Fall


 4−1

「わざわざ、こちらまでご足労頂いて申し訳ありません」
「いえ、そんな……」
 話し合いの口火を切ったのが、担当編集者ではなかったことに驚き、瑠璃子は口ごもった。
 瑠璃子が単独で講英社に呼び出された理由が理由──偽物と別人であることを証明する為に夏目さんだけに、本物の神崎をお見せ致します──だっただけに、なんとなく神崎智美の役目は顔見せだけであると思い込んでいたからだ。
 そんな瑠璃子に、彼は美しく──けれど冷たく微笑んでみせた。
「まず最初に、この先の会話を録音させて頂くことをご了承下さい。事情が事情ですからね、私とあなたが確実にお会いしたという証拠を残しておくに越したことはないと思うんです。この件に関して異存はありませんよね」
 柔らかい口調とは裏腹に、言葉では表現しがたい威圧感に気押され、瑠璃子はただ頷くだけしか出来なかった。
 このままじゃ、向こうのペースに乗せられてしまうだけだと言うことが解りきっていたというのに。
 瑠璃子が頷くのを待って、レコーダーのスイッチを入れた彼は、その後、ゆっくりととした仕草で長い指を組みながら、会議室の机に両肘をついた。
「さて、では本題に入ります。『男の方だったんですか』という言葉が出るところをみると、既に私とあなたの会った神崎智美が別人であるということは、納得して頂いたようですね。案外自分ではイケるんじゃないと思うので──というのは冗談にしても、一応、念のため確認させて頂きます。あなたが会った偽物は女装した私でもなかったことも認めて頂けますか」
「はっ?」
 思いがけない質問に、瑠璃子は思わず声を上げた
 冗談という割には、あまり冗談になっていない様な気がしないでもないけれど、自分が会った偽の神崎智美が目の前の彼ではないことだけは確かである。
 なぜなら、どんなに特殊メイクが発達したとしても、身長は誤魔化すことが出来ないから。
 偽の神崎智美と、今目の前いる彼の身長は、どんなに少なく見積もっても10センチは違っている。
「ええ、認めます。もっとも、今の今までそんなこと考えてもみませんでしたけど。神崎先生って、とても用心深い考え方をなさる方なんですね」
 『とても』の部分に『必要以上に』という意味を込めて──つまり、嫌味のつもりで瑠璃子が言った言葉は、「恐縮です」という彼の台詞でさらりと流された。
「そして、私が神崎智美本人であるということは、あなたもよくご存知の彼女──講英社の前田さんが証明してくれます。ここまでは、よろしいですか?」
「それは……」
 多分、それでよろしいのだとは思う。
 神崎智美と講英社の編集が手を組んで円山書店に損害を与えようと思っているだなんていうのは、それこそ『必要以上』に──というよりは石橋を叩いて壊しかねない勢いで、うがったものの考え方だろうから。
「よろしいとは言いかねますか? 嫌ですね、慎重なのは、私じゃなくてそちらの方じゃないですか」
「えっ? あの……別に…」
「いえ、それならそれでいいんです。私には、他にも自分が神崎智美であると証明する術がありますから。まあ、いよいよになるまでその手札を切る気はないですけどもね。ですが、だとすると不思議です」
「何がでしょう?」
「そんなに慎重なあなたが、どうして簡単に偽物を本物の神崎智美だと信じたんですか?」
 その質問に瑠璃子は唇を噛んだ。
 あれは、不幸な偶然が重なったとしか言えない出来事だったのだ。
「その前にこちらからもお伺いします。神崎先生はフォーチュンのヴォーカリスト──杉崎涼とお親しいですよね」
「ええ──お親しいかどうかはともかくとして、面識はありますよ」
「親しいかどうかはどうでもいいんです。でも、彼がアマチュアだった頃に歌詞を提供したことがある事実はありますよね」
「ああ、そういうこともありましたね。それがどうかしましたか?」
「彼の自宅に行ったことは?」
「ありますが……ですから、それが何か?」
「私が騙されたのはそういう情報を得たからです。ニュースソースは杉崎涼本人。疑う理由がありますか?」
「意味が解りません。いえ、確かに涼を疑う理由がないのは解りますが、あなたが偽物に騙された理由にはなっていません」
「杉崎涼が帰宅してから、きっちり一時間後にマンションを訪れる同一人物──これって怪しくありませんか? 彼は芸能人で公務員ではないんですよ。この意味、お解りになりますか?」
「あなたが言いたいことは解ります。芸能人である涼の帰宅時間は不規則である。彼と無関係な人間がそんな不規則な時間を基準とした行動が取れる筈がない。だから、それが出来る人物は怪しい──とまあ、こんなところでしょう」
「ええ。ましてや、彼女が常にノートパソコンを携帯していたら? 例え、受付手前までだったとしても、講英社のビルの中に入っていったら? 彼女が神崎智美だと思いたくなりませんか?」
「なりません。どこの世界に友人──ましてやあなたが勘違いしたように恋人の家に、しかも毎回商売道具を抱えて遊びに行く作家が居ますか。逆ならまだしも有り得ませんよ」
「後からなら何とでも言えます」
「後でなくとも言えますよ。私と涼が知り合いなのは、あまり多く知られていないというだけで、別に秘密でもなんでもないですから、誰の耳に入ってもおかしくありません。まあ、あなたの場合は、たまたま涼本人から聞く機会があった様ですが、誰から聞いたのかというのは、この際問題ではありません」
「……どういう意味でしょう?」
「本人と知り合いでなくとも涼が帰宅してからきっちり1時間後の彼のマンションを訪れるのはそう難しいことじゃありませんよ。彼のマンションの明かりが見えるところに、部屋を借りればいいんですからね。何のために? 言うまでもなく、自分を神崎智美だと勘違いする間抜けな編集者が現れるのを待つ為です。そして、あなたはまんまとそれに引っ掛かった──ただ、それだけのことですね」

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