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ファーストキス強奪事件から時間が過ぎた。
けれど、は相変わらずショックから立ち直れていない様子で…。
は、一人で眠るには大きすぎるベッドの上で、シーツに包まり、相変わらずメソメソと泣いている。
そんなの様子を沢木は見守りながら思う。
ワンピースが皺になってしまうなぁ…と……。
ワンピースが皺になろうと、この際どうでもいい気がするが…。
と、そんな時。
「沢木さん…」
という、の声がした。
相変わらず、シーツの中に包まってうずくまっているので、くぐもった声だったけれど…。
「どうされました?」
の呼びかけに、沢木は優しく対応する。
「これから先…、あの人とキスとか…、その…、そういう事とか…しなきゃいけなくなるんですか…?」
不安そうには沢木に問う。
が言った『そういう事』とは、夜の相手の事だと、沢木はすぐに理解できる。
「キスも、夜のお相手も、あなたがいやなのであればしなくても構わない事ですよ」
沢木は優しい語調を変えずにそう答えた。
「政略結婚なのです。夫婦の折り合いを付けるのに時間がかかってもおかしくはありません。 ご結婚されて、夫婦として過ごすようになるまでに数年を要する夫婦も少なくはないのです。 ですから、あなたのようにお相手を拒絶しても、なんら問題はありません」
そう沢木は更に言葉を重ねる。
けれど、の不安は拭えないらしい。
「でも…、私がいやでも無理やりとかって…ありえるんでしょう…?」
不安げなの言葉に、沢木はきっぱりと答える。
「無理やりというのは、婚約していようと、夫婦だろうと、犯罪です。 それに、そのような事になる前に、私が体を張ってあなたをお守りしますので、ご安心ください」
にそっくりなを、巻き込んでしまった事に、沢木はひどく罪悪感を感じていた。
夫妻は、の弱みに付け込んでこのような事をやらせている。
彼の夫妻は、同じような方法で何人もの人間を操っていた。
かくいう自分も、そんな人間の一人なのだけれど…。
それは、この際どうでもいい事だ。
これから三ヶ月、どんな事が起ころうと、という少女を守る。
「どんな事をしても、守り通して見せますから……」
それは沢木の誓いだった。
彼の思いを言葉から汲み取る事が出来たはベッドからもそもそと起き上がる。
「ありがとう…沢木さん」
が沢木に視線を向けて、そう言葉をつむげば、沢木はにっこりと微笑んだ。
*
その夜の事。
は、リビングルームのソファーに座り、そこに据え付けられていたクッションを抱きしめながら、は一つため息。
腹の虫がグウと鳴いた。
「困りましたね……」
の腹の音が聞いた、の背後で待機している沢木が言う。
「お腹すいた…」
はそういうとがっくりとうなだれた。
事の発端は夕刻、夕食の時間だと、を使用人の女性が…清音ではない…呼び出しに来たときの事だった。
「お食事は、景吾様とご一緒に取っていただきます」
使用人の女性が、そう言った。
なぜなら、が一人で食べたいと言い出したからだ。
夕食が出来たので、ダイニングへくるようにと言われた時、は跡部の所在を聞いた。あの男も、一緒なのかと。
すると、はい という言葉がすぐに帰ってきて……。
は跡部が大嫌いで、顔をあわせるのもしたくないのだ。
一緒に食事など、冗談ではない。
だからは、食事は一人でしたいと言い出した訳だ。
しかし、返ってきた言葉はあまりに無常な一言で。
「景吾様とご一緒になさらないのであれば、今晩のご夕食は無しという事になりますけれど……それでもよろしいですか?」
それは跡部が指示した事に、間違いはなかった。
使用人の女性の無常な言葉に、は一瞬怯んだ。
一緒に食事をしないからといって、食事抜きだなんて…。
お前は『美女と野獣』の『ビースト』かよ!
は跡部に対して怒りを感じた。
実のところ、泣いていたせいでお腹は空き始めている。
だが、大嫌いなあの男の顔を見ながら食事なんてしたくない。
その二つがせめぎあい、結局嫌いな男と食事をしたくないと言う気持ちが勝ってしまったのだ。
おかげでは夕食抜きという状況になってしまった。
食事を抜くという事になれていない訳ではない。
叔母夫婦と暮らしていた時は食事抜きにされるなどしょっちゅうであったし……。
しかし、出物腫物所嫌わず。腹の虫は鳴いてしまうのだ。
お腹空いたな……と、は心の中でもう一度つぶやく。
やはり、嫌でも我慢して食事をして入ればよかったのかもしれない。
だが、あのセクハラヘンタイ男と一緒に食事なんて絶対嫌だ。
半ば、意地になっているだった。
その後、ぐうぐうと鳴るお腹は相変わらずで。
気を紛らわそうと、つけたテレビに食べ物でも映ろうものなら、口の中に唾液が溜まってしまう。
まだまだ、育ち盛りの16歳である。
この年頃は、特に食事量が多いので、余計に腹が空く。
が以前働いていた居酒屋は、大将や女将さんが優しい人だったおかげで、まかないを沢山食べさせてくれた。
更に、店の商品で残り物があれば――ない時でも、何処からか調達してくれて――沢山 に分けてくれて、朝食や昼食の代わりにしなさいと、そう言ってくれてもいた。
あの居酒屋で働いている限り、食いっ逸れる事がまずなかったのだ。
今日、久しぶりに、食いっ逸れた。
食事抜きに慣れてるとはいえ、それでも空腹は辛い。
は思わず大きなため息を吐く。
腹を空かせて腹の虫を大合唱させているの姿を見つめていた沢木は、今の状況を打破すべく動く事にする。
を守ると決めた以上、空腹からも守ってやらなければ……。
「お嬢様」
沢木がを呼ぶ。
その声に反応して、は彼の方を向いた。
「沢木は、休憩の時間ですので行って参ります」
に向けてそういうと、は、
「いってらっしゃい」
とにこりと笑って答えた。
「その時に、こっそり何か食べられそうな物を頂いてきますので、私が戻ってくるまでお待ちくださいね」
そんな沢木の言葉を聞いたとき、の瞳がキラキラと輝いたのは、見間違いではない。
思わず小さく笑みを浮かべ、沢木は踵を返して部屋を出ようとした。
と、その時。
軽いノックの音から、間髪入れずにドアが開く。
突然な事で、驚いた沢木が足を止める。
も、驚いた様子で部屋へ入ってきた侵入者を見やった。
部屋の中へ突然入って来た人物。
それは、この屋敷の主である跡部景吾。
その手には、雑穀パンで作られたサンドイッチや陶磁の器に入れられたスープの乗せられたトレイが。
あまりの驚きの展開に、のみならず沢木までも目が点。
「よぉ」
不敵な笑みを湛え、跡部は遠慮もせずにの座るソファーまでやってくる。
そして、の目の前のコーヒーテーブルに手にしていたトレイを置く。
更に、「失礼します」と清音も部屋へと入って来た。
彼女もその手に、ティーセットの乗せられたトレイを持っていた。
展開についてゆけず、は相変わらず呆然としたままで。
「腹空かせてんじゃねぇかと思って、わざわざ持ってきてやったんだぜ。優しい夫に感謝しろよ」
跡部はそう言いながら、当たり前のようにの隣にどっかりと腰を下ろす。
そこで、やっとは我に返る。
目の前には、おいしそうなサンドイッチ、スープ。
無意識に、口に溜まってきた唾液を飲み込む。
その様子を見て、跡部がクスリと笑った。
その笑いが聞え、ははっとなる。
なんで、跡部の前で食事をしなきゃならないのかと。
跡部の前で、食事をするのがいやで、夕食を一緒にとらなかったというのに……。
「どうした、食えよ」と、なかなか食事に手を出さないを見て跡部が言う。
は、じろりと鋭い眼差しを向ける。
と、その時。
ぐぅぅぅぅ。
という、音がの腹から豪快に鳴った。
の顔が更に朱く朱く染まる。
噴出して、大笑いする跡部の笑い声が、部屋いっぱいに響き渡り、は羞恥の極みにまで追い込まれた。
そして、ひとしきり笑い終えた跡部は「食えよ」とを見て言った。
「スープも紅茶も冷めちまうだろ?さっさと食え」
気が付けば、おそらく清音が注いだのであろう紅茶まで、湯気を立てていて。
お腹は空いた。
目の前にはおいしそうな食べ物。
まだまだ、育ち盛りで食べ盛りの。
食べたいとは思うが、跡部の前ではやっぱり食べたくない。
「……食べるから、出てってよ」
の言葉に、跡部は眉をピクリと跳ね上げた。
そして不愉快そうな視線をに向ける。
「なんで…、俺の前で食事したくないんだよ?」
「決まってるじゃない、あんたのことが嫌いだからよ」
跡部の問いに、は即答した。
すると跡部は少し悲しそうに眉をひそめる。
「…嫌われたもんだよな……。 自業自得だとは解ってるが…」
跡部はそう言うと、ソファーから立ち上がった。
そして、に視線を向けたまま更に言葉を重ねる。
「昼間の事は悪かったと思ってる…。 次からは冗談でもイキナリ無理やりってのはしない」
はそんな跡部の言葉を呆然と聴いていた。
まさか、彼がそんな風に謝るとは思ってもいなかったのだ。
呆然とするをよそに、跡部はそのまま部屋の外へと出て行ってしまう。
彼が部屋の外へ出れば、部屋に残るのは、と沢木、清音だけ。
と、そこへ清音が口を開いた。
「昼間の事は景吾様なりに反省してらっしゃるんです。 ですから、少しは挽回しようなさったんですよ」
は清音に視線を向ける。
だけではない、沢木も清音に視線を向けていた。
「…今晩の夕食は、景吾様がお作りになったんです。 ですから、景吾様は様と、ダイニングで一緒にお食事をなさりたかったんですよ……」
その話を聞いて、は跡部が何を考えていたのかが解り始めた。
跡部は、昼間の侘びに自分の作った手料理を振舞ってやりたかったんではないかと…。
自分が作った料理を目の前で食べてもらい、感想をもらう事は作り手としてはとてもうれしい事。
だって同じように思う。
そう考えると、自分は彼に酷い仕打ちをしてしまったのでは…?
「…もしかして、このサンドイッチもあの人が…?」
彼が持ってきたものだ。そうであっておかしくない。
すると清音はこくりと頷いた。
すべてを知ったがとる行動は、一つしかなかった。
「あの人が作った夕食、まだ残ってますか?」
は清音に向かって問う。
「残ってますけれど…、どうされるのですか?」
清音は少し困惑したようにに問い返す。
「それ、食べます」
はきっぱりと言い放った。
「でも…、冷めてしまってますし…」
「かまいません」
困ったように言う清音に、はそう言い放つ。
「…そちらのサンドイッチを食べてくださればそれで……」
「サンドイッチも食べます。 両方とも、食べてしまいたいんです」
せっかく跡部が作ったものだ。
への侘びの気持ちがこもっているというのなら、食べなければ彼の気持ちを踏みにじってしまう。
それだけは、の良心が許せない。
昼間のファーストキス強奪はいやな事だったけれど、彼はもう二度としないといってくれた。
すべての行動は、彼なりの気持ちの表れ。
それなら、意地になって許さないとか、そんな事言ってはいられない。
の気持ちは、清音に伝わったらしい。
「それでは、ダイニングのほうへいらしてください」
清音はそういうと、コーヒーテーブルの上にあるサンドイッチやスープといった先ほど持ってきた食事の乗ったトレイを手に取った。
それを沢木に渡して、ダイニングへお願いしますと頼むと、自分は紅茶セットの乗ったトレイを手に取る。
そして、三人して部屋から出て行き、ダイニングへと向かうのだった。
彼が作った夕食は、オムライスだった。
あの顔で、オムライスを作るなんて、ちょっぴり意外かも…。
ダイニングテーブルの上に置かれたオムライスを見て、は思わずくすりと笑った。
「一応、少しは暖めて持ってまいりました」
イスに座ったに、清音が言う。
それは、清音の優しい心遣いだった。
本当なら、出来立てが一番美味しいものの筈。
本当に、彼には申し訳ないことをしたな…と、は心の中で反省した。
「本当に、全部お一人で食べてしまわれるのですか?」
沢木が心配したように言う。
けれど、の意思は変わらない。
「大丈夫です。 こう見えて、私ってたくさん食べるんですよ」
はそう言って沢木ににっこりと笑いかけた。
そして、目の前にあるオムライスに手を伸ばすのだった。
しかし、有限実行とはいかなった。
いくら食べ盛り、育ち盛りのでも、胃の大きさには限度というものがある。
それは、当然のことだ。
「お嬢様、もう苦しいのでしたら食べるのをお止めになったら…」
の表情から、食べきれず苦しくなってきている事に気づいた沢木が言った。
「沢木さんの言うとおりですわ。 無理はなさらないでください、様」
清音も沢木と一緒になって言う。
けれど、が手も口も止める気配はなかった。
は、意地でも全て食べきるつもりでいたのだ。
沢木や清音の言葉に耳を貸さず、新しいサンドイッチに手を伸ばそうとしたその時だった。
「何やってんだよ」
突然そんな声がダイニングに響いた。
いったい、いつの間にそこにいたのだろうか。
ダイニングの入り口のドアが開いており、そこに跡部が立っていた。
「俺はお前にそんな事をさせる為に食事を作ったんじゃねぇぞ」
跡部はそう言いながら、ダイニング中央にいるの許へと近づいてくる。
「清音、全て下げろ」
そう清音に指示を出しながら。
清音はその言葉に従い、先ずは食べ残しのあるサンドイッチの皿に手をかけた。
「やだっ!」
はあわててそう言うと、サンドイッチの皿をその手で掴む。
しかし、そんな彼女の腕を跡部が掴んだ。
「くだらねぇ意地を張るんじゃねぇよ。 これ以上無理して食って、腹こわしたらどうすんだ?」
の手をサンドイッチの皿から引き離しながら、跡部が言う。
「だって…、だって…」
そう言う、の両の目から涙が溢れ出す。
跡部はそれを見て、ぎょっとなる。
なぜ泣き出したのか、理由がわからなかったから、余計に。
「な…、何で泣くんだよ…。腹が痛いのか?」
おろおろとなって、跡部はの肩に手を置く。
「…ごめんなさい……」
更にが泣きながら、そんな謝罪の言葉まで言うものだから、跡部は困惑してしまう。
謝られる理由も、跡部にはさっぱりわからないのだ。
「な…、なんで謝るんだよ…なぁ……」
おろおろとしている跡部をよそに、の涙は止まらない。
「せっかく作ってくれたのに…私…」
彼がせっかく作った夕食を美味しいうちに食べなかった事が、申し訳なくて。
だから、どんなに無理でも全て食べてしまう事が彼に対する誠意だと思った。
でも結局、食べきれなくて…。
は、情けなくて悔しいのだ。
「お前が、俺の気持ちをわかってくれた。それだけで、十分だから…泣くな……な?」
彼女が、こうやってダイニングで跡部の作った食事を食べている。
それは、彼女が跡部の気持ちを理解したからに他ならなくて。
だから、その気持ちだけで跡部は十分だったのだ。
「ごめんなさい…」
はもう一度謝罪の言葉を口にする。
「もういい、お前の気持ちも解ったから…な…?」
跡部はそんなの頭を優しくなでながら言った。
そんな彼の手の感触は酷く懐かしい感触で。
パパの手に似てる…。
は跡部の言葉に頷きながら、そんな事を心の中で思った。
その後、は跡部と共々、お互いの私室へと戻る事に。
としては、自分の食べたものの処理ぐらい、自分でやりたかった。
だが、食器を片付けようとしたら、清音に止められてしまった。
こういう仕事は全て清音や使用人のやる仕事だとそう言って。
申し訳ないとは思ったけれど、はダイニングの片づけを清音に任せてダイニングを後にしたというわけだ。
「お休み、」
「おやすみなさい……」
別れ際、そう挨拶を交わして二人は私室へと戻った。
*
「案外、悪い人じゃなさそうですね…、あの人…」
私室に戻り、ソファーに腰を落ち着けたがぽつりと言った。
「そうですね。芯は優しい方なのでしょう。 ですが、だからと言って、あまり心を近づけないほうがよいと思います」
の言葉に沢木がそう言葉を返す。
その言葉の意図に、はすぐさま気がついた。
「親しくなればなるほど、お別れが辛くなります……。 辛い思いをするのは、あなたなのですから……」
沢木のその言葉に、は自分の立場を再び思い出す。
自分は、として存在しているわけではない。
ここではとして存在しているのだ。
はの替え玉でしかなく、役目が終われば彼の前からいなくなる。
下手に親しくなってしまえば、別れが辛くなる。それどころか、彼を騙している事すらも辛くなるだろう。
けれど、にはという大切な存在がいる。を救うために、替え玉の仕事を遣り通さなければならないのだ。
替え玉の仕事を遣り通せば、の臍帯血移植が実現する。を救う事が出来る。
「解ってます」
は頷いた。
自分が考えるべき事とは、替え玉の仕事を遣り通すこと。
のために……。
一方、跡部は、自分の心の奇妙な変化に戸惑っていた。
女の涙でうろたえた事なんてなかったのに……。
過去、女性をとっかえひっかえ遊んでいたころ、女性に泣かれる事などしょっちゅうだった。
しかし、跡部がうろたえた事など一度たりもない。
そのまま無視して放置したり、ウザイと一蹴したり、冷たくあしらっていたのだが……。
ところが、彼女の涙を見るとなぜかうろたえてしまう。
泣き顔を見ると、心の奥がざわめいてしまうのだ。
ファーストキスを奪ったあの時も、彼女が無理に夕食を食べようとしていたあの時も……。
泣いた顔よりも、笑顔が見たい。
なぜだかそう思ってしまう。
だから跡部は、彼女に食事を振舞おうと思ったのだ。
自分の作ったもので、彼女に笑顔になって欲しいと、そんな事を考えて。
それも、跡部の心の変化。
この時、跡部に芽生えたそれがいったい何なのか、知ることになるのは、それからまもなくだった。
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