Alice──AL0000A


14

 気付いてたのかという火村の問いに、微笑んだ後、ゆっくりと瞬きをひとつすることでアリスは肯定の返事をしてみせた。
 お互い、言葉を出せないままに沈黙が流れる。
 火村は全ての話を聞き終えた後、どういう結論を出すのか聞くのが怖くて。
 アリスは風間の問いに、火村がどういう結論を出したのかを知るのが怖くて。
 止まっているような時間。
 しかし、カチカチと鳴るアンティークな置き時計の音が、時間が着実に流れていることを証明していた。
 世界最初のミステリークロック、カルティエのモデルA。
 その置き時計に《ミステリー》の名をつけさせるのは、中空に浮いているように見える針の存在だ。
 この部屋にあるのは──仮に市場に出たとしたら──十億単位で取り引きされるオリジナルではなく、後に発売された復刻版であったが、使われている金や真珠は本物なので、それなりに値段が張る。
 アリスの心をひいたのは、中に浮くその針の不思議さか、それともシンプルな造りであるからこそ伝わってくる制作者の思い入れとこだわりか。
 その時計の前から一歩も動かないアリスに苦笑しつつ、火村はクレジットカードを切った。
 その箱を嬉しそうに両手で抱えているアリスの姿は、今でも火村の心に焼き付いている。
 そう、アリスには火村の知らない風間と過ごした時間があるけれど、風間の知らない火村との時間もある。
 風間は絶対に知らない筈だ。
 アリスが《ミステリー》と名の付くもの全てに興味を示すことを。
 最初にアリスの興味をひいたミステリーは、最後にものすごいどんでん返しのあるベストセラーの推理小説。
 火村の研究室に出入りする技術スタッフに、人間から電子頭脳への挑戦だという言葉と共に、アリスに手渡されたその本は、たちまちアリスを推理小説の虜にした。
 電子頭脳でさえ読み切れなかった、巧みな心理トリックに感動したアリスは、その後、暇さえ有れば新旧問わず世界中の推理小説を読みあさった。
 それは、旧作には著作権がきれていて、WEB上で公開されているものもあったから、その気になればデータとして読み込めるにも関わらず、それだとつまらないからと、わざわざ本のページをめくる程のはまり具合。
 その興味が、推理小説からUFOやミステリーサークルまでに及びだした時に、アリスが出逢ったのがこのミステリークロックだ。
 自分だけが知っているアリス。
 その存在が、火村に勇気を与える。
 意地悪という言葉を風間は使ったけれど、思えばあれはテストだったのかも知れない。
 上っ面の言葉や独占欲ではなく、本当に火村がアリスを愛しているかどうかの。
 それに合格できたからこそ、風間は決断をアリスに下させることによって、火村にチャンスをくれたのだ。
 軽い口調と尊大な態度とは裏腹に、風間は誠実な人間なのだと思う。
 自分が決めたことなど、無かったことにしてしまうのは、ものすごく簡単なのに。
 その気になれば、裁判に持ち込む必要など全くなく、所有権を主張して、今すぐにでもアリスを取り戻すことが可能なのに。
 だが、それをしなかった彼の潔さに、火村は自分も誠実であるべきだと考える。
 彼が今置かれている状況を、包み隠さず話さなければフェアではない。
 長い沈黙を破って、火村は口を開いた。
「決して好きとは言わないが、俺はあの人が嫌いじゃない。俺に、自分が勘違いをしていると教えてくれたから」

*   *   *

「自分が勘違いをしていると教えてくれたから」
 火村の言葉に、アリスゆっくりと目を閉じた。
 ──それが、君の出した答えか。
 いくらブレーカーを落として答えを聞くのを先延ばしにしてみたところで、最終的な答えが変わる訳じゃない。
 覚悟はしていたけれど、自分はまた『彼』に負けたのだ。
 火村が好きだと思っていた相手は自分ではなく、『彼の影』。
 それが、風間が指摘していたどの部分なのかは解らないけれど、とにかく自分ではなかったのだ。
 でも、それで火村を責めることなんか出来ない。
 何処までが『彼の影』でどこからが自分自身なのか、感情を司るプログラムと基本プログラムが互いに大きく干渉し合っているいるために、アリス本人でさえ判らないのだから。
 ましてや、アリス本人でもなく制作者でもない火村なら、判らなくても当然だ。
 風間と過ごしていた日々の中で、どうしても欲しくて、でも絶対に手に入らなかった、自分自身を見つめてくれる瞳。
 火村と出逢い、やっとそれを手に入れられたと思ったのに。
 指の間からこぼれ落ちる砂のように、水面に浮かぶ泡沫のように、それは儚い夢だったのだ。
 いっそ、火村と出逢わなければ──
 それよりも、感情なんていうものがなければ──
 その方が、自分はずっと幸せだったのではないかと思う。
 いや、幸せでなくてもいい。
 胸がこんなにも痛まなければ、それでだけで。
 この時、アリスは初めて、自分に心を与えた風間を恨んだ。
 そして、こんなにも切ないのに涙を流すことができない自分の身体を呪った。
 もともと涙を流すことが出来ないのならば仕方ない。
 けれど、アリスは涙を流すことが出来る。
 感動した時、嬉しい時、悲しい時、あくびをかみころす時、足の小指を箪笥にぶつけた時、更には抱かれて歓喜の嬌声を上げる時……
 こんなにも様々な場面で涙を流すことはできるのに、風間は切ない時に流す涙をアリスに与えてくれなかった。
 人の形をしていても、所詮プログラム。
 いくら良くできていたって、所詮はアンドロイド。
 確かに、火村や風間のいうとおりなのだろう。
 アリスは深呼吸をひとつした。
 酸素を必要とする身体ではなかったけれど、そうすることで、感情が落ち着くようにプログラムされていたからだ。
「で、勘違いに気付いた君はどうすることにしたんや」
 なるべく感情を表に出さぬよう、アリスは淡々とした口調で火村に尋ねた。
 ──俺が好きなのはお前じゃなかった。だから、お前を風間に返す。
 言われて、一番ショックを受けそうな台詞を、あえて想像してみることで、自己防衛をはかりながら。
 アリスの問いかけに、火村はふっ、と肩で笑う。
「違うよ、アリス。お前も勘違いしている。お前が誰の傍にいるか、それを決めるのは俺じゃない。俺が勘違いしてたのはそこだよ。そして、それは風間博士でもない。そのことを彼は教えてくれたんだ」
 アリスに怪訝な表情が浮かぶ。
「博士が? ……君に何を教えたって」
「誰がアリスと共にいるべきなのか。それを選ぶのはアリス──お前自身だということだ」
「俺…が?」
 電子頭脳でさえ──いや電子頭脳だからこそだろうか──思いも寄らなかった話の展開にアリスは困惑していた。
「そう、アリス、お前だ。誠実な態度を示してくれた彼に、俺も誠実な態度で応える義務がある。俺の話を全部聞いた上で、決断を下してくれ。とにかく、突っ立ってないでそこに座れ」
 促されるままに火村の横に腰掛けながらも、アリスの電子頭脳は、予期せぬ原因で今にも停止しそうな状態だった。
 ──俺が選ぶ?
 そんなことが許されるのだろうか?
 いや、それよりも自分にどちらかを選ぶことなどできるのだろうか?
 自分の電子頭脳が、割切れない計算を延々とし続ける3世紀半も前のパソコンのような状態になってしまっているのが判る。
 自分が小数点以下何桁までで計算を止めればいいのか判らない、そんな状態。
 だから、この計算に本当の正解はない。
 問題は、どの段階で四捨五入するか。
 それだって、今のアリスには選べそうにはなかったけれど──

*   *   *

 そんなアリスに決断を下させたのは──本人に、そんなつもりは全くなかっただろうけれど──火村だった。
「まず第一に、博士に残された時間は少ない」から始まった火村の話は、聞けば聞くほど博士にだけ有利なものに思えて。
 アリスは、一瞬だけ、火村が自分を博士の元にやりたいのではないかと疑った。
 でも、それはほんの一瞬だけ。
 冷静さを装いながらも、膝におかれた火村の指先は震えていたから。
 無理して感情を押し殺していることが判ったから。
 人間ならば、どうしたって自分に有利なことだけを選んで話してしまいがちなのに、それをしない火村。
 誠実な態度で答える義務。
 その義務を火村は病室での風間とのやりとりを、客観的に語ることで果たしているのだ。
 もし、風間の口から直接聞かされたのならば、信じ切れなかっただろう彼がアリスをアリス自身として見ているという話も、火村に聞かされると、自分でも驚くほど簡単に信じることが出来た。
 多分、これが風間と火村の違いなのだろうと、アリスは思う。
 だから、1晩悩んでアリスは決めた。
 人に信じて貰える火村と、信じて貰えない風間。
 どちらが孤独で、より淋しい人間であるかは明白だから。
 そんな孤独な彼の、残り少ない時間に付き合うことを──

*   *   *

「行きたいのか? 『彼』の所に」
 火村の言葉にアリスは頷くことしか出来なかった。
 今、口を開いてしまうと、自分の決心が揺らいでしまうことが、判りきっていたからだ。
 だから、視線もそらさない。
「どうしても?」
 苦しそうな火村の声が、矢のようにアリスの心に突き刺さる。
 その事実が、この期に及んで自分が淡い期待を抱いていることをアリスに告げる。
 ──火村がもし、行くなと『命令』してくれたなら。
 どうしても、心の片隅でそんなことを考えてしまう自分が居る。
 命令はしないという、最初の約束を破って。
 風間に誠実な態度で応えるという義務を放棄して。
 それでも、命令してくれたなら──
 火村がそこまで自分に執着してくれたなら──
 風間に残された時間がどんなに少なかろうと、彼がどんなに孤独だろうと、きっと自分は火村を選ばずにはいられない。
 けれど、目の前の火村は苦々しい表情を浮かべたまま、時折唇を噛みしめるだけ。
 指に挟んだ煙草を吸うこともせずに。
 このままずっと沈黙の時だけが流れ続けるかのように思われた、その時。
「熱っ」
 殆どフィルタだけになってしまった、煙草の熱が火村の指先を焼き、彼は声を上げた。
 ずっと、こちらを見ていたけれど、焦点が結ばれることのなかった火村の視線がアリスの姿を捉えたのが判る。
 そして──
 ため息なのか深呼吸なのか判断がつかないが、火村は大きく息を吐くと口を開いた。
「──解った。今から博士のところに行こう」

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