牙が赤く染まる時 20
「あのオアシスに陣を取っているのか。」
望遠鏡から目を離すと、ブラッドレイは居並ぶ将軍達の前に腰を下ろした。
ロイ達が陣を構えているオアシスから約1kの荒地に、ブラッドレイは本陣を置いた。
そこから全軍で出撃すれば、恐らく1時間と持たないだろう。
勝利はほぼ我らの手にある。
それが殆どの将軍達の考えだった。
だがブラッドレイは違っていた。
「諸君らはこの戦いが容易なものと考えているようだが…」
「そうではありませんか?こちらの軍勢と、マスタングらの軍勢では10倍近くの差があります。」
「荒地とはいえ、広く開けた土地。見通しの良い絶好の戦場では…」
「そう…見通しが良い…それ故、的にもなりやすい。」
ブラッドレイの静かな言葉に、皆黙り込んでしまった。
しかし、ロイ達の軍勢に充分な武器、弾薬は無いと報告を受けたはず。
何故そうまでしてか細き軍勢を恐れるのか…
「あそこには…焔がいる。鋼もいる。それがどういう事だか判るかな?」
そう…イシュバールの英雄と、類まれ無き腕を持つ国家錬金術師が二人もいる…
「見通しの良い場所。それはマスタングの焔の絶好の的になる。」
「広く開けた土地。それは鋼のその錬金術が、広大な大地で充分発揮できる。」
将軍達の表情がたちまち青ざめていく…
イシュバールで、散々苦労させられた反乱軍を、一瞬で焼きつくした焔の錬金術師。
鋼の名を持つ少年の噂は、中央では知らぬ名は無いとまで言われた程だ。
「心して掛からねばならぬな…」
ブラッドレイの言葉に、将軍達は静かに頷いた…
ロイとヒューズが作戦を練っている頃、エドは最前線の位置につき、敵の出方を伺っていた。
暑い太陽が容赦なく照りつける荒野。
右手と左足が鋼鉄のエドには辛い土地だった。
「大将、水っすよ。」
「あ、有難う、助かったぜ。」
ハボックが持ってきた水にエドは飛びつき、ごくごくと美味しそうに飲み干した。
ハボックはエドの傍らに座り、敵陣が構えている方角に煙草の煙を吐き出した。
「大総統閣下はまだ動きませんか?」
「うん。かなり慎重になっているらしいな。」
大佐の希望的予想では、数に物を言わせて全軍が突進してくれれば勝機はあると見ていた。
だが敵大将はあのブラッドレイ。やはりそう上手くはいかなかったか…
「グラン准将とかだったら、きっと上手く言っていたんだろうけどね。」
コップの中に僅かに残った水を口の中に叩きいれると、エドはハボックの方を向いて話しかけた。
「…少尉は…いつから大佐と一緒に…」
「俺が軍に入ってすぐっすよ。何年になるか、忘れましたね。」
「大佐の自己催眠を解く鍵となったあの言葉…アイザックから聞いた…」
珍しく弱気になっているエドに、ハボックは小さく微笑んで見せる。
「何を勘違いしているのか知りませんがね…俺と大佐の間に恋愛はありませんよ。」
「…でも大佐は少尉しか判らない言葉をキーワードにした。」
「それだけ悟られにくいキーワードは無かったでしょうからね。」
そうだ…ただそれだけだ…
俺と大佐しか知らないキーワードなら、絶対敵に悟られる事は無い。
きっかけは俺だったんだ。味方に俺がいると踏んでそう設定しただけだ。
「大佐の病気も、少尉の一言で克服した…俺には出来なかった…」
「俺は…8年。大将は3年。でも俺とあんたは対等な立場にある。」
その意味が判りますか…?
エドは首をかしげて黙り込んでしまった。
俺と少尉が対等な立場…?意味わかんねーよ。
「俺が8年掛けてやっと掴んだ大佐の信頼を、あんたはたった3年、しかも常に傍に居ずにやってのけた。」
「俺は…常にあの人の傍に居て、あの人の空気になって…そしてやっと今の地位に居るんっすよ。」
あんたは、それを出会った一瞬でやってのけた。
「大佐は、いつもあんたの事を心配していましたよ。」
「大佐は、少尉が傍に居るから安心だって言ってた。」
そう…今は俺達は同じ立場。対等な位置。
いつかはどちらかがあの人の傍らに立つ事になる。
「さて、そろそろ大佐の作戦もまとまる頃ですかね。」
「敵はまだ動きそうに無い。俺も一度テントに戻るか。」
エドとハボックは互いの顔を見合わせながら、小さく笑い、ロイの待つテントへと向かっていった。
夜が明け…決戦の時は近いと風がそう告げていた。
来る、とブラッドレイはその空気で感じていた。
出る、とロイは戦場で培った勘を信じた。
ロイのテントの前には、配置につく前の部下達が大勢集まっていた。
皆、ピリピリした空気を敏感に読み取っている。
ロイは大きく息を吸い、テントの入り口の布をばさっと開ける。
数百の眼が、ロイの身体を貫いていく。
かすかに震えるロイの腕を、ヒューズが支え、アルが僅かにロイの前に出ようとした。
「いい…大丈夫だ…」
二人を遮り、ロイは一歩、群集の前に出る。
「私は…私は、ロイマスタング大佐。焔の錬金術師だ。」
「故あって、私はこの部隊の指揮を取る事になった。敵は…大総統、ブラッドレイ。」
一瞬、兵士達のにざわめきが走るが、すぐに静まり、ロイの話に耳を傾けた。
「向こうの軍勢は此方の10倍、武器も装備も数段上だ。だが、勝てない相手ではない。」
「地の利を利用し、そして私の能力を最大限に使い、この戦いを勝利に導く。」
「私を信じて、着いて来て欲しい。」
ロイの静かな物の言い方に、兵士達は皆静まり返っている。
駄目か…あんな姿を晒した私では着いて来てくれと言う方が無理な事…
「マ、マスタング大佐、万歳!」
「アメストリス国に栄光あれ!」
「歴史を変えろ!大総統を倒せ!」
人々が口々にロイを称え、国を称え、大総統を倒せと罵倒する。
歓声は大きな雄叫びへと変わり、兵士達はそれぞれ武器を携え所定の位置へと向かう。
「さぁ、コレで後には引けなくなりましたね。」
「やるだけの事はする。アイザックは私が示した通りに…」
「判っています…大佐。ご無事で。」
アイザックの方を見る事もなく、ロイは自らが最前線へと向かった。
人間兵器として、ブラッドレイの軍勢を打ち負かすには、自分の焔を使うしかもう勝算は無かった。
最前線にはエドが立って待っていた。
「よっ。あんたもやっぱり来たか。」
「私達国家錬金術師は人間兵器だからな。兵器は最前線で戦うのが道理だろう。」
エドのすぐ横に立つと、ロイはブラッドレイが居る方向をじっと見つめた。
エドもただ黙ってロイと同じ方向を見つめていた。
「鋼の…ココはいいからアルフォンスと一緒にアイザックに続け。」
「…?言っている意味が判らないんだけど…」
「戦うのは…私一人だ。」
何を言って…と驚きロイの顔を見つめると、ロイは優しく微笑んでエドの額にキスを落とした。
「アイザックには敵が突進したと同時に、部隊を後方に下がらせる様指示をしている。」
「そんな事したら大総統の軍に押されるじゃないか!」
「それでいい。理由も判らぬ戦いに、皆を巻き込ませる訳にはいかない。」
「だってコレは赤い牙と現政権の戦いだろう!?国を変える為の…」
「私はテロリストではない。鋼の。赤い牙と共には戦えない。」
「武力で奪った権力は、砂の様に脆いのだよ。鋼の。」
だからこの戦いで勝利しても意味は無い。奪い取るなら、確実に足場を固めて望まねばならない。
ロイは静かに語り終えると、エドを後ろに庇い、自ら前に立ちはだかる。
「行け…鋼の。お前には弟や身体を元の姿に戻すと言う確たる目標があったはずだ。」
「ここで私と運命を共にする事はない。」
後ろを振り返ろうともせずに話すロイに、エドは下を向いて声を詰まらせた。
「あんた…馬鹿だ…あんたには国を変えるという大した目標があったんじゃねーのかよ。」
「今…それを遂行するさ。」
無理だ…今あんた自分でそう言ったじゃないか…
ロイの身体を掴もうと手を伸ばすが、後一歩が踏み出せない。
「全く、馬鹿な上司を持つと、部下が苦労するんですよ。」
エドの横をすっと通り過ぎ、ハボックがロイの片腕を掴み挙げる。
「ハボック!お前どうして…」
「司令官自ら前線に出られては困ります。」
「大佐の下の方が何かと面白いからな。」
「僕は他に行く所ないし…」
「状況から判断しても、ここにいた方が良さそうですから。」
ハボックを始めとする、ロイの部下すべてがそこに集まっている。
皆、ロイに敬礼をさっとかざし、穏やかに微笑んでいた。
「何をしている!皆アイザックと共に行動しろと命令したはずだ!」
「俺達は『赤い牙』じゃないんですよね?じゃ、アイザックさんと行動を共にする理由は無いじゃないですか。」
ハッとするロイの表情を楽しみながら、ハボックはタバコに火をつける。
「お供しますよ。どこまでも。それが俺達の使命ってモンです。」
「だが勝算は限りなく0に近い。」
「でも0ではない。そうだろ?ロイ。」
機関銃を片手に、土嚢の上に座ると、ヒューズがロイにウィンクをして見せた。
後ろにはアルも続いている。
「ヒューズ!お前には家族がいる!それに私の部下ではない!すぐにここから…」
「部下ではないが、親友だ。親友を置いてグレイシアのところに帰ったら、きっと彼女に軽蔑される。」
だから付き合うさ。最後まで。
土嚢の上に機関銃をセットすると、ハボックからタバコを一本貰い、同じ様に火をつける。
アルはエドの傍に立ち、その肩をぽんと叩いた。
「僕は兄さんと行動を共にする。兄さんがここに残りたいなら、僕もそうする。」
弟は静かに兄に諭すと、エドは踏み出せ無かった一歩をやっと前に出す事が出来た。
「俺…大佐の傍にいたい。」
「うん、そうだね。じゃ、僕もここに居る。」
「あんたは俺のものだ。だからどこまでも一緒にいる!」
エドの言葉に、ロイはもう何も答えなかった。
ただ黙って微笑みを返し、エドが伸ばした手に触れ、自分に引き寄せ抱きしめた。
「私の部下達は…皆大馬鹿者だ…」
「上司が上司ですからね〜類は友を呼ぶって言うじゃないですか。」
絶望的な空気の中、ロイの周りだけは時が止まったかのように穏やかだった。
だが一発の大砲の音でそれはかき消される。
ドォォン!
「来たぞ!」
「うへ、もうちょっと待っててくれてもいいじゃんか!」
皆それぞれの位置につき、迎え撃つ準備をする。
「いいいか、戦車は私と鋼のが引き受ける。後の者は私と鋼のを援護しろ!」
「Yes.sir!!」
ロイは発火布を身につけ、臨戦体制をとり、エドは両手をパンと合わせた。
ブラッドレイは本陣で、その成り行きを見守っている。
「ある程度追い詰めたら戦車隊は下がらせよ。」
「閣下!?それではマスタングを追い詰めても無駄になってしまいます!」
「それで良い。あまり追い詰めてはならぬ。でなければあやつは仲間の為に自ら命を絶つだろう。」
それではつまらんのだよ、将軍。
隻眼の瞳が妖しく光る。この方は一体何をお考えなのか…
マスタングを捕らえるおつもりなのか?どうもゲームを楽しんでいる様にしか思えない。
マスタングのその誇りと信念を弄ぶゲームを…
将軍は敬礼をかざしブラッドレイの前から下がっていく。
ブラッドレイは、土煙を上げ進軍していく戦車を楽しげな表情で見つめていた。
ブラッドレイは軍服の上着を脱ぐと、特別聖の革のベルトを身に付け、愛用のサーベルを装着する。
「この試練は…この私が見定めてやるとするか。」
さぁ…これが最後だ、マスタングよ。見事私の意に適う結果を出せるかな…?
最後に出発する戦車に、ブラッドレイは颯爽と乗り込んだ。
その表情は、戦地に赴くにはふさわしくない、近年稀に見る、満面の笑みを浮かべていた。
To be continues.