Fall


 10

「アリス。どうやらシャレにならなくなったようだぜ」
「なにが?」
 講英社を出た時点で既に夕刻と呼べる時刻になっていた上に、本日生放送の音楽番組に出演することになっている杉崎涼にアポがとれる筈もなく。
 仕方がないので今日は店じまいすることにして、私と火村は昨夜から泊まっているホテルに戻っていた。
 火村の携帯が彼のポケットの中で震えたのは、ホテル内のレストランで夕食を取っていた私たちのテーブルにコーヒーが運ばれてきたのとほぼ同時であった。
「室尾警部からだ」と呟いて席を立った火村が戻ってきたのは、熱湯で入れたインスタントコーヒー並に熱かった── 一体、どういう保温の仕方をしているんだ?──そのコーヒーが彼にとって丁度飲み頃になった頃合だった。
「大層有効な時間の使い方やないか」
 その尋常じゃない温度のコーヒーで舌に火傷を負ってしまった忌々しさから、つい口から出てしまった私の呟きを完全に無視し、ガタリと音を立てて椅子に座りながら火村が言ったのが冒頭の台詞である。
 火村のいきなりな発言に、思わず「なにが?」と応えた私に向かって助教授は吐き捨てた。
「何がじゃねぇよ。車の中でそう言ったのはお前じゃないか」
「俺が?」
 一体なんの話だと首を傾げる私に、火村はあからさまなため息をついて見せ、目の前のコーヒーを一気に飲み干した。
 それが苛つく心を静める為の行動であったことは、次の火村の台詞で知れた。
「二課にこの件から手を退くよう上から圧力が掛かったそうだ。それと同時に円山書店が被害届を取り下げて、更には今頃になって夏目瑠璃子の遺書が発見されたとさ。どう考えてもおかしいだろ」
「火村……それって……」
「どうやらお前の言う大物が、この事件をさっさと片づけたがってるらしいな」

☆   ☆   ☆

 翌日。室尾の口から語られた話の内容は、まるで作者の意図とは関係なしにいきなり打ち切りが決定してしまった連載まんがのような展開だった。
 一応つじつまは合わせてあるものの、所々にかなりの強引さが見られるところが特に。
 今まで特に注目されていなかったキャラクターがいきなり出張ってきたかと思うと、あれよあれよという間にその場を取り仕切り、伏線だとか謎だとかばったばったとやっつけていく……みたいな?
 いい歳をした成人男性が、なにが『みたいな?』だとは自分でも思いはするが、この話の流れを聞けば、誰だって『みたいな?』ぐらいは言いたくなると私は思う。
 今回の事件の真相(だとされるもの)をかいつまんで話すとこんな感じだ。
 ことの起こりは遡ること8年前、神崎智美が当時アマチュアだった杉崎涼に歌詞を提供したことに始まる。
 そ歌詞は、当時杉崎涼の通っていた高校の学校祭で一度演奏されたきりなので、そのことは一般にはあまり知られていない。ただ単純にそれだけのことを何をどう勘違いしたものか、夏目瑠璃子はそれが秘密にされていると思い込み、杉崎涼に真相を尋ねた。
 杉崎涼側としては、別段そんなものは秘密でもなんでもないから、聞かれるままに彼女の質問に応えただけなのだが、神崎智美との接触を望んでいた夏目瑠璃子にとってはそれは大変重要な情報だった。なので、杉崎に張り付き神崎智美らしき女性が現れるのを待った。
 思いこみというのは、大抵の場合人の目を曇らせるもので、彼女が全くの別人を神崎智美だと勘違いしたのは、先日講英社から提供された音声データでも確認されていることだ。
 と、まあ、ここまではさして目新しい事実もないのだが、問題はこの先だ。
 なんと、その偽物の神崎智美が、杉崎涼の所属するプロダクションの社長の妻、風折行だったのである。
 彼女が──というか夫である風折迅樹が彼女の代わりに──語った話の内容が以下である。
 まず、彼女が杉崎涼のマンションに出入りしていたのは、独り暮らしで外食が多く栄養が偏りがちな彼にバランスの取れた食事とらせる為だったそうだ。
 そして、ものすごい偶然であるが、風折の妻は神崎智美の大ファンであり、更にたまたま推理作家志望であった。
 そんな彼女は夏目瑠璃子に接触された時、相手が勘違いしているのは解ったけれど、大手出版社の編集に自分の書いた作品を読んで貰えるチャンスだと思ったのである。
 斯くして彼女は、今まで書きためていた作品にとっておきのトリックを加え、神崎智美の文体を真似て推理小説を1本仕上げた。
 人間、一生に一度は傑作が書けるというが、彼女にとってのそれがこの作品だったらしい。
 彼女としては、途中で自分が偽物であることに気付くだろうと思っていたのだが、話はあれよあれよという間に進み、とうとう今更偽物ですとは言い出せないところまで進んでしまった。
『この段階で自分に全てを話してくれていればこんなに大事になる前にコトを収められたんですがね。ご迷惑をかけた各方面へのお詫びといってはなんですが、こちらで独自に調査した結果、夏目嬢が自殺したのはこの事件と時を同じくして結婚を前提に付き合っていた男性に振られたかららしいですよ。彼は、会社の上役のお嬢さんとの結婚話が進んでいて、面倒を避ける為に自分宛に来た遺書を握りつぶしたようです。なんなら、調査報告書を提出しますが、彼に話をお聞きになりますか』
 ってな具合に風折迅樹は、話をたたみ込んだらしい。
 確かに一応つじつまはあっているし、政府筋にも力が利く風折コンツェルンを敵にまわして得があることなど有り得ないので、事なかれ主義の警察上層部はその方向で事件を片付けたがるだろう。
 だがしかし!
 例え、警察が手を引こうとも、いくらつじつまがあっていようとも、こんなに偶然の多い話が真実ではないことは明らかである。
 私は、先程から押し黙ったままの火村の横顔を盗みみた。
 さて、どうする火村?


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