その日の昼食は、いつもと違う。
跡部は、目の前に広がる見慣れた弁当箱を見つめながら思った。
跡部の昼食は、大抵がお抱えシェフの作った弁当だ。
昼食の時間帯に、清音がいつも会社の社長室へ運んでくる。
それは学生時代からやっていることで。
もちろん、外食をしないというわけではないのだが、お抱えシェフの作る食事のほうが、口になじんでいるので、好んでいるのだ。
それなのに…。
今日の弁当は口に馴染んだその味とはまったく違う。
別に、不味いとは感じない。
美味いと感じる味だった。
けれど、これはいつものシェフが作ったものではない。
では、一体誰が作ったものなのか?
「今日のお弁当は様お手製ですのよ」
跡部の心中を察したのだろう。
社長室の隅で控えていた清音が言った。
「…が……?」
跡部は思わず、そう言葉を返す。
「ええ、昨晩のお礼…なんでしょうね」
清音は、にこりと笑って答えた。
跡部は、手元の弁当に視線をめぐらせる。
中に入っているものは、和食中心のスタンダードなもの。
これを作ったのが、あの少女。
なぜだか、その事が嬉しくなってくる。
自分のために、作ってくれたもの。
彼女が、俺のために……。
そう思ったとたん、跡部の箸を持つ手は軽やかに動き出した。
わき目も振らずに一心不乱に、跡部はその弁当に集中する。
そんな彼の様子を、清音は微笑ましげに見つめるのだった。
跡部は彼女の作った弁当を綺麗に平らげた。
「お味はいかがでした?」
弁当を片付けながら、清音が跡部に問いかける。
けれど、跡部は答えなかった。
「本人に直接言う」
そう言って……。
*
それから、時間は過ぎ…。
跡部が帰宅したのは、夜のずいぶん遅い時間。
それもそうだろう。
跡部の会社でプロジェクトが一つ動いており、それを三ヵ月後の結婚式の前までに終わらせなければならなかったからだ。
おかげで跡部は、朝出勤すると帰ってくるのは夜中の生活なのだ。
夜12時過ぎとなれば、彼女は眠っているだろう。
昼食の礼も感想も、明日の朝に伝えるしかない。
そう考えはしたものの、もしも彼女が今の時間でも起きているようなら、伝えたいと、そう考えた跡部は、帰宅したそのままの足で、彼女の部屋の前へ立った。
ドアを二度ほどノックすると、ドアの向こうから、男の…沢木の声で返答が帰ってくる。
「俺だ」
そういってすぐに、跡部はドアを開けた。
すると目の前には、沢木の姿が。
まるで、ここから先は通さないといわんばかりな立ちはだかり方で。
「は? もう、寝てるのか?」
「はい、もうお休みになられております。ですから、ご用件ならば、明日で……」
跡部の言葉に、沢木はそう答えた。
やはり…と、そう思い、部屋を出ようと考えた跡部だったが、何故だか気が変わった。
一目でも、彼女の顔を見てみたいと、そう思ったからだ。
何故、自分の脳裏にそんな考えが浮かんだのか、解らなかったのだが…。
そう考えた跡部は、彼女の私室の中へと足を一歩踏み出す。
すると沢木が、焦ったように声をかけてくる。
「景吾様、お嬢様はもうお休みで…」
先ほどと同じ言葉を沢木は言う。
「同じ事を二度も言うな。 寝顔を見るくらい、かまわねぇだろ」
跡部は沢木を睨みそう言い放つ。
「で…ですが……」
沢木は、跡部を通したくない様子で。
その理由に、跡部はすぐさま気づいた。
跡部が彼女に何かするのではないか?と、それを心配しているのだと。
夫婦となる間柄の二人であるのに、そんな心配をする沢木の過保護さには、ずいぶん考えものだが、しかし、幼い頃から可愛がっていたお嬢様となれば、そのくらい過保護になっても仕方がないのだろう。
何より、彼女はずいぶんと初心で純情であるようだし…。
跡部はふっと笑みを浮かべて沢木に言う。
「安心しろ、寝込みを襲うような真似はしねぇよ。 そんなに心配だったら、ついて来い。 俺が何かおかしな行動するようなら、後ろから蹴るなり殴るなり好きにしていいぜ」
そう言ってやれば、沢木も多少安心するとそう思ったのだ。
そして、跡部は沢木の隣をすり抜けて、部屋の奥にあるベッドルームへと向かうのだった。
ベッドルームへのドアを開けば、その先は真っ暗闇。
ベッドランプすらついていない様子で。
「真っ暗でないと、落ち着かれないそうなので…」
沢木が跡部の後ろへやってきて、そう説明をする。
しかし、こんな状況では、彼女の寝顔は拝めない。
とはいえ、部屋の明かりをつけては、安眠妨害にもなってしまいそうだ。
仕方なく、跡部はベッドルームとプライベートルームをつなぐドアを開けたままでいることで、明かりを確保する事にした。
そして、ベッドにかかる天蓋を開き、彼女の様子を伺う。
けれど、少々 光源が足らないらしく、彼女の寝顔は見えない。
どうしたものかと悩んだが、ベッドサイドにあるベッドランプをともす事にする。
普通に部屋に明かりをつけるより、ベッドランプのほうが明るさはない上に、それでも彼女の顔を見る事は出来る。
そう考えて、とった行動だった。
オレンジ色の明かりの中に、眠る彼女の姿が見える。
ベッドの隅に眠っている彼女のその寝顔は、やはりあどけなさを隠せない。
規則正しい寝息が、彼女の眠りの深さを物語っている。
彼女吐息がこぼれる唇。
やわらかく甘い果実のような……。
跡部は無意識に喉を鳴らして唾液を飲み込こんだ。
そして、ベッドに片腕を付き、彼女に向けて体を倒し始める。
そんな跡部の動きに、沢木は慌てた。
寝こみを襲わないと、彼は言ったはずなのに……。
「っけ…、景吾様っ、何を…っ!」
沢木はそう声をかけながら、跡部の両肩をつかんだ。
すると、跡部は はっとしたように、肩を震わせる。
そして、すぐに体を起こし、ベッドランプの明かりを消すと、何も言わずにベッドルームから去っていってしまった。
足早に……。
取り残された沢木は、彼の行動に、困惑を隠せなかった。
しかし、それはベッドルームから、そして、プライベートルームから外へ出かけた跡部も同じだった。
寝こみを襲う事はしない、彼女には無理やりそういう行為には及ばない。
言った事は実行する自分だった。
なのに、眠る彼女の…、その唇を目にしたとたん、その甘い果実に魅入られた。
沢木に引きとどめられて意識を取り戻したが、その果実に触れようとしたのは、ほとんど無意識の行動だった。
跡部は、足早に廊下を挟んで向こう側にある自分の部屋へと移動する。
ドアを開ければ、清音が跡部を迎える。
「景吾様、お風呂の準備が……、あらあら?」
清音は跡部の顔を見たとたん。くすりと笑う。
「……なんだよ…」
そんな清音の表情が気に入らず、跡部はむっとしたような顔をする。
「お顔が朱いですわよ」
跡部の表情など気にもせず、清音はその言葉を口にした。
「んなっ」
跡部は思わず絶句する。
実は、自覚症状があったのだ。
自分の頬が酷く暑くなっている事に、跡部は気づいていた。
その理由は間違いなく先ほどの一件に他ならない。
「気のせいに決まってるだろうがっ! 俺は風呂に入るっ!」
跡部は大きな声でそう言い放つと、バスルームへと消えてゆく。
そんな跡部の背中を見つめながら、清音はくすくすと笑った。
そして、一通り笑い終えた清音は、いったん跡部の私室を後にする為、廊下へつながるドアを開けた。
入浴後のお茶の用意をしなければならないからだ。
すると、丁度向かいの部屋から沢木が出てきて鉢合わせた。
沢木は、ずいぶんと複雑そうな表情をしている。
その様子が気になって、清音は彼に声をかけた。
「浮かない顔ですわね、どうかなさいまして?」
清音にそう声をかけられて、沢木は彼女の存在に気づいたらしい。
その視線を清音に向けた。
「あ…いえ、なんでも…」
そうは答えたものの、彼女にうそが通用するとは思えなかった。
「可愛がっていたお嬢様を、景吾坊ちゃまにとられるのがそんなにお嫌?」
清音は揶揄めいた言葉を紡ぐ。
事実を知らない清音からすれば、沢木のその複雑な表情の理由は、そうとらえられて当然の事だった。
沢木が複雑な表情である理由は、跡部のあの不可解な行動が何を意味するのか、解ってしまったからなのだが…。
「……ええ、実を言うと…そうなんです…。 幼い頃から、お嬢様の成長を見守っておりましたから……」
沢木は、そう言って全てをごまかした。
清音には、過保護な父親代わりの使用人だと思われているほうがいい。
いや、この屋敷の誰にも、自分はお嬢様を溺愛する、過保護な保護者だと思われるほうが、都合がいい。
そのほうが、跡部が彼女に夜の相手をと望んだときに妨害してもおかしくないと思われるからだ。
「ご安心なさいませ。 景吾坊ちゃまは様を大事してくださいますわよ」
沢木の思惑になど気付かず、清音は安心させるような口調で言う。
「景吾坊ちゃまのお心は、様に傾き始めていらっしゃいます。 恋に落ちるのも、時間の問題。 自分を愛してくださる殿方と暮らす事が、女として一番の幸せといいますし…。 大丈夫ですわ、この清音が保障いたします。景吾様を育てたこの私が…」
にこりと笑い、清音が言う。
「そう…だといいのですが…」
沢木はそう言葉を濁す。
「心配性ですのね、沢木さんは。 でも、これからのお二人を見守ってゆけば、その心配もなくなりますわ」
清音はそういうと、仕事がありますので…と、沢木に一礼すると、キッチンへ通じる方向へと身を翻して歩き去ってゆく。
そんな清音の後姿を見て、沢木は複雑なため息をひとつ。
困った事になってしまった…。
沢木は思った。
清音の言葉は、先ほど跡部がとった行動の理由を、確定してしまった。
跡部がに恋心を抱きつつある。
しかしそうなって、困るのはだ。
下手をすれば、が傷付く羽目になる。
どんなに一方的でも、愛情というものを注がれれば、その愛に傾いてしまう可能性がある。
殊に、恋愛、男女関係に疎そうなの事だ。
跡部のような、おそらく男女関係の駆け引きに慣れているであろう男性に、想いを傾けられたらどうなるか……。
間違いなく、彼女も恋に落ちる。
そうなれば、苦しむのは。
それだけは阻止しなければならない。
跡部に芽生えた恋心を摘み取る事は出来ないだろうが、に恋心を芽生えさせなければいい。
明日の朝にでも、その事をと話し合わなければ…。
を、巻き込んだのは自分だ。
だから、どんな事をしても彼女を守るのが自分の勤めだ。
沢木はそう決意すると、廊下を歩き出す。
使用人宿舎のある方向へと…。
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