Alice──AL0000A


15

 火村がアリスを連れて風間の病室を訪れると、ベッドの上で博士は穏やかに微笑んだ。
「おいで、アリス」
 ゆっくりと、その名で呼ばれるアンドロイドに手を差し伸べて。
「…………」
 胸の中にどんな想いが詰まっているのだろうか、アリスは無言で、病室の入口に立ちつくしたままだ。
 そんなアリスの背中をそっと押したのは、火村だった。
 ここまできたら、どんなにあがいたところで、もう無駄だ。
 その事実に、比喩ではなく本当に心臓が冷たくなり、全身から血の気がひいていたけれど、最後の最後くらいアリスの前で恰好をつけたかった。
 今まで散々アリスに自分の情けない姿を曝してきながら、何を今更と自分でも思いはしたが、それはそれ、これはこれ。
 負けた男にだって、プライドくらいはある。
 火村に背中を押されたアリスは、それをきっかけに、ゆっくりと風間に向かって歩き出した。
 徐々にアリスが風間に近づき、その身体が彼の手に触れた時。
 ただ穏やかだった風間の笑みが、愛しい者を見つめる優しいものへと変化する。
 そして、彼は口を開いた。
「おはようアリス。いい夢は見られかい?」
 風間の問いかけに、一瞬だけ間を置いてアリスが応える。
「ええ、とてもいい夢を……」
 後ろ姿からその表情を読みとることはできないが、それでもアリスが微笑みを浮かべていることが解る、楽しそうな声で。
「そう……、それは良かったね」
言いながら、風間はアリスの頬へと右手を伸ばす。
 その手に導かれるままに、アリスの顔が風間のそれへと引き寄せられ──重なる唇。
 それを直視できず、顔を背けかけた火村の耳に、ピピッという電子音が届いた。
 思わず振り返った火村が見たのは、風間のベッドの傍らに、気を付けの姿勢で立つアリス。
 いつか見たことのあるその姿に、火村にこれからなにが始まるかを知った。
「パスワード入力を確認致しました。私はSO-KAZAMA製作・人造人間試作A−666・通称アリス・管理責任者はHIDEO-HIMURAです。現時点を持って管理責任者の登録情報は破棄され、全ての権限が製作者に復帰します。現在システムの再起動中。そのまましばらくお待ち下さい」
 やはり、いつか聞いたことのあるアリスの機械的な声が、身も蓋もない言い方で、火村を彼から排除することを伝える。
 コレはキツい──かなり。
 この言葉をアリスの感情が言わせている訳ではないことは、充分承知していても。
 そして、そのパスワード自体も。
『おはようアリス。いい夢は見られかい?』
 これは多分、目覚めた風間がアリスを再起動した時にかける筈だった言葉。
 更に──
 王子様のキスで今、アリスは本当に目覚める。
 そう告げられている気がして──

*   *   *

 アリスが再起動を終えた後、風間は唐突にアリスに買い物を頼んだ。
「アリス、ちょっと1階の売店で生クリーム小倉サンド買ってきてくれる。欲しいなら君の分もね。火村くん、君はどうする?」
「……いえ、遠慮しておきます。それに、私はもう帰ります」
 甘い物は決して嫌いではないが、今は甘い物など食べられる気分ではない。それに、そんなネーミングのサンドイッチは普段でも食いたくない。更には、もうこれ以上ここには居たくない。
 そんなことを矢継ぎ早に考えて、火村が踵を返そうとすると、風間がそれを引き留めた。
「そんなこと言わずに、せめてアリスが買い物から戻ってくるまで僕の相手をしてくれないかな。君に聞きたいこともあるしね」
 自分でも間抜けだとは思ったけれど、そこで初めて火村は、風間がアリス抜きで自分と話したいことがあるのだと察した。
「解りました。彼が買い物から戻るまでなら、お付き合いしますよ、博士」
「悪いね。早速なんだけど、アリスが入っていたガラスケースってどこにあるの?」
「ああ、あれなら必要がなくなった時点で、お宅の会社に返却しましたけど。聞いてませんか?」
「聞いてないよ。ったく、凍結されている株がどうのと下らないことはイチイチ報告してくるくせに、肝心のことは……」
 このまま進めば確実に愚痴になりそうだった風間の言葉が途中で消える。
 多分、アリスが病室を後にしたからだ。
「で、本当に聞きたいことはなんですか? あるんでしょう、アリスに聞かれたくない何かが」
 そのアリスが戻ってくるまで、そう長い時間がかかるとも思えなかったので、火村は風間を促した。
「そんなものはないよ」
「はっ?」
 だが、風間は意外な返答を寄こす。
「君に聞きたいことはない。僕が君に言っておきたいことがあるだけだ」
 言って、風間は火村に封筒を差し出した。
「これは?」
「僕の遺言状。きちんと効力のあるものだ。君に持っていて欲しい」
「こんなもの、預かれませんよ」
 その封筒を返そうとした火村を、風間が制す。
「返すのは最後まで話を聞いてからにしてくれ。僕の遺言状はそれ1通じゃない。もう1通、風間グループの顧問弁護士に預けてあるものがある。ただ、日付は君の渡した物の方が新しい。だから……」
「だから?」
「僕が死んだ時、君がその遺言状を握りつぶしたならば、もう1通の遺言状が正式なものになる。だが、もし君が、僕を選んだアリスを許せるのならば、その遺言状を持って風間グループに乗り込んで欲しい。それともう1通の違いはただ一つ。僕の死後、アリスをどうするか、それだけだ」
「それは……」
「そう、アリスが正式に君のものになるということだ。それでも預かる気にはならない?」
 風間の問われ、火村は自嘲の笑みを漏らした。
「はんっ。それは、アリスに振られた男への同情ですか? そんなことをされたら、いよいよ俺が惨めになるだけじゃないですか。こんなものを用意しているだなんて、あなたは余程この賭けに勝てる自信がおありだったんでしょうね」
 そう吐き捨てる火村に、風間は首を横に振ってみせた。
「それは違う。負けても僕は同じことをしたよ。君には可哀想だが、僕が生きている限り、僕は君にアリスの所有権を譲ることができない。僕が眠りについている間、下手に所有権が動かせないように、所有者の完全な死が確認された時にしかアリスの所有権は動かせないようにしてあるから」
 風間の言葉に、火村はつい感情的になってしまった自分を反省した。
 だが、落ち着いてみたところで、火村の答えは変わらないのだ。
「失礼しました。お話はよく解りました。ですが、やはりこれは受け取れません」
「何故? やっぱり、僕を選んだアリスを許せない?」
「許すも許さないも、私はアリスがあなたを選んだことを怒ってはいませんよ。まあ、辛くないと言ったら確実に嘘になりますが」
「なら、尚更だ。何故これを受け取らない。まさか、10年もアリスを待っているほど暇じゃないとか言い出す気じゃないだろうねっ!」
「まさか。待っていてなんとかなるなら、私は命がある限りアリスを待ち続けますよ」
「なら、何故っ!」
 声を荒げる風間に火村は淋しげに微笑んだ。
「あなたと共に生きることを選んだ時点で、アリスはきっと決めていますよ。あなたの命が燃え尽きた時、自分も一緒に逝くことを。なんてったって、アリスはロボット三原則を無視することができる、この世で唯一のアンドロイドですからね」
「そんな…」
 一言発して、その後風間は絶句した。
 火村は更に続ける。
「そんな風にプログラムした覚えはないですか。でも、絶対に自殺できないようにプログラムを組んだ覚えもないでしょう。だからアリスはそうしますよ。もう、二度と誰も選ばなくてもいいように──」
 言い終えた時、カチャリとドアが開く音がして、アリスが買い物から戻ってきた。
 それをきっかけに、火村は手にしていた封筒をベッド脇のテーブルに置き、踵を返す。
 そして、最初に入って来た時同様に、立ちつくすアリスの脇を通り抜け、病室を後にした。
 その間、彼の視線がアリスの顔を捉えることは1度もないままに──

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