だから言えなかった
電車を降りて数分歩いて――啓太は首を捻る。
「あの……中嶋さん?」
「なんだ?」
「道が、違いませんか?」
前の、中嶋自称仮住まいは、駅から出て北方向に向って歩いて10分程度の所だった。
だが今は、何故か正反対の南方向に向っているのである。
「違わないが?」
「え? だって……」
啓太は北を向いて、ここからで見えるマンションを見る。
「ああ、あそこか。あそこは引き払った」
「はい?」
「丁度契約期間が切れたし、どうせならもう少し広い方が良いだろう?」
「広いって……」
前だって十分に広かった記憶があるのだが……。
「啓太の部屋に俺の部屋。寝室に物置。最低でも四部屋はいるだろう?」
「つーか、何で寝室を分けるんですか! 良いじゃないですか、自分の部屋にベッド入れれば!」
「却下だ」
「却下って……」
「毎日溜まる欲求が解消出来ないなら、一緒に住む意味がない」
「ってーか、一緒に住むって、そういう目的の為ですか!」
なんと言うことだろう。中嶋は俄然やる気満々だ。
しかもこれからは寮ではないから、遠慮無用でこれまでの週一が、毎日!?
「……長い間ありがとうございました。俺、実家に帰ります」
ぺこり、と頭を下げて駅に戻ろうとすると、腕を掴まれ、中嶋が荷物を示した。
それは確実に啓太の荷物で。
「財布は持っているのか?」
「っ!?」
「啓太の実家は、ここからだと、JRを使って一時間……だったか?」
「っ!!!!!!」
中嶋独特のニヤリ笑いで決定打。
「帰れるのか?」
帰れるわけがない。何しろ財布もその中嶋の手の中にある荷物の中に入っているのだ。
「返してください!」
思い切り腕を伸ばせば、中嶋は荷物を腕一杯広げて上に。
身長差は20センチ近くだ。届くわけがない。
チョコチョコとジャンプして腕を伸ばすが、あと少しというところで届かない。
啓太は涙目で中嶋を睨む。
「返してください!」
中嶋は面白そうに啓太を見ると、ふ、と口元を歪めた。
「嫌だ、と言ったら?」
「もう良いです!」
啖呵を切って啓太は踵を返す。
そのまま全速力で駅に向って走り出す。
本当は別に嫌じゃない。中嶋に抱かれるのは嫌いじゃない。恥ずかしいが、それでも嫌じゃないのだ。毎日だって構わない。
だけど、それを目的に、そうじゃなければ一緒にいる意味がないとまで言われたら、まるで啓太の心などどうでも良く、体だけがあれば良いみたいに思えてしまうではないか?
実際にそうなのだったら、どんなに好きでも一緒にはいたくない。
中嶋は好きだが、人格を無視されるような付き合いだったらしたくはなかった。
駅に飛び込み、駅員に声をかけようとして、後ろから手を引かれた。
中嶋だ。
「離して下さい!」
「駄目だ」
「もう、俺のことなんて、放っておいて下さい!」
叫んで、啓太は自由な方の手を振り払った。
啓太の目の前を掠った手は、中嶋の頬に直撃する。
眼鏡が吹き飛び、地面に叩きつけられた。
かしゃん。
微かな音を上げてレンズが割れる。
それをスローモーションのように見て、啓太の熱が一気に下がった。
「眼鏡が……」
割れてしまった。
中嶋の眼鏡が……。
啓太はふらふらと近寄って、フレームだけを取り上げる。
無残にも割れたグラスは地面に散乱し、とてもじゃないが元に戻る様子はない。
「眼鏡が!」
中嶋を見上げると、茫洋とした視線が啓太を捕らえる。
良く見えないのだろう。細めた目で、中嶋は啓太を漸く捉え「行くぞ」と言った。
啓太は首を振る。
砕けたレンズを全て拾い、取り出したハンカチに包む。
「弁償します……」
「家に戻ればいくらでもある。問題ない」
「だけど……」
「見えないから、連れて行ってくれ」
啓太の言葉を遮るように言った中嶋に、責任を感じていた啓太は、頷かざるを得なかった。
手を繋いで駅を出る。
とぼとぼと先程と同じ道のりを辿り、続きは中嶋の言う特徴のままに進む。
「全然見えないんですか?」
「いや。ぼんやりとは見える。はっきり見ようと思ったら……そうだな、30センチ程まで近付かないと駄目か」
「そんなに悪いんだ……」
これまで眼鏡の必要性を感じたことのない啓太には、そういう苦労は判らない。見えないということを経験したこともないのだ。
「……本当に、ごめんなさい」
はずみとは言え、中嶋の視力の寄り何処を破壊したことに対して、強い罪悪感が根付く。
中嶋は何も言わなかった。
新しい家だと案内されたのは、最近新築されたというマンション。
以前のマンションよりも更にセキュリティに優れた、最新のものだった。
「ここは……」
「入り口で認証キーと鍵が必要になる。忘れるなよ」
「はい……」
言われるがままに認証キーを打ち込み鍵を開けて、中へ。
エレベーターを最上階まで使って――。
「ここって……」
「いわゆるペントハウスというものだ」
「うそ……」
ドアが一つしかない最上階。開けて入れば、広い一面の部屋が。
啓太がぼんやりとしている内に、中嶋はスペアの眼鏡をかけて啓太の元に戻ってきた。
どこか真剣な表情が、怒っているかのように見えて、啓太は萎縮する。
だが、かけられた声は穏やかなものだった。
「すまなかった」
短い謝罪の言葉。
え? と顔を上げると、その表情は微かな後悔に染まっていて。
「お前の人格を否定するような言い方をして悪かった」
「え……俺……」
中嶋は、啓太が一番引っかかったところを的確に指摘して謝ってきた。ということは、啓太が何故怒って逃げ出したのか、その理由を判っているということで。
「……寝室は別に分けても構わない。空いている部屋はいくらでもある。好きに使うと良い」
言って、中嶋は踵を返す。
「中嶋さん!」
啓太は中嶋の背中に飛びつく。
確認したいことが出来た。確認しなくては、結局啓太はこの部屋から出て行かなくてはならない。
「中嶋さんは、俺の体だけが欲しいんですか?」
本当なら口にもしたくない言葉。
啓太だって、自分の体が中嶋をひきつけられる魅力を持っているとは、思っていない。
中嶋は啓太を好きと言ってくれたことがあるが、それがどの部分を指してのことなのか、啓太はずっと疑問だった。
取り立てて特徴があるわけでもない。顔も並みで、感じやすいと言われる体だって、他の女性にくらべるとまだまだ子供で、中嶋の興味を引き続けられるだけの力があるとは思えない。
だからこそ、今ここで、聞いておきたかった。
出来るなら、体ではなく、人格や存在を好きと言って欲しい。
でなければ、啓太はこれから、自分そのものを否定した状態でしか中嶋と共にいられない。
それは、啓太が啓太でなくなるということだ。
縋る啓太の手が震えている。
中嶋は暫く沈黙した後――。
「そんなわけが、あるはずがない」
小さく答えた。
「お前は俺の体が好きだから、これまで付き合ってきたのか?」
「違います!」
「なら、俺も同じだ」
啓太は振り向く中嶋を待った。
真摯な目が、何時もとは違う眼鏡の奥から覗いている。それは、雄弁に啓太への気持ちを語っているように、啓太には見えた。
勿論、それは願望が見せた幻かもしれなかったが……。
背中に回る力強い手を感じ、啓太も引き寄せられるように愛しい人の胸に縋る。
顎を持ち上げられ唇が降りてくるのに、啓太は瞳を閉じて触れ合う瞬間を待った。
2007.05.19
選択式お題2