卒業証書2

 ‥手が、白い細い腕が、助けを求め宙をさまよう。何かに縋り付くために。
 必死で伸ばしたその腕は、あっさりとゴツイ手に引き戻される。そして悲痛な叫びがこだまする。

「うわっ」
 またか。

 俺はいやな夢を見て、いやな汗をかいていたようだ。考え事をしていると練習がきついだけにすぐに寝てしまう。
 時間は朝の四時になっていた。あと二時間で起床して朝練に行かなくてはならない。
 取りあえず、もう一度横になった。瞼を閉じるとまたあの場面が浮かんでくる。
 それは俺が初めてみた正美の姿だった。


 俺が半端な時期に引っ越すことになったのは、祖母が脚の骨を折ったからだ。
 父は長男であったけど、親との折り合いが良くなかった。しかし絶対に長男が家を継ぐと決めつけていた祖父母は、長い間隣の土地を遊ばせておいた。
 骨折したと聞いて体の衰えを感じた親父は、仕方なく引っ越しを決めたのだ。そしてすぐに家を建てた。それが現在の我が家である。
 二年になってせっかく生徒会長に当選したのに、俺の文句で任期終了の九月いっぱいまで前の家で過ごした。それで十月からこっちに来たのだ。
 家が建ってからもしばらく空き家だった。いつ人が来るかなんて、そいつらは考えてもいなかったのだろう。
 引っ越す少し前、家族そろって下見に来た。俺は二階の自分の場所になる予定の部屋から、周りを何気なしに見回していた。
 隣の家が結構近い。カーテンが全開になっていて中が丸見えだ。人がたくさんいる‥。

 どう見ても全裸の、男の子が泣いている。
 えっ‥‥‥。
 俺は凝視する。
 その、小学校の高学年ぐらいであろう男の子は、四つん這いにされていて、後ろに男がひざ立ちになってくっついていた。
 ガラスの向こうは異世界だった。
 手が、俺に向かって助けを求めている。
 俺は動けなかった。状況がすぐに飲み込めなかったのだ。確かに助けがいる、それだけは警報が鳴っている。それでも理解するのには残酷すぎた。

 貫かれた‥。
 そして、叫び声が聞こえた気がした。
 それを合図に、俺は転げるように階段を下り、両親に訴えた。両親も目撃すると警察に電話した。
 手引きしていたのは正美の叔父だった。

 どうして正美の父親が病身の妻と、小さな子供を残して行けたかというと、妻の弟が近くに住んでいてまめに世話をしてくれていたからだった。
 正美の母親の実家は資産家で弟はその跡を継いでいた。しかし実際は会社は人任せで自分はふらふらしていたのだ。
 それでも収入があるうちは、正美にも優しくていい人だったらしい。だから父親が安心してしまったのだ。
 父親が出ていったのと同調するように会社は傾いていった。そしておきまりの倒産。贅沢になれている彼はお金が欲しかった。
 金があって遊んでるときに寄ってくる奴らはだいたい決まっている。彼の周りにいたのはそんな連中ばかりだった。商売になることも解っていた。
 正美の母親が入院するのを待って、レイプし、カメラに納め、マニアに向けて盗撮物として高く売っていたらしい。
 汚い大人が多いのに驚く。子供がひどい目に遭ってるのを見て喜ぶ輩が大勢いるのだ。残念ながら正美は鑑賞するにはとてもいい人材だった。
 可愛らしい顔立ち、白い肌、思わず頬ずりをしたくなるような愛らしさを持っていた。年令よりも二つは下に見える幼さもあった。俺が初めて見た六年生のときでもそうだったのだから小さな頃はよほど可愛かったのだろう。
 性格もおとなしく、暴れてまで反抗することはない。泣きながらも受け入れてしまう、撮る側も見る側もうってつけだったと思われる。
 正美にとっては悪夢以外の何ものでもない。しかし彼の保護者はその叔父しかいないのだ。そしてその悪夢が過ぎ去ったあとの、褒美がわりの少しの情が欲しかったのだ。
 自分が我慢すれば母親の面倒も見てもらえる、その一時だけ我慢すれば優しくしてもらえる、そんなことが諦めるという方法しか選べない原因だった。もちろん、父親にだってそんな話は出来なかった。幼いながらに良くないことは理解していたから。

 結局俺たちが見つけるまでの五年もの長い間、正美は耐え続けたのだ。


 急いで帰ることはない。だがその因縁の叔父が来たのだ。正美の様子はどうだろう。とても心配だ。
 しかし俺の後を追うように水泳を始めたのが功を奏したか。正美はあのころの陰のある面影は残していない。真っ黒に日焼けして、いまでも小さい方だが背も随分伸びた。筋肉も付いた。肩幅も出来てきた。とても健康的になって、明るくなった。幼さから脱皮したのだ。
 ロリコン、ショタコンと言われる幼児、子供愛好者相手にはもう対象外であろう。

 それでもどうしても一度帰って顔を見たくて、俺は母親に頼んで部の顧問に電話してもらった。法事で帰らせて欲しいと。
 そのことはすぐに正美にも知らせてもらった。俺が正美に直接電話できなかったのは、そんな大変なときにそばにいてやれなかった罪悪感からだった。まだ俺は保護者気分でいたのだ。

 ジリジリと暑い日はやってくる。しかしなかなか帰れる日はやってこない。
 手紙が来た。
 正美からかと思いきや、安井幸来と名がある。

 正美は事件の弊害で抱き合わないといられない体になっていた。幼い頃にそういうショックがあると性的に激しくなることがあるそうだ。
 男を相手にするのは、まだ不安が残っているからだと俺は思う。誰かに守って欲しいのだ。安心感が欲しいのだ。それに彼が接してきたのは男の歪んだ愛情だった。その辺りが影響してるのではないかと思う。
 そんなことを考えながら正美の恋人、幸来の姿を思い浮かべる。頭は塩素で茶色に抜けて逆三角のたくましい体をした、人なつっこい笑顔のいい男だ。彼も去年一年で随分大きくなった。今でも大きい方だが、中三だ、まだ背だって伸びるだろう。

 あの男のことだろうか。正美になにか変化があったのだろうか。とにかく封を開けた。
 俺は読み出してあまりのことに茫然自失となってしまった。あの男のことは正美はちゃんと過去のこととしていたのだ。
 それでも泣き暮らしているという。俺はどうすればいいのだろう。

「高橋先輩、お久しぶりです。俺がわざわざ手紙を書いたのは正美のことです。いままでだまっていたのは正美に口止めされていたからで、結論を先に言わせてもらうと、帰ってきて欲しくないんだ。正美はまだあんたにほれている。毎日涙をこらえてがんばっている。先輩から手紙が来るとすぐにわかる。何でかと言うと次の日は泣きはらした目をしてくるからだ。あんたからの、そっけないはがきを抱きしめ泣いてるんだ。先輩はもう終わったつもりかもしれないが、正美はまだ焦がれてる」

 そう、正美は本当は俺のことが好きだった。
 中学の卒業式が終わってから告白されたのだ。しかし俺が男を愛せないのはわかっていたのだろう。
 すごく、すごく好きだった。そう言って俺に抱きつくと頬に軽く唇をつけた。
 そしてそれ以上は何も言わず、答えも求めず、黙って寮へ行くのを見送ってくれたのだ。
 俺は高を括っていた。正美はまだ子供だ。助けられたのと、そのあとかまってくれたという恩を愛情と勘違いしていると。すぐに冷めるだろう、勘違いに気づくだろうと。
 高校へ入学してすぐだった。幸来と付き合いだしたという手紙が来たのは。  本当はこっちのことでも、相手が同姓ということを除いては考えたとおりだったと安堵していたのだ。
 それからずっとのろけていたのに。書いてくることは楽しそうな話ばかりだったのに。

 なぜ?
 俺を安心させるため?
 
「へびの生殺しみたいに中途はんぱに優しくしないでくれ。ダメならスパッとあきらめさせてやってくれ。俺は正美が好きだ。正美の気持ちが俺に向くまで気長に待つつもりではいる。だけどあんたがいつまでもその気もないのにそばにいると、正美も思いきれないだろう。だから先輩、正美に会わないで欲しい。わかってくれますよね」

 歯に衣着せることのできない、正直者の幸来の手紙はこう締めくくられていた。

 俺は正美を思って、守ってるつもりでいた。
 ふふっ、悲しい笑いが込み上げる。
 何のことはない。俺の方がずっと子供だったってわけか。
 どうしてもっと正美のことを考えてやらなかったのだろう。あの正美が自分の幸せが欲しくて、自分の気持ちを押しつけたりするわけないのだ。
 俺は心の底では嬉しかったのだ。可愛い弟に「お兄ちゃん、好き」そんな風に言ってもらえたような気でいたのだ。だから正美がするはずのないことに気がつかなかったのだ。
 正美にとってはもの凄い勇気を必要とする告白をした理由。考えられることは一つ。それを言ったことによって俺が気持ち悪がって、正美のことを嫌うように仕向けた。
 それで正美はきっぱり諦めるつもりでいたんじゃないだろうか。気がつかなかったバカな俺はそれに乗ってやれなかった。
 それどころか喜んで手紙まで送っていたのだ。
 まったく自分の馬鹿さ加減がいやになる。

 正美はあの日の、卒業式のままで今もいるのだ。そこから気持ちが動けずにいるのだ。
 俺は一人で卒業してしまったというのに。

 俺はどうしても男を愛することはできない。その代わり俺は生涯、正美のことを弟として親愛の情を注ぐ。
 だがお前の気持ちが他へ向くまで会わないことを誓おう。


「正美へ。元気でやっているか。あいつに負けなかったらしいな。えらいぞ。もう心配はなくなったから俺は帰らない。こっちで彼女も出来たからな。正月にでも紹介する。今よりもっと忙しくなるから手紙も出せるかどうかわからない。幸来はすごくいい奴だ。大事にしてやれ。ずっと仲良くな。それじゃあ、元気で」


 俺は正美に初めてうそをついた。

 この卒業証書を渡すことが、今、俺にできる、精一杯だ。

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