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次の日の朝は、どんより曇り空。
まだまだ青空まで遠いのかもしれない。
天蓋つきの程好くスプリングの効いたベッドで、柔らかくふかふかの布団に包まれて眠ったは、熟睡中の熟睡で。
けれど、体内時計のおかげで、いつも目が覚める時間ぴったりの起床だった。
外は明るいものの、それでもまだまだ早朝。
ベッドから起きだしながら、はこれからどうしようかと考える。
せっかく早起きしたというのに、このままベッドにごろごろと、だらけたくはない。
と、はふと思いつく。
朝食を作ればいいのだと。
昨晩は一緒に食事をせず、せっかく彼が作ってくれた食事を一番美味しいときに食べてやれなかった。
冷めてしまったオムライスと、その後気を使って作ってくれたサンドイッチを無理して食べようとしたけれど、結局食べきれず…。
跡部はもういいと言ってくれたけれど、やはり少し良心が疼く。
なら、侘びと礼をかねて朝食を振舞えばいい。
よくよく考えれば、侘びの言葉は言ったけれど、礼の言葉は言ってない。
朝食を振舞ってその言葉を言えばいい。
このくらいは、礼儀としてしなければならないだろう。
はそう思った。
そしては、ベッドから抜け出す。
かけられていた天蓋をまとめ、乱れたベッドを綺麗にする。
そして、窓にかかるカーテンを開け放ってから、ベッドルームからプライベートルームへ移動する。
プライベートルームからしか、洗面台のあるバスルームへはいけないからだ。
そして、はバスルームへと消えてゆくのだった。
朝の身支度を終えたは、キッチンへと向かう事にする。
キッチンは、ダイニングの隣だ。
すぐに解った。
「まぁ、様」
キッチンへとやってきた彼女を見て、清音は驚いたような声を上げた。
清音のほかにもキッチンには二人ほど人がいた。
中年の男性が。
その格好から、二人がシェフであるとは思った。
「おはようございます…」
はそういうと、三人に向けて深々と頭を下げた。
「おはようございます」
清音とシェフたちが頭を下げて言葉を返してくる。
「どうか、なさいまして?」
そう清音は言葉を紡いだが、彼女が何のためにここへやって来たのかはなんとなく察しがついていた。
「……あの…朝食を作りにと…、思ったんですけど……。 でも、来るのが遅かったですね……」
シェフたちの手元にある、朝食の材料を目にして、はいった。
清音は彼女の言葉を聞いて、やはり…と思う。
出会ってたった一日。…一日といっても、二十四時間にも満たないのだけれど…。
それでも、彼女がどれほど真面目な人間であるかは解った。
解りやすい人柄なのだ。
だから、昨晩の侘びと礼をかねて何か朝食でも作ろうと考える可能性は高かった。
しかし、せっかくながら、朝食のメニューはとっくに決まっていて、シェフたちがもう取り掛かってしまっている。
けれど、まだ手付かずのものもあった。
折角、こうやってやってきてくれたのだ。それを頼んでもいいだろう。
清音はそう考えると、彼女に向けて言っう。
「朝食のしたくは、シェフたちが取り掛かってしまいました。けれど、もうひとつ景吾様にして差し上げなければいけない事がございます。 様には、それをお願いしてもよろしいでしょうか…?」
清音の言うその内容に、彼女はうれしそうに「はい!」と頷いた。
清音の脳裏に、うれしそうな顔をする跡部の顔が浮かぶ。
跡部が生まれて26年間、清音は彼の成長を見続けていた。
多忙な両親に成り代わり、清音が跡部の面倒を見ていたのだ。
だから清音が一番跡部について理解している。
跡部がまだ気づいていないその感情に、いち早く気づいていた。
だから清音は彼女にそれを頼むのだ。
これで、景吾坊ちゃまのお気持ちが進展するのは間違いなしですわ。
そう思いながら…。
たとえ、政略結婚でも、一緒に暮らすうちに恋心が芽生え愛し合う事もある。
昨日の跡部と彼女の様子を見れば、そうなってもおかしくない兆しを清音は感じた。
その兆しを育てることが出来たならば、たとえいやいやながらの始まりでも、末は幸せになれる。
幼いころから見守り続けた、息子のような存在である跡部には、幸せになってもらいたい清音。
そうならば、自分がするべき事はひとつ。
二人の関係をより近づかせる事。
この事は、そのきっかけに丁度いい。
そんな清音の思惑なぞ、彼女はまったく知らない。
ただ、その役目をもらえた事がうれしかった。
これで、昨日の侘びと礼になる。
ただ、そうとだけしか、考えていなかった。
当たり前だろう。
彼女は、の替え玉で。
跡部と心を通わせるつもりなど、微塵もない。
そうあってはならないのだから…。
清音から役目をもらったものの、それを実行するのは跡部が仕事に出かけた後。
はいったん私室へ戻る事にした。
キッチンから私室へ戻る途中、沢木と出会い合流した。
私室に戻った後、からその話を聞いた沢木は少しだけ眉をしかめた。
その理由を、はすぐに察する事が出来る。
「大丈夫ですよ、沢木さん。彼に近づくつもりはありません。 ただ、昨日のことがあったし……。 だから、そうするのは、そのお詫びとお礼。それだけです」
跡部と親しくなってはならない。
それは、昨日の夜 と沢木が確認しあったことだった。
彼に心を近づけたりなどしない。
のために替え玉の仕事を成功させればいいのだから……。
ただ、昨日の事があって、その侘びと礼をするだけ。
ただ、それだけ。
絶対に、それ以上の感情は持たない。
そうが強く念を押せば、沢木も納得したようで。
「解りました…」
と、頷いた。
*
それから時間が過ぎ、朝食の時間となる。
私室へと清音が朝食が出来たという連絡へやってきたので、はダイニングへ向かう事にした。
折角、シェフの二人が朝早くに仕込んでくれた朝食だ。
美味しいうちに食べなければ申し訳ない。
昨日の事も手伝って、は跡部とともに朝食をとる事に、抵抗する事はなかった。
跡部は先にダイニングに到着していたらしい。
仕事に出勤する為だろう。
糊の効いたワイシャツにスラックスという井出達で、椅子に座っている。
「おはよう」
「おはようございます」
互いに目を合わせたとたん挨拶を交わす。
「おはようございます、皆さん」
更にはダイニングにいた清音をはじめとする使用人たちにも頭を下げて挨拶をした。
「おはようございます、様」
と、清音や使用人たちがに頭を下げた。
そういえば、清音と挨拶を交わすのはこれで二回目だなと、心の中だけでは笑った。
それからまもなく、朝食がダイニングに運ばれ、テーブルに並べられてゆく。
白いご飯に味噌汁、焼き魚、ほうれん草の白和えが目の前に並ぶ。
朝からずいぶんと豪勢だ。
これから先、三ヶ月はこんな食事にありつける。
そう考えると、少しだけ、うれしい気がした。
ほんの少しだけ…だけれど…。
朝食が始まったものの、二人は挨拶を交わした以来、まったく会話がなくなってしまった。
それもそうだろう。
二人が会話をするには、話題がない。
昨日であって、少しだけいざこざがあって…。
そんな状況で、まともな話題がある筈がないのだ。
「よく眠れたか?」
と、途中に食事の手を止めて、跡部がそんな事を問う。
「え…? あ、うん」
は少し戸惑いつつも正直に頷く。
「そうか……」
跡部はそう一言だけ言うと、再び食事に戻る。
そして、また沈黙してしまう二人。
とても静かな朝食の時間だった。
結局、二人はその後一言も交わす事もなく朝食を終えて、互いの私室へと戻る事に。跡部は清音を引き連れて、は沢木を引き連れて…。
私室に戻った跡部は、ソファーに座ると、何故か大きなため息を吐いた。
そのため息の理由は、おそらく、朝食のときに彼女とほとんど会話を交わせなかった事だ。
けれど、彼女と会話を交わせなかったからといって、なぜため息を吐くのか、自分の行動の理由が見出せない。
ただ、黙ったまま、食事をする彼女の顔を盗み見るしか出来なかった事が、酷く歯がゆくて。
けれど、なぜ歯がゆくなるのかが、どうしても解らない。
それも、昨日と同様 跡部に起こった変化のひとつ。
そんな跡部の様子を見て、清音は小さく笑う。
微笑ましい様子だと、そう思いながら……。
一方のは、そういえばあの事を彼に伝えていないなと気づいた。
あの事とは、清音から頼まれた事。
朝食のときに言っておくべきだったと、少しだけ思った。
けれど、何も言わないままでいても、問題はないだろう。
実は自分がやったんだと、後で言えばいいだけのこと。
それはにとって、ただの礼と侘びだった。
けれどその事が、跡部にどれほどの影響をもたらすのか、はまったく知らなかった。
*
時間が過ぎ、跡部は出勤したことを沢木が伝えてくれた。
は跡部を見送る事はしなかった。
、親しくなるのはあまり得策ではないと考えたからだ。
昨日の礼と侘びは、別の方法で示すのだし、必要ないだろう。
だから、は跡部を見送らなかったのだ。
「沢木さん、これからどうしてればいいんですか?」
私室で手持ち無沙汰になったは、沢木に問う。
清音に申し付かった役目を全うするにはまだ早い時間だった事もあり、のやるべき事は、今の時点で何もない。
だから、は問うたのだ。
「お好きなように、お過ごしください。読書をされるもよし、今は幸い雨も降っておりませんので、お庭のアジサイを眺めにお散歩されてもかまいませんよ」
沢木はそう答えた。
が、は何故だか困ったように眉をしかめた。
「それって、適当に遊んでろって…そういう事ですか?」
の言葉に、沢木は一瞬言葉を詰まらせたが、「そうです」と頷く。
しかし、適当に遊ぶという事に、はどうも抵抗があった。
「あの、じゃ、この部屋の掃除とか…、してもいいですか?」
自分の部屋の掃除をするほうが、抵抗を感じない。
けれど、沢木は渋い顔で。
「部屋のお掃除は、係の者がやるようになっていますし……」
そういって、の申し出を退けようとする。
しかし、は引き下がらない。
「係の人には、この部屋は私が掃除をするから、その分 休んでてくださいってお話しますから。ね、いいでしょ?」
そういって、沢木に懇願してくる。
遊ぶ事より、働く事を優先するのは、彼女の性分なのだろう。
沢木は仕方なく、わかりましたと頷いた。
結局、部屋の掃除係には沢木が、の意向を伝えに行く事に。
はうれしそうに鼻歌を歌いながら、自分の部屋の掃除を始めるのだった。
そして、部屋の掃除が終わった頃には、桜花がその仕事に取り掛かるのにちょうどいい時間で。
は、気合を入れてキッチンへと向かう。
沢木もその後についてゆくのだった。
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