ルークが戻ってきた。
王城でそう噂を聞いたナタリアは、取るものもとりあえず、ファブレ邸に向かった。
かつては良く通った道だった。ナタリアの予定は不定期で、時にはルークの家庭教師の時間帯にぶつかったりもしたが、アッシュはナタリアを優先してくれた。ナタリアを大事にしていてくれたからだ。
ルークが誘拐されて、暫くはそれもなかったけれど、また、以前と同じようにルークと共に過ごすことが出来る!
そう、ナタリアは思っていた。
なのに――。
「申し訳ありません。ルーク様は現在旦那様とお話中ですので、お会い出来ません」
何時もなら多少苦い笑みは見せていたけれど、でもナタリアの来訪を拒むことのなかったファブレ家の執事が、無表情に告げる。
「どうしてですの? 私はナタリアですわ! ルークの婚約者ですのよ!?」
やっと戻ってきたのだ。一度くらい顔を見せてくれても良いじゃないか。それにナタリアは王女なのだ。たかが貴族家の執事の分際で、その歩みを止めるなど、不敬ではないか!
「とにかく、ルークに会うまで帰りませんわ!」
それがナタリアの権利であり、また義務だった。
将来のルークの妻たる者、夫の無事を確認するのは当然のことなのだから。
「……ナタリア殿下。本日はお帰り下さい。取り込んでおりますので、お相手できるような状態でもありません」
「何故ですの!? 私は……」
未来のルークの妻なのだ!
そう主張しようとしたナタリアの声は、広間から出てきたルークの姿によって途切れた。
「ルーク!」
執事の隙をつき、ルークの元に走り寄るナタリア。しかしその歩みは、ルークに続いて出てきた娘の存在により、止まることとなる。
白いドレスを纏った、オレンジに近い赤の髪と、ペリドットに似た色の瞳の少女。微笑みは無邪気で柔らかく、側にいるルークに向けられている。
そしてルークもまた……。
「誰……ですの?」
呆然と呟くナタリアを、ルークは振り向いた。
「ナタリアか。家人に許しを経て、そこに立っているんだろうな?」
何故だろう? ルークの瞳は、傍らの少女に向けるそれとは違い、とても冷たく凍っていた。
「何故ですの? 私がこの屋敷に入るのに、何故家人の許しが必要ですの!?」
だってこれまでは、誰の許しを得なくても迎えられていた。それが当然のことだったのだ。
なのに、今更何故!?
混乱するナタリアに、ルークは嘲笑に似た笑みを浮かべると「礼儀がなっていないな、ナタリア王女」と言い放った。
「例えば王族にとっては下級の貴族であろうが、訪問前に連絡を入れるのが普通だろう? それでなくとも王族は、貴族にとっては絶対権力をもって敬うものとなっている。失礼のないようにもてなす為には、それなりの準備が必要だ。その準備を、お前はさせないつもりなのか?」
それに……。
「確かにお前は王女だが、その持つ色の為に継承権は俺よりも尚低い。その身でありながら、高位継承権を持つファブレ家に対してさも当然とばかりに要求を突きつける権利が、お前のどこにある?」
齢十歳の少年であった。そのアッシュから突きつけられた常識と事実は、ナタリアを打ちのめした。
何より、誘拐前とは態度からして違う。以前なら、優しく微笑みながら歓迎してくれたルークが……。
「あなたの、所為ですの?」
ナタリアの視線は、怒りと共にルークの傍らの少女に向く。
向けられた圧倒的な負の感情に、少女は恐れルークの背に隠れようとする。
その幼い仕草に、ナタリアの怒りはいや増した。
「いい加減になさいませっ! ルークは私の将来の夫ですわ!」
ツカツカと近付いて、少女の腕を掴もうとしたナタリアは、しかしそうすることは出来なかった。
少女の腕に指先が触れる瞬間、ルークがナタリアの手を払いのけたからだ。
「ルーク!?」
驚愕の視線が向く先にあったのは、先程よりも更に冷たい視線だった。
「出て行け、ナタリア。出て行かないのならば、叔父上に知らせを入れる。他家を訪問するのに連絡一つ入れられぬ王女など、キムラスカの恥にしかならない。そう進言すれば、お前はもう、二度と城から出してもらえなくなる可能性があるぞ?」
「っ!?」
「それからお前は勘違いしているようだから言ってやると、俺はアッシュと名を変えた。今のルークはこいつの方だ。そしてこのルークこそが、俺の妻となる者だ」
え? と、驚愕は更に深くなる。
「今……なんて……」
「昨日、叔父上にはお前との婚約の解消の件について、了承を頂いた。もう俺とお前は何の関係もない」
「どう……して……。どうしてですのっ!?」
「どうして? 当然だろう。キムラスカの王は赤毛に緑目と昔から決まっている。お前との間には、恐らく赤毛で緑目の子など出来はしない。更に言えば、誰が見ても王女として失格の人間を、誰が好んで妻に迎えたいと思うものか。もう少し自分の行動に、自覚と責任を持ったらどうなんだ?」
他人の迷惑に頭が回らず、己の権利だけ主張して当然と思っているような王女には、恐らく民の苦難など知ることも出来ないだろう。現に、アッシュはナタリアの所為で多大な勉学の遅れを出したことがあるのだ。
ナタリアは自分のことだけ考えていれば良かったのだろうが、実際のところ、ファブレの屋敷では皆、ナタリアの気遣いの欠片もない訪問に迷惑していた。
「ベルケンドに行け、ナタリア。そこで真実を知れ。いや、そうだな。乳母辺りに聞いてみたらどうだ? 真実を話してくれ、と。そうすれば、お前がいかに王族らしからぬ人間か、良く判るだろう」
「どういう、ことですの?」
「他人に正解ばかり求めていないで、自分で考えたらどうだ? お飾りの王女様」
は、と馬鹿にしたように吐き出したアッシュは、ナタリアとは正反対の視線で傍らの少女の手を握ると、二人で仲良く立ち去っていった。
「これで邪魔者は一人減ったな。お前を害する者も、一人減ったぞ、ルーク」
「あー?」
「早く大人になれ。そして俺の伴侶になれ。絶望しかないこの世界を、俺達の手で更なる絶望に叩き落とすんだ」
二人きりのルークの部屋。今はアッシュとルークの二人の部屋。
ダアトから戻って以来、子供らしからぬ思考と言動で全てを砕いたアッシュは、無垢な幼子を抱きしめる。
「父上も黙らせた。母上はお前を見て喜んでいたな。後は、預言を信じるしか出来ない哀れな国王をこの手にかけるだけだ。いや、先にモースか?」
「んー、んんー」
「そうだ。お前を親友だとか言いながら裏切った奴も始末しなくてはならないな。お前を生み出す技術を作り出した男も、ユリアの子孫も。お前に仇名す者全てを葬ってやろう」
アッシュに抱きしめられ、嬉しそうに笑うルークを前に、笑みを浮かべながらアッシュは誓う。
この世を己の手に。二度と、聖なる焔の光を犠牲にしない世界を。
愚かな思考など、全て葬ってしまおう。己らの幸福の為に。
「早く大人になれ。お前は俺の妻になり、子をなし家族で暮らそう。預言のなくなった静かな世界で……」
多くは望まない、最小単位の幸せを、この小さな手に――。