Fall


 3−1

「男の方だったんですか?」
 面識のある講英社の女性編集者、前田が伴って現れた人物を見て、夏目瑠璃子は思わず声を上げた。
 神崎智美というPNだけではなく、書いている文章からも、その作家が男性だとは思ってもみなかったからだ。
 これから決して楽しくない話し合いが始まる筈なのに、前田が自分に向かって微笑んで見せたのは、絶対に彼女も同じ感想を抱いたことがあるからだと、瑠璃子は確信する。
 そして、同時に納得もしていた。
 この期に及んで、神崎智美が覆面をとり、その素顔を世間にさらさない訳を。
 当事者だけに、事件発覚当初から瑠璃子は思っていたことだが、最近になって、TVでよく顔を見かける偉いんだか凄いんだか意味がないのかさっぱり解らない肩書きとしかつめらしい顔で、事件に関するコメントをする輩の中にも、神崎智美が覆面作家であることが、この事件の原因だと言い出す者が現れだした。
 もちろん、それが言いがかりに近い──というか、そのもの──であることは、瑠璃子も自覚しているが、自分がそう思う分には仕方がないと彼女は思う。
 でも、別に自分が被害を受けた訳じゃないのに、神崎智美を攻撃するコメンテーターは自分のばかさ加減を全国ネットで世間にさらしているとしか思えない。
 だが、彼女にとって彼らがばかであることはありがたかった。
 そんな意見が飛び出す前の彼らの批判の対象は、自分と円山書店であったから。
 偽物と本物を見抜くことも出来ない、間抜けな編集者と出版社。
 世間にそういうレッテルを貼られてしまうことの方が、今回の事件でドブに捨てる羽目になった金よりも、出版社側としては痛い。
 読者に見放されることも恐いが、雑誌や本の出版部数を伸ばしてくれる有名作家に見限られてしまうことが。
 もちろん、デビューが円山書店でずっと懇意にしている編集者が作家はそんなことくらいで執筆してくれなくなることはないだろうが、残念ながら瑠璃子の働いている出版社には、その知名度と宣伝費の高さ──つまり、本の売上アップが目的で──書いている作家も数多く存在するからだ。
 そんな中で、世間の興味が神崎智美の素顔に移ってくれたのは、瑠璃子にとっても円山書店にとってもラッキーな出来事だった。
 そして、更にラッキーなことに、人というのは無能な編集者を批判することよりも、隠れされたものを暴くことの方が興味深いらしく、ここ何日かでのワイドショーの話題は、神崎智美と偽物の正体について。
 この件に関し、素直に『助かった』と思った瑠璃子ではあるが、その反面、不思議なこともあった。
 ここまで大きな騒動に発展してしまったのだから──まず、そんなことは有り得ないけれど、最高に好意的に見て、自分の実力を試してみたかっただけだったとしても──偽物が名乗り出られないのは解る。
 でも、神崎智美がこの期に及んで──TVでこんなに批判されてまで──顔をさらせない理由など、瑠璃子には思いつけない。
 ──もしかして、副業が禁止されている職業にでもついているのだろうか?
 だなんて、思ってみたりもしたけれど、筆1本で充分食べていける作家がここまで言われてもう一つの仕事にこだわる理由がないとも思う。
 ──それとも、ここまで言われたからこそ、もう一つの仕事を失う訳にはいかないとか?
 そんな風に幾度も首を傾げた中で、彼女の頬を緩ませた思いつきがあった。
 ──もしかすると、読者のイメージを壊してファンを減らしかねないほどのすっごいブスだったりして。
 その想像は、瑠璃子にとって、すごく魅力的なものだった。
 神様は、自分に人並み以上の容姿と、人の文章を適切に批評できる才能を瑠璃子に与えてはくれたけれど、一から話を作り出す文才だけはくれなかった。
 担当している作家の作品にアドバイスして「そこまで解るなら、自分で書けば」という言葉を投げつけられて、唇を噛んだことは一度や二度じゃない。
 でも、そこでヒステリーを起こさずに、なんとか今まで持ち堪えてこれたのは、そんな台詞を投げつけた作家達が、容姿的に自分より劣っていたからだ。
 心の中でつぶやける魔法の言葉があったから。
 ──神様は、あなたに文才を私には美貌を与えたの。だから、私は書かないの。
 そうしたところで効力が失われることはなくとも、決して口には出せない言葉。決して、人に知られてはならない思い。
 けれど、その言葉は彼女の支えだった。
 世間でどんなに美人作家ともてはやされていようと、作家だからこそ美人と形容してもらえるだけの彼女らは、女として自分の敵ではない──そんな思いが。
 それは、1年前──偽物の神崎智美に対しても感じたこと。磨けば光る素材ではありそうだったけれど、全体的に地味な印象を与える彼女の姿は、女として瑠璃子を引き立たせる味方でさえあった。
 だが、今、自分の目の前に現れた作家──本物の神崎智美は、そんな瑠璃子の心の支えをうち砕く人物だった。
 成程、男だったのならば、神崎智美が覆面を取れない理由は解る。
 読者なんて勝手なもので、自分の想像と作家像にズレがあれば、それだけで幻滅するものだから。もともとは、その人物の書く文章にひかれたのだということも忘れて。
 あからさまに女性を想像させるペンネームを使っている神崎智美の性別が男であれば、読者は裏切られた気分になる。
 自分もこんな思いをしたことがあると共感した文章が、男の視点で書かれていたというだけで。
 女には自分の気持ちを男に解って欲しいと思う反面、男には女の気持ちは解らない──単純な男に解ってたまるか──という思いがあるものだから。
 たとえ、その文章を書いた男性が、どんなに端正な顔をしていようとも。
 そう、瑠璃子の目に映った神崎智美は美しかった。
 3つ違いという若さの特権を差し引いたとしても、容姿に自信のある瑠璃子自身が彼には負けたと思う程に。
 若くて美しくて文才がある。
 それだけで、彼女が足場にしてきた自己存在理由が揺らいでしまうのに──
 その足場を崩壊させることが目的であるかのように──
 その後、彼は神から貰った自分の贈り物を更に彼女の目の前に並べて見せた。

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