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とを遊園地に連れて行った日から暫くしたの事。
久しぶりに家族が実家に集まった。
両親と祖父、そして俺の4人、リビングルームでティータイム。
数年前までは祖母も居たが、大病を患って他界した。
実は、その日はその祖母の命日で。
だから、こうしていつもならば離れ離れの家族が一堂に会しているという訳だ。
談話をしながら紅茶を飲むのは、紅茶好きだった祖母を偲ぶ為のものだ。
その談話のなかで、祖父が俺の一番嫌う話題を持ち出してきた。
「…景吾、そろそろお前も身を固めたらどうだ? この前、遠縁の…あの小父が良い縁談を持ってきてくれたんだが……」
祖父が俺に視線を向けて言う。
遠縁のあの小父…。
いつも俺に縁談を持ち掛けてくるあの腐れ狸か……。
「お断りします」
俺は静かに言い放った。
「跡部の跡継ぎが何時までも遊んでいてもらっても困る。再来週の末ごろ、うちの傘下企業が創立記念のパーティを開く。その日に相手の方と顔合わせをするようになっている。そのまま、その相手と縁談を進めるつもりで居るから、お前も腹をくくれ」
祖父の言葉に、俺は思わず絶句する。
「ちょっと…まってください!」と、そう言ったのは母だった。
「お父様、それはあまりに一方的過ぎます!少しくらいは猶予を……」
「そうですよ、父さん!いくら景吾が結婚したがらないからって、そんな無理やりな縁談を進めなくとも……」
母と父がそう祖父を非難するように言う。
「お前達がそうやって甘やかすから、景吾は何時までもふらふらしているのだ!解らんのか!!」
祖父が、雷のような声で俺の両親を一喝する。
両親は二人そろって身を縮こませた。
いつも、そうだ。
両親はとことん俺に甘く、祖父はとことん俺に厳しい。
まぁ、祖父まで甘ければ、俺が今こんな人間に育っている訳ではないのだが……。
それを考えると、厳しい祖父とはいえど、感謝はしている。
だが…、流石にこれは……。
「お爺様、そのお話はなかった事にしてください」
俺は祖父の視線を見つめ返して言う。
「ならん。これは決めた事だ」
祖父はそれでも引く気はないらしい。
俺は更に言葉をつむぐ。
「結婚を前提に、お付き合いしている女性が居るんです」
俺のその言葉に、両親は目を見開き、祖父はほぉと声を上げた。
……半分は嘘。
俺に結婚の意思はあるが、向こうには皆無だろうし、付き合っている訳でもない。
だが、そのうちそうなる予定ではあるし…。
だから、半分だけが嘘となる。
いずれは全て本物にするつもりだが……。
「そんな話…きいてないぞ、景吾?」
父が驚いたように問うてくる。
「すみません…。彼女の事情が事情なだけに、なかなか言い出せなくて……」
俺のその言葉に「事情って?」と母が小首をかしげて問うてくる。
「彼女は、3歳の娘が居るシングルマザー…未婚の母親なんです」
それを聞いた両親の表情が凍りつく。
いつかは話すつもりでは居た。
だから、この様な反応をされるのは覚悟していたが……。
真っ先に、祖父が反対するに違いないだろうな……。
ところが、俺の予想は裏切られた。
父母は、言葉に困ったようで口を噤み、祖父は黙ったまま俺の眼をじっと見詰めている。
「本当にその女性と添い遂げるつもりで居るのか?」
祖父は静かに俺に問う。
「はい」と俺はしっかりとした口調で答える。
祖父は再び俺の眼を見詰めた。
「相手の女性の人生だけでなく、その娘子の人生までも、お前が背負わなければならなくなる事も…解っているのだな?」
「もちろん、解っています」
お互い、視線を逸らす事無く言葉を交し合う。
両親はおろおろと俺と祖父のやり取りを眺めるばかり。
「何処かの莫迦息子のように、不義を働くような事もないか?」
「ありえません」
そんな会話を聞いて、間違いなく父は渋い顔をしただろう。―――俺がまだ幼い頃、父は浮気をした事があるのだ―――
祖父と視線を交えているので、父の表情を垣間見る事は出来ないが……。
「その言葉に……二言は無いな?」
「ありません」
祖父の言葉に、即答して見せる俺。
祖父は暫くの間何も言わずに俺の眼を見詰めていた。
俺も、祖父から視線を逸らす事をしない。
不意に、祖父が瞼を伏せる。
そして、言う。
「好きに、望むとおりにするがいい」
祖父が一番、反対すると思っていた。
だが、祖父は反対する事もなく…。
俺の気持ちを確かめただけで。
驚くほど簡単に許されて、実は拍子抜けな気分だった。
「空気を殺伐とさせてしまったな……」
祖父が、申し訳なさそうに言う。
「あ、いや…。まぁ、それは仕方がないかと……」
祖父の言葉に父が慌てて頭を振った。
「景吾が…結婚…。相手は……シングルマザー……、子持ちの女性……」
その隣で母が、ぶつぶつと呟いている。
……母は反対するか……?
そう思って身構えたのだが……違った。
「3歳の女の子……。女の子……。景吾がその人と結婚したら…、その子は……」
母はそう言うと、俺のほうに視線を向ける。
「初孫になるってことよね!」
眼を輝かせて言う母を見て、俺は思わず後退った。
「だって、そうでしょ?景吾がその人と結婚したら、その娘さんは私たちの孫になるのよね?! ね?! お父様からしたらひ孫だわ!」
母が身を乗り出さんばかりに捲くし立ててくる。
「あ…、はぁ……、そうですね……」
その勢いにのまれて、まともに返答が返せねぇ……。
「こら、落ち着きなさい。はしたない……」
父が母を窘める様に…宥める様に言う。
「これが落ち着いていられますか! だって、この跡部家に女の子が入ってくるんですよ!3歳の女の子! この、男むさい跡部家に女の子が!!!!」
男むさいってなんだよ………。
おそらく、父も祖父も同じ事を考えただろう。
「跡部家に嫁いで、産まれてきたのは景吾だけ…。親戚の中にも、女の子を産んだ家はなくて……。ええ、どんなに女の子が欲しかった事か……」
拳を握り締めて言う母。
跡部家は所謂男系家族というもので、女が生まれてきた事がない。
女の子供を欲しがる母は、いつも女の子が欲しいだの、俺を見ては貴方が女の子だったら良かったのに…だのと言っていたな。
そういえば昔、母は俺に女装をさせようとした事があったという話を聞いたことがある…。
俺がくらいの歳だったと思うが……。
メイドが慌ててやめさせたって話だった………。
「友達が女の子を授かったとか、女の孫が生まれたとか聞くたびに、どんなに羨ましかったか……」
母の、演説は更に続く。
「ああ、そんな思いも今日限りね!! 孫よ、初孫よぉ!女の子よぉぉ!! 日ごろの行いの良かった私への、神様からのプレゼントなんだわ!!!」
もう、陶酔状態の母。
………頼むから戻ってきてくれ……。
これも、この場に居る男一同が思った事に違いない。
「そうだわ、景吾!」
不意に、母が陶酔から帰ってきたのか俺に声を掛けてくる。
「はい、なんですか?」と俺は言葉を返す。
「その、お嬢さんたちのお名前は?」
ああ、そういえば言ってないな…。
「さんとちゃんだ」
「さんとちゃん?って……なんでお父様がご存知なんです?」
母が小首をかしげた。
そう、との名を教えたのが、祖父だったからだ。
俺も、驚いて祖父を見やる。
祖父はフッと笑って懐からなにやら数枚の紙切れを取り出し、コーヒーテーブルの上に並べてみせる。
「……げ………」
俺は思わず言葉を漏らした。
「あらあら、これは……」
母がその写真を手にとってマジマジと見つめる。
父も、写真に視線が釘付けだ。
「いやぁ〜ん、この子がちゃんなの?!可愛い〜〜!!」と母が悲鳴を上げた。
つか………なんで、こんな写真を爺さんが持ってんだよ!
それは、を抱いてと並んで歩く俺の姿が映った写真。
色々なアングルで、しかも隠し撮りときてやがる!
「先日の日曜だったかね……。いそいそと出かける景吾の後を部下につけさせたんだ。それで、その時に撮った写真がそれだった…と言う訳なのだよ」
何が、と言う訳なのだよ……だ!
だいたい、何でそんな事部下にさせてんだ、爺さんよぉ!
「とある筋から、景吾に本命らしき女性が現れたと聞いてなぁ…。遊園地のVIPチケットだの、チャイルドシートだのをいそいそと用意していたそうじゃないか…」
にやにやと笑いながら祖父が俺を見やって言う。
つまり、祖父は俺に本命が居るらしいという事を知っていた…という事になる。
「……お爺様……、お聞きしますが……。先ほどの縁談の話は………?」
じっとりとした視線を向けて、俺は祖父に問う。
「ああ、縁談が来た事は確かだがな。進める気なぞ更々なかった」
しれっと祖父がそう言ってのける。
この爺さん……殴りてぇ!
「彼女との事が本気ならば、こういう話をすればすぐに口に出すと思ってなぁ……」
相変わらずにやにやといやらしい笑みのままの祖父。
クソ…謀られた!
狸爺め!!
今までのイメージが総崩れじゃねぇか!
爺さんに憧れすら抱いていた俺だったというのに……。
ちくしょー、俺様の憧れを返せ!!!
クソ爺!!!
つまり、初めから…祖父は俺がと付き合うことも、結婚を望んでいることも反対する気はなかった…。
ただ、俺の気持ちが本物であるのか確かめたかっただけだと…そう言うことか?
まったく、だったらあんな話題なんか持ち出さなくても良かっただろうが!
ストレートに聞いて来いよな、ストレートに!
小細工好きな爺め!
てぇ、小細工好きなのは俺も一緒だけどよ……。
もしかして、そういう所は爺さんに似ちまったのか、俺は……。
冗談じゃねぇ、俺はあんないやらしい爺にはならねぇぞ!
俺は心に固く誓った。
……しかし…この、小細工好きな狸爺はもっともっと大きな小細工を仕掛けていた。
―――大きな小細工とは言い方がおかしいかもしれないがそうとしか言いようがない―――
これは後日知る事になるのだが……。
まぁ、結果的に感謝をする事にはなるけどよ……。
食えない爺さんである事を、今更ながらに痛感した出来事となる。
「ああ、例のパーティであの男が女性を紹介するのは決まったことらしいからな、しっかり断っておくようにな。なんなら、さんをそのパーティーに出席させてもいいぞ。そのほうが、かえって効果的かも知れんな……」
祖父にそんな提案をされ、それもいいなと思った。
「景吾、この子と早く会いたいわ!明日にでも会えないかしら?」
そんな会話を、に眼の眩んだ母が混ぜっ返す。
…何処までマイペースなんだこの人は……。
いや、俺もマイペースだが…この人ほどじゃないと思うぞ。
「流石にいきなりは無理ですよ。向こうにも向こうの都合と言うものがありますし…。近い内にご紹介しますから、もう暫くは我慢していてください」
…子供を相手にしている気分になるぞ……。
「ああ、ちゃん〜、会いたいわぁ〜〜。あさってにはロンドン行きだし…今月中は帰ってこれないし……」
拗ねてしまった母。
「まぁ、永遠に会えない訳じゃないんだ。少しの間の我慢じゃないか…。我侭を言ってちゃんを困らせてはいけないよ?」
父が、母を宥めるように言う。
正直、こういう時の母の扱いは、父のほうが手馴れている。
「はぁ…、仕方ないわねぇ。この写真、特大に引き伸ばしてロンドンの別荘に飾っとこうっと……」
「え、ちょっと、母さん…?」
ため息混じりにとんでもない事を言い出した母に、俺は思わず突っ込みを入れようとした。
だが、それを父に制される。
「好きなようにやらせておかないと、確実に住所調べ上げて彼女の家に押しかけてしまうよ。ロンドンでの仕事もすっぽかしてね…。ここは、黙っておいてくれ、景吾」
………この母の勢いなら、確実にやりそうだな。
俺は、止めてくれと言いたい気持ちを押し込めて、小さくため息をついた。
あ…、そういや、親父はうんともすんとも言ってこねぇな……。
まぁ、お袋がこの状態で、反対しようもんなら離婚問題に発展決定だしな……。
なんだかんだで、父は母にゾッコンで…。
そのクセ、浮気はしたけどな。
…浮気をしたあたりから、父と母の力関係が変わったような気もしなくはないが……。
とりあえず、親父も反対する意思はないとみていいな。
久しぶりに集まった家族での談話は、そんなこんなで幕を閉じた。
さて、今度のパーティにを誘い出さなければな……。
……の事もあるし、そう簡単に誘い出せるとは思わないが………。
下手な理由では、渋られてしまうだろうし……。
いや、待てよ………。
以前の遊園地の件で、は自分に出来る事なら何でも礼をすると言ってたな。
それを利用するか?
偽りの婚約者を演じるように…そう理由付けて誘い出せるかもしれねぇ。
の事も、どうにか都合つけてくる筈だ。
……どうにもならなかったら、ベビーシッターでも派遣してやろう。
よし…、やってみるか。
そして俺は、と連絡を取った。
最初はメールでやり取りしようかと思ったが、なんとなく面倒になって電話で直接 話をする事にする。
は、俺のかけた電話にすぐ反応した。
『はい、ですが……』
久しぶりに聞くの声。
今すぐ会いたくなっちまうな……。
『俺だ』と、そっけない言葉をついつい放ってしまったが……。
『あの、来週金曜の夜……何かあるんですか?』
が不思議そうに問うてくる。
『跡部財閥傘下企業の創立記念パーティーがある』
『はぁ……それがどうされたんですか?』
何でそんな話をするんだといわんばかりの。
『俺の婚約者としてそのパーティに出席してくれ』
『婚約者としてですか………』
その言葉の数秒後。
『婚約者ぁぁぁぁ???』
と、そんなどデカイ声が、俺の耳を通り過ぎる。
この天然女め…、天然が必ずやるようなリアクションきっちり返してきやがった。
まったく、何でこんなに天然なんだ?
一児の母親なんだ、もう少しはしっかりしろよな!
『婚約者っつっても、ふりだけだっての。勘違いすんなよバーカ』
俺は勤めて平常心で言葉をつむいだ。
本当は、本物にしちまいたいが…、今の時点じゃ無理だしよ……。
『どうして、婚約者のふりした人が必要なんです?』
気を取り直したが、問いかけてくる。
まぁ、当たり前だな。
『そのパーティに、何かにつけて俺に女を紹介したがる遠縁の小父が出席するんだよ。そういうの、うぜぇからな。婚約者がいるって、直々に紹介して釘刺しときてぇんだ』
この言葉に全く嘘はない。
『お話はわかりました…。でも……何で私にそんな役目を?』
質問しかしてこねぇな…の奴……。
しょうがねぇけど……。
『丁度よさそうな奴がお前しか思いつかなかったんだよ』
俺はそう言い放つ。
いずれ本物にするつもりだしな。
『で、出来るのか、出来ねぇのか、はっきりしろ』
俺はを問い詰めるように言う。
『スミマセン、今すぐはお答えできません。を預かってもらえるかどうか、あたってみますから暫く待っててください』
の答えはそんなものだった。
当然の反応だ。
『ああ』と俺は短く返事をすると、すぐに通話を切った。
程なくして、から電話が掛かってくる。
メールでなく電話を利用してくれたのが嬉しくて仕方がなかった。
『あの、景吾さん…ですか?…です』
恐る恐ると言った様子で言葉を紡ぐ。
俺は『ああ』とだけ返事をする。
『来週の金曜、大丈夫です。両親の家にを預かってもらえますから……』
どうやら、大丈夫そうだな。
『そうか……。ならその日、勤務が終わったら会社の地下駐車場で待ってろ』
俺がそう言うと、は『え…、でも準備とかは……』と戸惑ったように言葉を返してくる。
『必要なものはこちらで揃える』
お前のドレスも、アクセサリーも全て、俺様がコーディネートしてやるぜ。
『はぁ……。あ、でもせめて駅前にしませんか?会社の人に変な勘ぐりされたら……』
今度は待ち合わせ場所に文句をつけてくる。
『別に勘ぐられても、好都合なだけなんだがな……』
俺はぼそりと言った。
しかし、には聞えていなかったようで…、『??どうされました?よく聞えなかったんですけど……』と問うてくる。
『いや、なんでもねぇよ。駅前でいいんだな?』
俺はそう言葉を濁し、待ち合わせ場所の変更に素直に応じてやる。
『はい。でも、本当に用意とかは……』
相変わらず余計な心配ばかりしやがって……。
『いらねぇっつってんだろ。同じ事何度も言わすなっ』
俺がそう言うと、は慌てて『あ、はいっ!スミマセンっ!』と謝ってくる。
『それじゃ、来週金曜にな』
『はい!』
そんな会話で、俺はとの会話を終わらせた。
そして、時はあっという間に過ぎて、約束の金曜がやってくる。
を最高の淑女に仕立てるために、俺は最高のものを用意した。
最高のドレス、最高の髪飾り、最高のネックレスに最高のイヤリング。
そして、最高の婚約指輪。
準備の為に、ホテルのプラチナスイートを借り、そこにメイドたちを待機させている。
が到着するより先に、俺は約束の場所に到着した。
車の中から、を見つけるとすぐ、運転手にを迎えに行くよう指示。
運転手は車から降りてに声をかけ、車へと誘導してくる。
ドアが開く。
が、車に乗り込んでくる。
「よぉ」と俺が声を掛ければ、「あ、こんばんは…」とは言葉を返す。
「随分な荷物だな」
俺はの持っている大きな荷物が眼にかかり言う。
「あ、一応…ワンピースとか持ってきたんですけど……」
……全部俺が用意するって言ってんのにコイツは…。
「お前………」と俺はを睨めつける。
するとはびくりとして身を縮こませてしまう。
……怖がらせてもしょうがねぇか…。
「まぁ、いい……。行くぞ」
俺は小さくため息をついてそう言うと、車の運転手に車を出すよう指示をする。
ゆっくりと車が動き出した。
ああ、そうだ…。
「は、元気か?」
俺はの近況を問う。
「ええ、元気ですよ。最近、成長して少し重くなったみたい」
成長か……子供の成長ってのはあっという間だっていうしな……。
「そうか」と俺は言葉を返す。
「また、会いてぇな」
どんどん成長してゆくのだろうの姿が脳裏に浮かぶ。
「も、また会いたいと言ってます。お暇なときに会ってあげてくださいますか?」
がそう言葉をつむぐ。
暇があれば、会ってもいいのか?
だったら、いくらでも暇を作って会いに行くぜ?
俺は「ああ…」と言葉を返す。
自然と、頬に笑みが浮かんだ。
車が、準備の為に用意したホテルに到着した。
が戸惑ったような顔でホテルの建物を見上げている。
おそらく、ここがパーティー会場だとでも勘違いしてんだろ。
会場は船の上だ。
今回のパーティは船上パーティだからな。
「ここでお前の用意すんだよ。会場は別だ」
俺がそう言うと、何故自分の気持ちが解ったのかと言わんばかりにが俺を見上げる。
「前にも言ったろ、お前は考えてる事が顔に出るからわかり易いってな」
そう言うと、また見透かされたとでも思っているのであろう表情をする。
流石に、これ以上弄って遊んでやってる暇はねぇんだよなぁ…。
「まぁいい、時間もそんなにねぇし、行くぞ」
俺はそう言って、をホテルへと促した。
俺が用意した部屋の広さに、は驚いている。
無理もねぇ。
一般庶民がそうそう簡単に入れる場所じゃねぇからな。
俺は、部屋に待機させているメイドたちに、の用意を任せる。
はメイドたちに連れられて、部屋の奥へと消えて行った。
を待つ間に、俺も支度を済ませてしまうか……。
そうして俺は、が消えていった部屋とは違う部屋へと足を向けるのだった。
自分自身の支度を終えて、俺はの仕上がりを待つ。
暇だから、もって来ておいた本をソファーに座って読み耽った。
俺のスーツの左ポケットには、へ贈る為の婚約指輪が隠されてる。
今回は偽物という事になるが、いずれは本物になるものだ。
のために誂えた、特注品。
指のサイズ?
俺の目測に狂いはねぇ。
の3サイズだって当てられるぜ?
事実、のドレスも俺の目測で誂えたしな。
「様の準備が整いましてございます」
そんな聞きなれたメイドの声が聞えて、俺は呼んでいた本を閉じ、目の前にあったコーヒーテーブルに投げると、ソファーから立ち上がる。
そして、に視線を向けた。
やはり、には薄桃色がよく似合う。
下手な装飾を入れず、布地の素材とドレスのデザインだけで上品さを演出した。
首もとにはダイヤを使ったプラチナのネックレス。
耳もやはりダイヤを使ったイヤリングで飾りつけた。
ドレスの形状としては、胸元は広く開き、肩が露出した、ビスチェタイプで、人魚の半身を模したマーメイドラインのスカート。
露出した肩は、半透明なストールで覆われている。
のスタイルだからこそ、似合うデザインだろうな。
子供を一人産んでいるにもかかわらず、のスタイルは随分と整っている。
しかし…一つだけ誤算。
の胸は目測よりも大きかった。
まぁ、そのくらい良いか。
俺は満足を感じ、頬に笑みを浮かべた。
「こっちへ来い、」
俺はそう言いながら右の手を差し出した。
何で右手なのかって?
向き合った相手が、右手を差し出したとき、つい手が出てしまうのは左手だろ。
握手の場合は、お互い同じ手じゃねぇと無理だが…。
手を繋ぐという意味合いで差し出した手は、右の手を差し出されたら左の手を、左の手を差し出されたら右の手を出すものだ。
俺が差し出した手が、握手の為のものではないのは、どんなに天然なでも、解らないわけねぇだろ?
思ったとおり、は俺のもとへと近づいてくると、俺の差し出した右の掌に、自分の左の掌を重ねる。
左手の薬指には、婚約の証たるリングを。
俺はポケットに仕舞っていたそれを取り出す。
が、それに驚いて、左の手を引こうとするが、一瞬早くそれを右手で握り締めて引き止める。
「お前は俺の婚約者としてパーティに出席するんだ。婚約指輪ぐらいはめてねぇと不自然だろうが」
俺がそう言うと、は納得したようで。
婚約指輪を、の左手の薬指へ。
「これで、お前は俺の婚約者だ」
そう言って、俺はその手の甲に口付けを落とす。
きっと、にとってこの言葉は偽りのものに聞えるかもしれない。
でも、本気なんだぜ、俺は。
この指輪だって偽りから真実に変わる。
「では、今夜一晩だけ…私は貴方の婚約者です」
はにっこりと笑って言った。
仕方がないことだとはいえ、俺の胸の奥がきしんだのはどうしようもない。
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