卒業証書1

 ‥手が、白い細い腕が、助けを求め宙をさまよう。何かに縋り付くために。
 そして悲痛な叫びがこだまする。

「正美っ」

 ‥‥夢か。
 俺はまたこの夢を見ていた。



「達哉先ぱい、お元気ですか? 六月になりプールに入れるようになって、やっと水泳部も活動開始です。たっちゃんの高校は年中できていいな。でも僕は幸来さんと一緒だし楽しくやってます―――

 ほぼ毎週、正美からは手紙が来る。
 ここは携帯禁止だから、俺は規則を破る気はないので手紙なのだ。
 こいつは俺の隣の家に住んでる奴で、二つ年下の中二だ。随分なついていて、俺がこの高校で、寮に入ると知ったときの顔はいまだに忘れられない。女子生徒の騒ぎようもすごかったが、それが気にならないほどに。
 しかしこっちに移ったらすぐに、男の恋人ができたと知らせてきて、今度は俺が驚かされた。と言っても幸来は中三の、同じ水泳部で、名前の通りほんとに、幸せに「来い」って命令して呼び寄せちゃうような、熱血で正直な奴なので反対はできない。
 なぜかと言えば正美はおとなしくて、かわいくて、成績も良く、もろに虐められやすいタイプだから。
 正美が一年の時は俺がついて回ってたから心配はなかった。
 俺は転校生で、自己紹介のときに「前の学校では生徒会長をやってました」なんてぶちあげてしまったので、三年になると会長に推薦されてしまった。そういう経過もあって俺が有名人で、なおかつ体格も良かったため正美には誰も手を出さなかったようだ。
 ついて回ったというのはどういうことかと言えば、正美はとてもおとなしく控えめで、絶対に自分から俺のことを迎えに来たりしない。待つのだって待ってろと命令しない限り待っていない。自分なんかが待ってて迷惑じゃないか、なんて思ってしまうのだ。
 何度クラスの奴らに「正美ちゃん、下駄箱の辺りでうろうろしてたけど、声かけたら帰っちゃったぜ」と言われたことか。
 いくら俺が一緒に帰りたいからって言ってもわかってはくれない。俺は正美のことをとてもかわいい弟だと思っているのに。
 こういうことだから俺の方がついて回ったのだ。
 そしてその護衛がいなくなって心配だったところ、幸来が恋人になったときたもんだ。驚きはしてもほっとしたという方が大きいと思う。

 俺は水泳の推薦でこの学校に来た。しかしここは学業もかなりランクが高い。もちろん推薦の条件を満たすほどには中学での成績は良かったのだが。
   自分で言っちゃあなんだが、俺は成績優秀、品行方正、運動神経抜群、英姿颯爽‥‥、やっぱ言い過ぎか。まぁ、そんな感じで何事にも手を抜けず、勉強に、水泳にと忙しい。
 しかも去年は一番上で威張ってたのに、高校に入ったら一番下だ。何かと雑用は多い。だからそう遠くはないのに、一度も家に帰ってなかった。
 正美からの手紙は最後にいつもこう書かれていた。「帰ってくるときは教えてね」
 まめに返事は出していたがそれには答えたことがなかった。帰る気もあるし、正美にも会いたかったが、適当なことを書いてぬか喜びさせたくなかったのだ。
 しかしあと一ヶ月もすれば夏休みだ。絶対うそつきにはならないだろう。

「正美へ。元気でやってるか? 両親とはどうだ。幸来とは相変わらず仲が良さそうだな。期末がもうすぐあるので勉強の方も結構ハードだ。十位から転がりたくはないからな。だが夏休みまでひと月をきった。二人と会えることを楽しみにしている」

 正美の手紙も短い方だと思うが、一応便せん一枚を埋めるぐらいは書いてくる。まぁ、男にはこれが限度か。俺はこれだけをはがきに書いて送った。

 帰るということに反応したのか返事が来たのは早かった。「待ってる」そう何度も書かれていた。その中でさりげなく、両親とも上手くいっている事がほのめかされていた。
 良かった‥。正美の両親は、父親は単身赴任でアメリカへ、母親は病弱で寝込んだり、もっと前は入退院を繰り返してるような状態でひどかった。正美はひとりぼっちでほったらかされていて、そのことをかなり恨んでいたのだ。
 俺は中二でここへ越してきたのでそれまでのことは正美から聞いた。会ってすぐから同情した俺たち家族は正美を可愛がった。正美は飢えていた情にすぐに飛びつき、特に俺になついた。それからはいつもまとわりついていたように思う。弟が欲しかった俺に異存はなかった。
 俺たちが越していってすぐ、正美の父親が急いで帰国した。実に八年ぶりだった。母親は元々心臓が弱く、海外生活には耐えられないと判断してこちらに残った。今から考えれば、それが全て諸悪の原因だったのだ。
 母親は頼れるはずの夫がいないことで、精神的にも落ち込み、体調をどんどん崩していった。だから夫が帰国するとみるみる快復して、入院なんてもちろん、家で寝込むことすらなくなってきた。
 しかしずっと一人で耐えていた正美は、子供なら誰でもしていい、甘えることをしなかった。いや、出来なかったのだ。やっと環境が整った頃にはもう中一だ。もう少し早ければ‥‥、これが悔やまれるが、俺の言葉には耳を傾けてくれた。

「お前は偉かった。一人で母親を守り、何でも我慢してここまでやってきたんだ。だからいくつになっても恥ずかしがらないでいい。どんなけでも甘えていい。どんなわがままだって言っていい。逆に困らせるぐらいわがまま言いまくってやれ。お前にはその権利がある」

 甘えることを知らない子供はどうしていいか解らない。そんな風にしてしまった親を憎んですらいたようだ。
 しかし俺の言葉にヒントを得たのか、かなり無茶とも言えることをやりだした。
 忘れ物をしたと言っては、心臓の弱い母親を学校に呼びつけたり、買い物に出かけてはレジで財布を忘れたという。そして会社に行っている父親を呼びつけるのだ。
 初めの半年は三人の生活に慣れるのに使い、その後の半年ぐらいはこんな感じで自分に対する愛情を確かめていた。愛されてることが解ってきても、両親の腫れ物に触るような態度は望んでいた物とは違う。あのおとなしい正美に、そんなことが出来るとは思わなかったが、とうとうかなり高額なものを万引きして警察のお世話になった。
 父親は初めて正美の頬を張った。そして夫婦で正美を抱きしめて、泣いた。ほんとにしみじみと、今までを洗い流すように三人で泣いた。
 いつでも正美がまず俺を呼ぶので、その時も一緒に警察にいたのだが、この俺がもらい泣きしてしまうぐらいに心に染みる場面だった。
 そして、少しずつ打ち解けていったのだ。


 実は今の高校を決めるのに、かなり悩んだ。俺がいなくなったら正美はどうなるんだろう。そう思っていたからだ。甘える相手がいないということはとても辛い。
 正美を見ていて痛感した。子供は、いや人間は一人では生きていけないのだ。情に触れてこそ心が満たされるのだ。
 推薦の取れるギリギリでそう言うことがあり、その相手は本来の人が果たせることになり、俺はここに決めることが出来た。
 もう少しいてやりたかった気もするが、逆に俺がいない方が親との溝を埋めるのには良かったと思う。そう思ってはいるのだが、やはり心配でときどき確認してしまうのだ。


 期末も終わり、夏休み中の部活の予定が決まった。七月中に一度ぐらいは帰る気でいたのだが、何と休みがない。お盆にしか帰れないようだ。ゴメンをたくさん書いて正美にも知らせる。
 返事が来たが、取り止めのない話が続く。どうも脈絡がない。自分に自信のない正美のいつもの手紙は、何度も下書きをして、それから清書してるんじゃないかと思わす内容だ。
 そして最後に「帰ってきて欲しい」そう小さく書かれていた。
 何かおかしい。何事にも控えめな正美は自分の希望を押しつけるようなことは絶対に書かない。この言葉も初めてみた。
 書体のふるえが正美の気持ちを表しているような気がした。

 よほど難しい顔をしていたのだろう。ルームメイトが何事かを尋ねてくる。顔を見たらピンとひらめいた。
「携帯貸してくれっ!」
 友人が出した物を取ってから、掛け方が解らないことに気づく。使ったことがないのだ。なにかいやな予感がしてどんどん焦りだす。
「俺んちに電話してくれっ」
 なにも知らない相手に、グズグズするなと言わんばかりに矢継ぎ早に番号を言う。呼び出し音が鳴ってる携帯を受け取ると、それだけで少しほっとする。  電話に出たのは俺の母親だった。
「正美のことだけどなんか変じゃなかったか?」
 おふくろには俺が言ってることがすぐに解ったようだ。
「正美君から聞いたの? あちらの奥さんからも相談されてたんだけどね、あの人が出所してきたのよ」
「なんだってぇ!」
 驚きのあまり声がでかくなる。
「あの人が来るって連絡してきた時間はお父さんと二人で様子を窺ってたのよ。何かあったらすぐに駆けつけれるように。ほんの三十分ぐらいだったわ。入ってから出てくるまで。ご主人に追い出されるようにして出てきたんだけど、ちょうどその時、これは運が良かったって言うのかしら」
「ごたくはいいから結論を言ってくれ」
「もう、そんなに怒んなくってもいいでしょう。ちょうど正美君が帰ってきたのよ。それでその姿を見てね。何だ、こんなにごつくなりやがって。そう捨てぜりふを残して出ていったのよ」
「えっ‥‥んじゃあ、もうつきまとわれることは無い、ってことか?」
「ええ、あちらのご主人もかなりきついことを言ったって言ってらしたから、もうここへは寄りつかないだろうって」
 俺はほっとして、詰めていた息を思い切り吐いた。
「正美はそんでどうしてる?」
「正美君はほらあの子。あなたの後輩の‥、そう安井君と一緒にいてね。けっこう平静だったわ。それを見てて大人はみんなほっとしたのよ」
 よくも図々しく顔が出せたもんだな。でも、取りあえず正美が平静を保っていられたのなら良かったとしよう。
 俺は、何とか一日だけでも帰って正美に会うから、そう母親に伝言すると電話を持ち主に返した。 
「おい、付きまとわれるだのって、そのマサミちゃんって子がストーカーにでも遭ってるのか?」
「あっ、いや。携帯ありがとな」
 俺は相手の質問には答えず、礼だけ言うと自分のベッドに転がり、どうやって水泳部をサボるか考えだした。


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