8 「違いませんね……」 何かを考えてらしく──人差し指が唇をなぞっていた──火村は神岡の問いかけにそっけなく応えた。 だが、神岡はそんな火村を気にする様子もなく、言葉を続ける。 「けれど、あなたが本物の神崎智美だとも証明されていません──ですか? そこから疑われると、絶対に私がこの小説を書いていますと証明できる作家が一体何人居るんでしょうか? ってな話になりそうなものですが、面倒なのでこの際、今、ここで証明してみせてもいいですよ」 「そんなことが出来るんですか?」 私は思わず声を上げた。 神岡に言われて成程そうかもしれないと思ったのだが、確かにそれを証明するのは難しいことだと思う。 例えば、私が有栖川有栖であるということは証明するのは──身分証明書等で──簡単にできても、私の文章を書いているのが絶対に私だと今すぐ証明するのは多分無理だ。 そんな私に、神岡は頷いて見せ、「お時間さえ少々頂けたら」と言った。 「どうやってですか?」 おそらく、そんなことをしなくてはならない機会は一生来ないだろうが、後学のために聞いておきたいと思った私は、神岡に続けて尋ねた。 「有栖川さん──でしたね。多分ですけど、あなたは作家であり、更に私の本を読んだことがあるので、この場に同行しているんじゃありませんか?」 「えっ? ええ、まあ」 厳密に言えば、読んだことがあるのではなく、その為に読まされたという方が正しいのだが、そんな些末なことにこだわる必要があるとは思えなかったので、私は神岡の質問に肯定の返事をした。 「それは、助かります。すみませんね、ご趣味でもない話を読んで頂いて」 「いや、別に、そんなことはないですよ」 ──ちっ、一夜漬けなのがバレてやがる。 とは、思ったものの、神崎智美の話は読んでみたら以外と面白かったことは確かである。 ここに来た時、前田が「私が次に神崎さんに書いて頂こうと思っていたジャンルを他社に、しかも偽物に書かれたんだから、そりゃあもう、腹立たしいったらなかったですよ」と熱く語っていたとおり、神崎智美の小説には、例え恋愛物であっても、不必要な程伏線が貼られており、意外な結末が用意されている場合が多く、展開がちょっと推理小説風であったからだ。 「お世辞でも、そう言って頂けると嬉しいです。では、お世辞の上手な有栖川さんにお願いしましょう」 「何をです?」 「リクエストして下さい」 「は? どういう意味ですか?」 「言葉通りの意味ですよ。具体的に言うなら、何々シリーズの××をメインとした話を今すぐ書けと言って下さいということですね」 「って……なんでそんなこと──あ!」 元々がそういう流れの会話だったと気付いて声をあげた私に向かって神岡は頷いてみせた。 「ええ、そうです。皆さんの目の前で書いて見せますよ。もっとも、最大1時間程度──ですよね?──だったら、書ける枚数もタカは知れていますが」 『ですよね?』の部分で一旦室尾警部に向かった神岡の視線を追うと、彼と目が合った。 室尾警部が僅かに頷き、続いて流した視線で火村の顔が『そこまで言うならやらせろよ』と言っているのを確認した私は、神岡に向かって言った。 「では、常磐学園シリーズの橘信哉と英語教師の福永美鈴の本当の関係を明らかにする話をお願いしましょうか」 ──気付いていましたよ。 という意味を込めて、笑顔で告げた私に、神岡もにやりと笑ってみせた。 ☆ ☆ ☆ 「アリス、詳しく説明しろ」本当に考えて文章打ってのかいな? と疑いたくなるような軽やかさで、神岡の指はノートパソコンのキーボード上を踊った。 その様子を彼の肩越しから、半時間程眺めた後、私は火村に『本物や』という視線を送ってみせた。 話を熟読したわけでなく、流れるモニタ上で確認しただけではあるが、そこには日常的にこのキャラクターを使い慣れており、更には以前からそのエピソードを練ってあったとしか思えないスピードと展開で話が進行していたからだ。 そんなことは偽物には絶対に不可能である──というか、本物であっても普通は出来ない。 私の合図をきっかけに、レコーダー及びビデオテープをすべて預かって講英社の会議室を出ることになった我々が、駐車場にあった車に乗り込んだ途端──それまではどこに誰の目や耳があるか解らないから我慢していたのであろう──火村が口を開いた。 「ん? ああ、神崎智美が本物だと判断した根拠か?」 「違う。あいつが本物なのは、そんな提案をしてきた時点で解ったさ。じゃなくて、お前のリクエストの意味だ」 「ああ、それ、私も聞きたいですね」 火村と室尾警部の両方に言われ、私は神崎智美の小説を読んだ時に気付いた彼女の癖──いや、意図的にやっているのだろう表現について語ることにした。 「おかしいな、と思ったきっかけは表記揺れや」 「表記揺れ?」 「せや。作家自身にこだわりがない限り、同じ言葉は同じように表記される。例えば、最初に出てきたオウムという言葉が漢字表記だったらそれは最後まで漢字やし、カタカナだったらカタカナってな具合やな」 「つまり、その二つが混在することはない──まあ、それが普通だよな」 「ああ、例え作家自身がそういう風に書いっとたとしても、校正段階でチェックが入って統一される。それが統一されとらんということは、作家自身が指示を出しとるいうことや」 「そこまでは解った。で?」 「ああ、神崎智美の文章には漢字の『二人』とひらがなの『ふたり』が混在するんや。これは何が意味がある思うて意識して読んだら答えはすぐに解った。現時点では全然そんなんやなくとも、神崎智美が将来的にくっつけよう思っている『ふたり』に限ってのみ、その表記がひらがなになっとるいうことにな」 「ってことは、お前が先刻言ってた何とか学園の何とかって生徒と英語教師の何とかが、それだってことか?」 「せや、今のところ、それっぽい記述は一切ないんやけど、その『ふたり』表記が一ヵ所だけ。せやから、ああいうリクエストしてみたんやけど、戸惑うことなく二人が恋人同士な話を書き出したから、あれは本物やろ」 「ああ、多分な。もっともアリスが気付くようなことに、誰も気付いていなかったかどうかは疑問だけどな」 「気付いたところで、偽物があんな一見なんでもないような伏線拾って話書ける訳ないやろ」 「さて、どうかな。作家本人より、他人の方が思いかげない深読みしたりするしな──って睨むなよ、冗談だ。先刻も言った通り、そんな理由がなくたって、あんなことを言い出した時点で。あいつが神崎智美本人だってことは動かないのは確定だ。そして、きちんと分析するまで断定はできないが、あいつが偽の神崎智美じゃないこともほぼ確定ってことだな──」 「残念、振り出しに戻るってところか?」 私の台詞に、火村は呆れた表情を浮かべた。 「ばか言え、大いに前進したよ」 |