Alice──AL0000A


11

「初めまして」
「お目にかかれて光栄です」
 その言葉が本心ではない証拠に、風間が差し出した右手を、火村は笑顔を保ちつつもきっぱりと無視した。
 そんな火村の態度に、風間は『はいはい解りました』というように、頷きながら行き場を失った手を肩の処まで上げて見せた。
「確かに、僕も時間を無駄にするのは嫌いだ。特に、300年も待たされたあげくに、残された時間が多く見積もっても10年程度だなんて聞かされた今となってはね」
 風間の言葉に、火村の表情が引き締まる。
 しかし、それは表情だけのことであって、笑顔を浮かべていた時から、火村の視線の鋭さは全く変わっていなかった。
 自分の目を見つめ続ける火村の視線を、改めてしっかりと受け止めると風間は告げた。
 静かではあるが、決して拒絶は許さないという迫力を持った口調で。
「アリスを、返して貰おう」

*   *   *

 風間は医学全般に細胞生物学・生体工学・電子工学、その他様々な科学を修めた偉大な科学博士だった。
 幼少の頃から神童と呼ばれた彼は、20歳を過ぎても只の人にはならず、20代半ばの頃から世界のあらゆる科学開発研究にブレインとして招かれ、多大な実績を残した超人的な天才である。
 しかしながら、彼が表舞台で活躍したのは、わずか10年余りだ。
 その僅かの間に50年分は時代を先に進めたと言われる彼が、突然失踪した時は、様々な噂が流れた。
 交通事故に遭って記憶喪失になったとも、某国の諜報機関に身柄を拘束されたとも、あげくに宇宙人にさらわれた等々と囁かれたその噂の中に、真相に近いものはただ一つとして混じってはいなかった。
 風間の頭脳と彼が将来継ぐことになるだろう大企業の強大な権力を持ってしても、その関係を細心の注意を払って隠さなければならなかった彼の恋人は、小国ではあるが、そこだけでしか算出されないレアメタルで潤っている某国の第一王子だった。
 電流の流し方によって性質を100通りにも変えると言われるそのレアメタルは、発見当初、可能性を期待されながらも、極々限られた使い方しかされていなかった。
 その可能性を最大限引き出す為の研究に、風間が携わることになったのが彼らの出会いだ。
 自国を支える産業をより深く理解したいという本人の意思と、彼の持つ専門知識が研究に役立つと判断されたことによって、王子は1年間という期限付きで、レアメタル研究所のスタッフに参加していたのだ。
 5ヶ国語を操る彼は日本語も堪能で、綺麗な標準語で話しかけられた時、風間は少なからず驚愕した。
 あまり話す機会がないので、練習の為に時々日本語でのおしゃべりにつき合ってくれませんか、と王子が風間に申し出たのをきっかけに、彼らは急速に親しくなった。
 それは、彼らがよく似た立場に置かれた人間だったからかも知れない。
 国と企業、その規模に違いはあっても、将来トップに立つ者として期待されることの辛さは同様だ。
 自分の気持ちを解って貰える心地よさと、互いに感じた親近感が、恋愛感情に変わるのに、さして時間はかからなかった。
 王子が研究所を去る日、彼らは全てを捨てて共に生きることを誓い合う。
 互いの身辺整理が出来るまでの一時的なことだと解っていても、愛し合う者にとってやはり別れは辛い。
 それでも、その後の生活に思いを馳せ、苦難の道へと踏み出した彼らを待ち受けていたのは、悲劇と呼ぶしかないものだった。
 聡明な王子が王位に付くことを望まない者──どんな種類の人間であるかは想像に難くないだろう──によって、彼が暗殺されてしまったのだ。
 遠く離れた日本で、彼の訃報を聞かされた風間は生まれて初めて貧血で倒れた。
 それでも気力で立ち上がり、特別機をチャーターして文字通り恋人の元へ飛んだ風間だったが、彼の葬儀に参列した後、その気力も尽きた。
 魂を抜かれたかのように、自宅にこもったまま1年の時を費やした彼が、ある朝突然、奇蹟の復活を遂げたのは、昨夜見た夢のせいだ。
 恋人が他界した後、夢の中でさえ棺に横たわる姿でしか彼に会えなかった風間だったが、昨夜は違った。
 何気ない日常のワンシーンを切り取った様な夢ではあったけれど、彼のやさしい笑顔を見て、心地よく響く彼の声を聞き、風間は思い知らされた。
 どんなに長い時が経とうと、自分が決して彼を忘れる日など、やっては来ないということを。
 ならば──
 どんなことをしてでも、彼を取り戻してみせる。
 買ってくれるというならば、今すぐ悪魔に魂を売ってでも。
 実際問題として、風間のところに悪魔がご用聞きにきてくれることはなかったが、彼がその後成し遂げたとは、ある意味悪魔の力を借りたとしか思えない程のものだった。
 極めてスムーズに二足歩行をするロボットがニュースで取り上げられ、人間の声を理解するコンピュータさえまだ存在しなかったその時代に、風間は僅か3年余りで、人間と見まごうばかりのアンドロイドを作り上げたのだ。
 しかし、風間はその3年の間に気付いてしまった。
 いくらそのアンドロイドを人間に近づけても、いくら容姿を亡き恋人に似せてみても、いくら事細かに彼の癖や好みをプログラムしてみても、それは所詮まがい物であることに。
 僅かに感じる違和感。
 風間以外の人間ならば気が付くこともないだろう、その僅かな違和感が、どうしようもなく彼を苛つかせるのだ。
 いっそのこと壊してしまえと、幾度スパナを振り上げたことだろう。
 だが、なまじ完璧に出来上がってしまっている彼の顔を見ると、風間はいつもそれを振り下ろすことが出来なくなった。
 そして、追いつめられた人間は、過去の記憶を辿る。
 同じでなくてもいい、似たような状況を思い出し、どんな風にそれを解決したかを記憶の底から探り出すのだ。
 そうしてみると、自分がどうするべきかの結論はすぐ出た。
 なんの研究を行うにしても、一つの道が行き詰まると、その方法に固執せず、すぐさま別のアプローチ方法を変えるのが風間のやり方だ。
 風間に良い感情を持っていない人間の中には、下手な鉄砲数打ちゃ当たる方式だと、彼を嘲る者もいたが、持ち玉が少なければ、それだって出来はしない。
 フルオートで何時間うち続けようと玉切れしない風間のアイディア。
 それが、風間の持つ最大の武器なのだ。
 可能かどうかはやってみてから考えればいい。
 それがお前のやり方だったじゃないか、風間蒼。
 正攻法で望む結果が得られないのであれば、無理を承知で逆から責める。
 自分の記憶通りの彼を再現できないならば。
 そう、記憶の方を書き換えてしまえばいいのだ──

*   *   *

 専務の部屋から研究室に戻った火村は、何事かと目を見開くアリスを引きずるようにして自宅に帰った。
 そして火村は部屋に入るなり、まずは室内のセキュリティレヴェルをマックスに設定(通常は中程に設定されているセキュリティレヴェルは上げれば上げるほど室内の安全度は高くなるが、オンライン通信や電波まで完全に遮断してしまうために、通常の生活に著しく支障が出る)し、そのままアリスを寝室のベッドに押し倒した。
 ここまできたら、否、アリスを引きずって会社を出た時点で、火村に何かがあったことは解るだろう。
 だが、アリスはそれを問いただすことをせず、黙って火村の口づけを受け止め、目を閉じた。
 火村にもそんな彼の優しさに甘えているという自覚はある。しかし、それが解っていても火村は自分の荒れ狂う感情を抑える術がなかったのだ。
「アリス……」
 火村は自分の腕の中で寝息を立てる、愛しいものの名をそっと呼んだ。
 行為を終えた後、アリスは必ず半時間ほどうつらうつらとする。
 どうやら、そうプログラムされているらしい。
 人と同じように感情を持ち、精神的に成長し続けるアリスであるが、最初からプログラムされているものも動作も多数存在する。
 右利きっぽく──そもそもアンドロイドに利き手など存在しないが、人間のツールを使うにあたって便利なように普通は主に右手を使用する──設定されてるかと思えば、何故か字を書く時だけは左だったり、アリスが結ぶ靴ひもは絶対に縦結びになってしまったりするのは、その中の一例だ。
 起動時に本人も言っていたように、わざと違えて設定されているところもあるようだから、その中のどれがアリスの特徴で、どれが風間の大切な人のものなのか、火村には判らない。
 否、判らなくていいのだ。
 その全てが火村にとってのアリスなのだから。
 そう、逃げている場合ではない。
 この時、火村は決心した。
 間もなく目覚めるだろう、そして勝算の殆どない強敵に立ち向かうことを──

*   *   *

 サニーの専務が火村に伝えた情報は、半分は正しく半分は間違っていた。
 正しかったのはDNAの欠損部分を修復する新薬が開発されたという情報。
 誤っていたのは、それがこれから風間に投与される予定だという情報だ。
 火村が──否、サニーが新薬開発の情報を入手するよりも以前に、それは風間に投与されていたのだ。
 その効果が一時的だと判っているある意味欠陥品の新薬が、それでも風間に投与されたのには、もちろん様々な理由がある。
 まず第1に、風間がコールドスリープに耐えうる限界が近づいてきていたこと。
 第2に、風間グループ──アンドロイド開発ではサニーに一歩退いているものの、他部門では肩を並べる大手企業である──は、好きこのんでサニーにアリスを引き渡した訳ではなかったこと。
 第3に、その新薬を開発したのは風間グループ傘下の製薬会社であったこと。
 結果、火村が周りを驚かせるような早退をした翌日、彼は出勤した途端、目覚めた風間が収容された病院の一室に呼びつけられることとなる。
 その早すぎる展開に一瞬戸惑いはしたものの、火村はすぐに開き直った。
 決意を新たにしたのが、昨日だからこそ自分はやれる。まだ、そのテンションが下がってはいなからだ。
 なるべくアリスの返却を引き延ばせという上の言葉は、誘拐犯との通話じゃねぇんだと聞き流し──そもそも、アリスを返却する気など更々無い──火村は会社を出ると、一番近いクイックゲートをくぐった。

*   *   *

「できません」
 火村の返答に、風間は意外にも微笑んで見せた。
「さすが、アリスを起動できた男だ。言うことが面白いね。本気でそんなことが許されると思ってるの?」
「ええ」
「いよいよ面白い。それは何故?」
「どうしてもです」
「火村くんと言ったね。君はそもそも勘違いをしている。僕が君をここに呼んで、アリスを返して貰おうと言ったのはお願いじゃないんだよ。言うなれば、アリスを起動できた君に敬意を表しての僕からのささやかな贈り物だ。彼の製作者であり所有者なのはこの僕で君じゃない。そのことを忘れてはいないかい」
「いいえ。嫌と言うほど承知しています。だからこそ、あなたにアリスは渡せません」
「まるで子供だね。言っていることの意味が解らない。なにがだからこそなんだい」
 風間の問いに、大きく一度深呼吸して、火村は告げた。
「あなたにとって、アリスはアリスではないからです」

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