その瞬間のことは、生涯忘れることは出来ないだろう。自分という存在の無力さが、何よりも自覚された時であったのだから。
蒼白な顔色は、何も精神的な面だけではなく、肉体についた傷が酷かった所為もあったらしい。
ゆっくり傾いだラズロに気付き、誰もがその名を呼び駆け寄るが、間に合わない。
地面に叩き付けられたラズロは、慌てたユウに病院に担ぎ込まれても、目覚めることはなかったのだ。
「酷い精神的負担があった上に、あの傷です。暫く戦闘はおろか、動かすことすら出来ないでしょうね」
集団のリーダーとして呼ばれたキリルは、地元の医師と共にラズロの診察を終えてから、そう告げられた。
しかも、ラズロは薬を飲まされていたらしい。その薬が何なのか、ユウは決して口にしようとはしなかったが、表情を見れば、あまり良くない類の薬だということは判った。
「時にキリルさん」
「はい?」
「ラズロさんの体には、戦闘でついたのとは違う傷があります。あれがどうやってついたのか、ご存知ありませんか?」
「傷……ですか? どのような?」
「そうですね……口に出すのも憚れる、といった具合のものです。傷の状態から言って、ついたのは昨夜と思われる。確か昨晩は、キリルさんが夜番でしたよね? 何か、気付きませんでしたか?」
「それは……」
もしや、リノとラズロの、あの行為によってついた傷だろうか? だとするなら、キリルの口から言うことは出来ない。
「ご存知でしたら、教えて頂けませんか? あの状態がこれからも続くのでしたら、ラズロさんの命の保証すら怪しくなります」
「命の? ですが……」
「精神の問題は医者である私にとっても一番難しい分野のものです。見えない傷を癒すのが難しいように」
「あ……」
「そして、精神の傷があまりに大きいと、時にそれが肉体にすら及ぶことがあるんです。知っていますか? 実際に火傷なんて負っていない人間が、自分が火傷をしたのだと思い込んだら、本当に火傷の傷が浮かぶんです」
「そんな……」
「本人からはまだ話が聞ける状態ではないので、予想する範囲で断言するならば、ラズロさんの精神状態はこれ以上悪くなるところがない程に悪い。このままだと……自傷行為に走る可能性もある」
「!?」
「ですからどうか……知っていることを……」
ユウの必死な態度に、キリルは知っていることを全てぶちまけてしまいたい気持ちに駆られる。だが、果たしてそれを話したとして、ユウに何とか出来るのだろうか? 相手はオベル王国の国王なのだ。ユウだって、オベルで診療所を開いているのならば、王の怒りだけは買いたくはないだろう。
「……話しても、どうにもならないかもしれませんよ? それに俺も、聞いた話なんで……」
「それは私の方で判断します。何より、患者を救うのが医者の勤めですから」
「そうですか……」
ならば――とキリルが話した話には、ユウは驚きが隠せないようだった。が、同時にどこか納得した風に頷きもした。
「成る程……そうでしたか……。確かに、洗脳などという手段を用いることが出来るのは、軍ないし政府だけですから……」
「そうなんですか?」
「ええ。他人を意のままに操るなどという人道に反した行いは、本来人として許されるべきものではありません」
それに……とユウはどこか遠くを見ながら「もしも本当に王がラズロさんにそれを施したというのならば、あの群島解放戦争での疑問も解消します」と言った。
「群島解放戦争、ですか?」
「ええ。一部ではオベル王が英雄と祭上げられている、あの戦争のことです。真実はラズリルの一部市民だけしか語らず、歴史書の内容は全て虚実で記された……」
残っていないのだ、とユウは告げた。
あの解放戦争で誰よりも尽力し、誰よりも苦しみを背負い戦ったラズロの名が。
そして、ラズロを慕い彼を主と定めて戦った者の殆どが、オベル王国で要職についた。まるで、権力を与えることによって口を閉ざせとでも言っているかのように。
「不思議だったのですよ。何故彼はリーダーとしてあの船を率いていたのに、結局のところ王の言うことには絶対に逆らうことはなかったのか。そして、彼を彼と認めた者以外は誰も、彼をリーダーとして敬うことすらしなかったのかと」
リノは何時だって、雑用のようなものまでラズロにやらせていたし、フレアは王女である権利を決して手放すことはせず、リーダーとして敬う相手であるラズロに命令を下すのは当然だと思っていた節がある。
更には、王家の忠臣らしいセツは、軍の船の要であるラズロに、平然と「死ね」と同義の言葉を投げつけ不思議にも思っていないようだった。
そしてラズロは、これらの全てに逆らうことがなかったのである。
酷い話である。
「キリルさん。こんな状態を放置しておくわけにはいきません。今こそ反旗を翻す時でしょう。でなければ、彼は容易に死んでしまう。私たちは、本当に群島を開放してくれた恩人を、自らの手で殺してしまいかねない」
必死にも見えるユウの声に、キリルは力強く頷いた。
その日の内にラズロが移送され、そこにユウがついていき、集団から彼らの姿がきっぱりと消えた。
次に元ガイエン海上騎士団の面子が消え、更にその後、現ラズリル騎士団の副団長が姿を消した。
次々と姿の見えなくなる仲間の存在に、アンダルクは勿論のことセネカまでが怪訝に首を捻ったが、キリルはそのことに関して決して口を開こうとはしなかった。
彼らは恐らく、今はラズロにかけられた洗脳を解いている状態だろう。あれが何とかならない限りは、ラズロはオベルから逃れることが出来ない。
「何か隠してないか?」
何度かリノからそう問われたが、キリルは知らぬ存ぜぬを通した。
一月もした頃だろうか、ケネスが戻り、翌日にミレイと共に姿を消した。
流石におかしい、と不審に思い始める者も出たようだが、キカがとりなしことなきを得た。
そのキカは、キリルに言った。
「動き始めたか。遅すぎたくらいだが……」
「……知っていたんですか?」
「ああ。国のやり方というのは、大抵そんなものだ。だが、我々ではどうすることも出来なかった。シグルドとハーヴェイが、何とかしようと努力はしたようだが……流石に見張りの目が厳しい状態ではな……」
海賊達はどうやら群島解放時からラズロの絶対的な味方だったようで、気付いた状態に解決の努力はしようとしたが、あそこは封鎖された空間であり更には船自体がリノの持ち物だったということで、結局何も出来なかったらしい。
本当なら、群島解放以後海賊島にラズロを連れ帰ろうともしたのだが、洗脳の所為だろう、ラズロ自身がオベルを望んだらしい。
「国に対してでは、いかに集団をもってしても太刀打ちできるものではないな、と、私も己の無力を感じたものだ。表立っては良好な関係を築くことを選んだが……あの王に対して感じるのは、もはや嫌悪のみ。今回のことがどのような結果を生もうが、今度ばかりは私も覚悟を決めようと思う」
だが……とキカは続ける。
「ラズロの本当の仲間は多い。裏切り覚悟でオベルの要職についた者もいるからな」
「それって……」
「内部事情を探って告発するらしい。無事だと良いな」
ミレイのことだろうか、それは?
「お前も最後を見届けたいと思うのならば、早々に今回の騒動を解決するべく動くべきだ」
「……そう、します……」
キリルは頷き、己の問題を見つめた。
結局、クールーク皇国という国が解体されても、姿を消した面子は戻っては来なかった。
目的を遂げたキリルは、しかしながら、ラズロのその後を見届けるだけの余裕がなく、コルセリアのなした結末を見届けることもなく、赤月帝国に帰還を果たしていた。
しかし、遠い噂が耳に入る。
ラズリル騎士団の団長が変わったこと、キカ率いる海賊達がオベル王国に攻め入ったこと。そこにはラズリル騎士団が加わっていたこと。
そして――。
「オベル王国が、王制から民主制に変わったらしいですよ」
言ってきたのは、アンダルクだった。