ、ただ狂おしい程の独占欲。
 今、自分の正気とアリスをかろうじてつなぎ止めている右手──
 これが、火村の賭だ。
 いつの日か目覚めて、自分が掛けに負けたと知った時、博士は一体どうするのだろうか。
 それと同様に、アリスにこの手を振り払われたならば、一体自分はどうするのだろうか。
 それを思うと、火村の身体は更に震えた。
 深い闇の中から、早くこちらに来いと何かに手招きされているようで──

*   *   *

「アリス……」
 自分の手首を握りしめる友人に、掠れた声で名を呼ばれ振り返ったアリスは、火村と視線がかちあった瞬間、全く動くことが出来なくなった。
 視線に捕らえられるというのは、こういうことを云うのだろうか。
 見ようによっては攻撃的にも思える、刺すような視線。
 だが、それだけならば、アリスが動けなくなるようなことはなかっただろう。
 そんな視線でアリスを見つめながらも、彼は震えていたのだ──
 こんな──今にも壊れてしまいそうな火村を見たのは初めてだ。
 一体、火村はどんな悪夢を見たのだろう。
 あんな絶望に満ちた悲鳴をあげる程に、火村を追いつめる夢の内容をアリスは想像することができない。
 いや、今目の当たりにしていなければ、こんな風に身体を震わせる火村の姿さえ想像できなかっただろう。
 しかし、想像できないからこそ、これが尋常ではないことだということが解る。
 子供が母親にすがるように、決して自分の手首を離そうとはしない火村の手。
 それで火村の気持ちが落ち着くのならば、いつまでそうしていてくれても構わない。
 それどころか、震えるその身体を抱きしめてやりたいとさえ思う。
 いや、違う──
 彼の為などではなく、自分が彼を抱きしめたいのだ。
 自分にすがってくる火村が切なくて、そして更には愛おしくて──
「あっ……」
 そのことに気付いた時、アリスは思わず声を発していた。
 その声に、火村の身体が更に大きく一度ビクリと震えた──

*   *   *

「あっ……」
 訝しげな表情で自分を見つめていたアリスが、何かを思い出したように短く発した声に、火村は身をすくませた。
 この声をきっかけに、止まっていた時間が動き出したのが解ったからだ。
 間もなく、その時がやってくることが。
 その結果がどうなるかだなんて、全く解りはしない。
 だが、確実に何かが起こるのだ。
 火村は固唾を飲んで審判の時を待った。
 今度は、闇の中から自分の名を呼ぶ声までが聞こえるような気がする。
 しかも、仲間を見つけた時のように、楽しげな声で──

*   *   *

 そんな火村に、アリスは微笑んで見せる。
 大丈夫、俺がここにいるから──
 彼を再び驚かせることがないように、アリスは視線を合わせたままゆっくりとした動作で、ベッドに腰掛ける火村の両膝の間に、自分の片膝をついた。
 そのまま一呼吸だけ間をおいて、次にゆっくりと火村の震える体を抱きしめる。
 抱きしめてみて、改めて実感する。
 ──同情なんかじゃなかった。
 人が相手を抱きしめたいという衝動にかられる時──
 それは相手が愛おしくて仕方のない時。
 そんな時に、人は人を抱きしめるのだ。
 自分がここに居ることを伝えたくて。
 言葉だけでは伝え切れない気持ちを伝えたくて──

*   *   *

 片手を自分に預けたままで、それでもアリスは力強く火村を抱きしめた。
 自分の存在を火村に知らしめるかのように。
 火村がそこにいることを確認するかのように。
 そして、アリスは火村に向かって静かに告げる。
「火村、君の居場所はここや。そして……俺の居場所もここでいいんやろ」
 ──ああ……
 火村は大きく息を吐くと、天を仰いだ。
 だが、それは自分が賭けに勝てた安堵からくるものではなかった。
 自分のばかさ加減に呆れたからだ。
 決して手に入らない肩書きなんかを欲しがるからこんなに不安になるのだ。
 まだ起こってもいないことに怯えるから、闇に浮かぶ白い手に手招きされたりするのだ。
 今、アリスがここに居る。
 それだけで、自分は充分幸運であるというのに。
 来ないかも知れない別れに怯えるよりも、アリスと出会えた奇蹟に、自分の悪運の強さに感謝しろ。
 ──俺の居場所はここだ!
 火村は自分を闇に誘う手を振り払い、アリスの問いに応えた。 
「当たり前だ。他に居場所なんてあってたまるか」

*   *   *

 それは、極々自然の流れだった。
 どちらかが一方的にではなく、お互いがお互いの居場所を確認するように抱きしめ合った。
 互いの顔を見たくて見つめ合い、その視線に引き寄せられるように唇が重り、更には舌が絡み合った。
 それだけではとても足りなくて、ふたりを隔てる邪魔な衣服をはぎ取り、互いの素肌を感じ合う。
 火村はアリスの体中、至る処に紅色の刻印を刻み込み、アリスは火村の背中に爪をたてた。
 その痛みに眉をひそめながらも、もっと深く傷つけてくれればいいのにと火村は思う。
 その跡が決して消えることがないように。
 互いだけを見つめ合っているこの瞬間を、決して忘れることのないように。
 そんな思いと自分の欲望に忠実に、火村はより深く腰を進めた。
 それに応ずるように、アリスの爪も火村の背中に一層深く、きりりと突き刺さった。
 その夜、薄暗く照明を落とした部屋の中に、熱を含んだ息づかいとしめった音だけが響き続け、彼らは確かに解け合った。
 近い将来、火村の悪夢が現実になることを、今は未だ知らずに──

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