Fall


 6

「何故、こんな重要なことを今まで黙っていたんですか?」
「何故って、聞かれていませんから」
 珍しく──というか、少なくとも私はそんな彼を初めて見た──声を荒げた室尾警部に向かって、講英社の女編集者、前田淑子はしゃあしゃあというかしれっとというか──とにかくあまり好意的な形容詞をつけたくなくなる感じで応えた。
 まあ、講英社側(含む神崎智美本人)の三人にしてみれば、円山書店で書いた神崎智美が偽物だと証明されれば一件落着で、自分たちに迷惑をかけた奴らが後でどうなろうが知ったことかという気持ちになるのは解らないでもない。
 だが、そんな事情を考慮したとしても、その件絡みで、人がひとり亡くなっていることに対して、もう少し配慮があるべきではないだろうか──とそんな風に感じてならない。
 それともこれは、出口のない迷路の中で、いよいよ壁を壊すしかないかという比喩表現がぴったりくるような状況にいた私たちの被害妄想なのであろうか?
 そんな私の表情を敏感に感じ取ったのか、前田の横に座っていた神崎智美こと神岡智史が口を開く。
「そう、嫌な顔をなさらないで下さい。確かに彼女の言い方も良くはなかったとは思います。でも、いきなり大きな声を上げられては、こちらとしても少々感じの悪い返答としたくなるというものではないですか? 現に私も気分を害しましたよ」
「それは失礼しました。ですが、人が亡くなっているんですよ。そのことに責任をお感じにはならなかったんですか? いえ、ならなかったんでしょうね。少しでもそういう気持ちがあったら、前回お邪魔した時にその情報をご提供頂けた筈ですから」
 神岡の言葉を受けた室尾警部の返答は、私に再び意外な印象を与えた。
 室尾警部、そんな嫌味な口調で話せたんですか──と。
 柔道と合気道──そうすることに意味はないのを知りつつ──合わせて8段の彼は、それほどの格闘技の猛者であるにも関わらず、大変物腰がやわらかい。
 前回会った時にも思ったことだが、その人当たりの良さは客商売──特に老舗呉服問屋の若旦那辺りのポジションがぴったりくるような印象を受けるのだ。
 例え店の奥に引っ込んでも客の悪口を言いそうにない彼がこんな口調で話すのは、余程腹が立っているからだろう。
 いや、これは私の勝手なキャラづけなので実際のところは解らないが、ただひとつ言えることは、その物腰のやわらかさが作ったものであれ、本来のものであれ、そういう人間を怒らせるのは得策ではないということだ。
 大抵の場合、普段からぎゃあぎゃあわめき立てる人間よりも、物静かな人が本気で怒った時の方が、始末が悪くて恐ろしいものだから。
 だが、そんな室尾警部の豹変振りにおろおろしているのは、どうやら私ひとりであるらしく、火村は面白そうに目を細めてその様子を傍観しているし、神岡智史は、相手の迫力に臆することなく、その顔に笑みを浮かべてさえいた。
「いえ、こちらこそ不必要に攻撃的な発言をして申し訳ありませんでした。ですが、それを差し引いても夏目さんが亡くなられた責任を押しつけられる筋合いはないと思います」
「押しつけるって──あのテープの内容を聞く限り、彼女を追いつめたのは紛れもなくあなた達でしょう」
「それこそ失礼な。私たちは、単に事実を指摘しただけですよ。それとも刑事さんは、彼女を救う為に、私に偽物を見逃すべきだったとでもおっしゃるんですか? あれだけ出来の良い偽物だったんだから、私が素知らぬ顔して円山書店からの原稿料と印税を受け取っていれば、誰も傷つかずに済んだとでも? ばかにしないで欲しいですね。いくら、芥川賞はもとより直木賞の候補にもなりえない、ヘリウム並に軽い内容の小説ばかり書いていようとも、私は作家です。どんなにいい出来であろうと、自分の以外の人間が書いた文章を神崎智美のものだと認める程落ちぶれちゃいませんよ。それが、作家としての最低限のプライドというものではないですか?」
 言って、神岡智史は──最初の紹介で室尾が私の職業を明らかにしたからだろう──こちらに視線を流した。
 微妙に論点がずれてはいるが、彼の言いたいことは確かに解る。
 私が火村のフィールドワークを作品化しないのも、その、作家のプライドというやつからだ。
 ましてや、他人の書いた物を自分の作品として認めたら、最低限なにも、そんな人間は作家と呼ばれるに値しないとさえ思う。
 それに──結局は片手に余る数を読んだだけではあるが──改行が多く、読みやすい文体に勘違いさせられそうにはなるのだが、彼の書く小説の内容は自分で言う程軽くはない。
 重たい内容を重たく書くのはそう難しいことではないが、その逆は案外と難しく、計算しつくされた絶妙なバランスが必要となる。
 世間にどう評価されていようと、彼の文章は、某料理対決番組の特選素材なみに、ここだけは譲れないといったこだわりの元に作り出されたものなのであろう。
 それは解るし、同じ作家として、彼が偽物の存在に憤るのも解る。
 しかし──
「作家としてのこだわりと、彼女の死に責任を感じることは別だとおっしゃりたいですか?」
 まるで、自分の心中が読まれたかのようなタイミングで発せられた神岡の言葉に、私は息を飲んだ。
「でも、別と言うなら、彼女の死を痛ましく思うことと責任を感じることは全く別だと思います。確かに私は彼女の傷口に塩をなすりつけることをしたかもしれませんが、彼女の背中を押したのは別の何かですよ。でなければ、タイミングが合いません」
「あなたと会ったその夜や、翌日ならともかくとして、10日後というのはあまりに遅すぎる──そういうことですね」
 今まで置物のように黙っていた火村が突然口を挟んできたことに驚く様子もなく、神岡は彼に向かって頷いてみせた。
「ええ。どう見たって彼女は自分に対する侮辱に関して敏感な人でしたから。事実、その場で悔しそうに唇を噛みしめていました。ですから、後になって『えっ? あれって私がばかにされてたの。くやし〜、ショック〜』ってな状態になっただなんてことは有り得ないと思います。そして、それがないのならば、一番最初に受けたダメージよりも、あとで思い出した時のダメージの方が大きいということもないと思うのですか、いかがでしょう?」
「まあ、そうでしょうね」
「ご同意頂けて嬉しいです」
「ご同意頂くもなにも、私は最初から何も言っていません。話題が責任問題にシフトしてしまったので、お話頂ける機会を失ったんでしょうが、そもそもあなた達はこのテープで夏目さんが語った内容を自分たちしか知らなかったということを、ご存知なかっただけなのでしょう」
 火村のこの言葉に、神岡は初めて目に見える表情の変化を見せた。いわゆる驚いた表情だ。
「お気づきになっていたのなら、私と刑事さんの会話が険悪になる前に口を挟んで欲しかったですね」
「それは申し訳ありません。ちょっと、考える時間が欲しかったもので」
「それはそれは。こちらこそ、考え事をなされている脇でごちゃごちゃとうるさいやりとりをして申し訳ありませんでした。ちなみに、何をお考えになっていたのか、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
 神岡の問いに頷いて、火村はゆっくりと口を開いた。
「テープの中で、夏目さんと話しているのが、あなたではないのは何故なのか。今、私と話しているあなたとテープの中の彼、果たしてどちらが本当の神崎智美なのか──そんな、つまらないことですよ」


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