大学を卒業してから1年間、父親の部下として働いた後、祖父から会社を一つ任せるという話が来て、年度の始まりを機にその会社の社長に就任した。
俺は社長としての職務を果たしながら、日々を過ごしている。

季節は、春。
ある日の事だった。
それは、朝の出勤のときの事。
会社ビルの入り口ホールを部下達と歩いていた俺の視界の隅に、一人の女の姿が映った。
清掃員の制服を着た女。
年頃は…俺とそう変わらないくらいでは無いだろうか。
社員で居てもおかしくない年頃の女だった。
清掃員になる奴らは、大抵 中年女性が多い。
別に年齢制限をしている訳ではない。
パートタイマーである事や力仕事で汚れたものを扱う事の多いものであるから、歳若い女は働こうとはしないらしい。
だから、気になったのだと思う。
フロアに飾られた観葉植物に水を与えている姿を、何気なしに眺めやる。
向こうは仕事に集中しているようで、俺が見ている事など気付きもしていなかったが……。
遠目で見た感じでは、見目は悪くは無い。
体躯も細く小さく、可愛らしい部類の顔の女だった。
「どうされましたか、社長?」
不意に、秘書の女に声をかけられる。
「別になんでもない」と俺は女を見ていたなどと悟られぬようそう言葉を返し、ホールを後にした。

そして一日が終わり、俺は一人住まいのマンションに戻る。
帰り着いた時間は日付の変わる直前。
当然メイドは帰宅した後。
誰も居ない真っ暗な部屋。
一人きりの夜。
いつも通り、シャワーを浴びて寝巻きに着替え、寝室へと向かう。
ベッドに入り、瞼を閉じたその時だった。
瞼の裏に、今朝見た清掃員の女の姿が何故か映る。
俺は驚いて瞼を開く。
なんだったんだ……?
もう一度、瞼を閉じてみたが、あの女の姿は映らなかった。
なんだかよく解らないし、深く考えてもしょうがないと思った俺は、その事を忘れて眠る事に専念する。
今日は、いつもより早めの睡魔の来訪のようだ。
間もなく俺は眠りへと落ちて行った。

 

会社ビルの入り口ホールで、あの女を見かけてから数日が過ぎた。
その間、何故か時々あの女の姿が脳裏に浮かぶ。
本当に、理由が解らない。
何故、あの女の姿が脳裏に鮮明に残っているのかが……。

それはその日の、午後の事だった。
偶然、スケジュールに穴が開き、何も無い時間をもてあましていた時の事。
いつもなら、社長室でパソコン内の企業成績やらを眺めてこれから先の思案を巡らせているのだが、今日は違った。
なんとなく、一人で社内を歩いてみたい気分になったのだ。

 

今思えば……。
この時、そんな気を起こしていなければ、あの瞬間を目にする事はなかったかもしれない。
それこそが、俺が今まで信じる事のなかった縁というものを信じれるようになった理由だった。

 

エレベーターで、階下へと降りながらフロアを見て回る。
なんの代わり映えのしない会社の風景だった。
そして、そろそろ社長室へと戻ろうかと、廊下を歩いている時。
その瞬間は訪れた。
俺の向かう進行方向から、清掃員の女が歩いてくる。
一目でわかった。
以前、入り口ホールで見かけた女だと。
女は、俺を見て軽く会釈をし、俺の横を通り過ぎてゆく。
同年の女なら、香水だなんだと身に付けてもおかしくないというのに。
そんな匂いは全くしない。
彼女の残り香は、甘いミルクのような香だった。
俺は振り返り、歩き去ってゆく女の後姿を見やる。
女は何も気付かず、廊下の突き当たりにある休憩室へと姿を消した。

なんとなく、気になった。
遠目に見かけただけだったと言うのに、しつこく俺の脳裏に残っていた女。
他の女達とはどこか違う香を纏った女。
俺の足は、自然と休憩室へと向かって動き出していた。

休憩室のドアには中の様子が伺えるように開く事の無い小さなガラス窓が付いている。
俺はそれから中を覗き込んだ。
休憩室の中で、女はソファーに座り携帯電話を弄っている。
やはり、そういう所は若い女らしい。
メールでもチェックしているのだろう、携帯の表示板を見詰めている。
不意に、女の顔に笑みが浮かぶ。

優しい笑顔。

ちゃちな言い方かもしれないが、そうしか言いようのない笑顔。
柔らかく微笑む女。
女は、笑みを浮かべたまま、携帯電話を弄っては眺め弄っては眺めを繰り返している。
何故だが、その顔をずっと見ていたいと…そう思った。
しかし俺は、そこで我に戻る。
こんな所を社員に見られたら、どう思われるのだろう。
幸い、今の時間は勤務時間である事もあって、廊下に人の気配はなかったが……。
俺は休憩室の中にいる彼女に悟られないよう、気配を殺してドアから離れる。
そして、平静を保ったまま、休憩室から…それがあるフロアから離れて行った。

 

 

その時間帯は、彼女の休憩時間であるらしい。
あの日以来、俺は暇を見つけては彼女を見かけたフロアの休憩室を覗き込んでいた。
時々、すれ違う事もある。
彼女の残り香は、やはり甘いミルクのような香だった。
彼女は同じ時間に其処にいて……時折いない時もあるが……微笑みながら携帯電話を見詰めている。
俺は、その姿をそっと見詰めるのだった。

バカみたいな事をしていると、自覚はある。
でも、あの笑顔が忘れられない。
あの笑顔を見ていたい。
ずっとずっと、あの笑顔を見続けていたい。
そんな感情を自覚した時、俺はそれの意味を理解した。

 

それが解るや否や、俺は彼女の素性を探り始める。
社長という立場を利用して…公私混同だが…気にも止まらなかった。
彼女の事を知りたい。
その気持ちだけが、俺を動かしていた。

会社の労働者名簿の中に、彼女の名を見つけるのは簡単だった。
名前は『』。
歳は…27。
俺よりも年上なのか。
童顔なんだな…。
更に、彼女の事を調べた。
すると、意外な事実を知る。
彼女には3歳の娘がいるらしい。
名前は、
10月4日産まれ。
俺と同じ誕生日だな……。
しかし、結婚歴は無い。
未婚の母というものらしい。
そこで、気付いた。
彼女が何故、清掃員という仕事についているのか。
母子家庭で幼い娘を抱えている彼女に、いつ残業になるかわからない社員の仕事は向かない。
清掃員ならば決まった時間に帰宅でき、更に時間の自由も効く。
だから彼女は清掃員という職に付いたのだろう。
そんな彼女の事情を知っても、俺の気持ちは変わらなかった。

 

日に日に、思いが募る。
彼女に悟られぬように笑顔を見ているだけでは飽き足らない。
あの笑顔を、間近で見たい。
俺の隣で笑っていて欲しい。
俺に笑いかけて欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺に芽生えた彼女への感情。
愛しい。
まさにその言葉そのもの。
愛しい。
言葉一つかわした事も無いというのに。
愛しい。
ただ、遠くからその姿を見詰めているだけだというのに。

……。
………愛してる………。







back/next

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル