どうしよう、どうして気付かなかったんだろう。
私、馬鹿だ……。

 

あの、(バカ)社長に指定された時間、指定された場所に、私は今立っている。
娘のを抱きかかえて。
少し前まで普通だったはずのは、今では何故か私にべったりと抱きついていた。
何か、気に入らないことでもあったのかしら?
「どうしたの?」って聞いても何も言わずにしがみついたまま。
本当にどうしたのかしら?
そんな風に軽く考えてた。
それが、間違いだと気付かずに……。

時間が過ぎる。
約束の時間は夜8時だった筈だ。
なのに、もう今は夜9時。
一時間も来ないなんて……。
自分で指定したくせに!
私のイライラは募った。
そんな時だった。
「よぉ、待たせたな」と悪びれた様子の無い男の声。
私はすぐにその声の主に向き直る。
「携帯、返してください」
そう言って私は彼を…社長を睨みつける。
携帯を出汁に人を呼び出しておいて、遅刻ですか?
「ガキはつれてくんなっつったろーが」
私の不満なんて何処吹く風。
私が抱いているを見て、彼は不貞腐れたようにいう。
「携帯がなかったので、誰にも連絡が取れなかったんです。仕方ないでしょう?」
丁寧な言葉とは裏腹に、声は不機嫌がにじみ出ている。
もう、いい加減にして欲しかった。
社長は、チィと舌打ちすると、踵を返して私の前から去ってゆく。
「ちょっ、携帯を……」
そんな私の言葉に、彼は一瞬だけ足を止め、肩越しに振り返って言う。
「また今度な」と……。

もう、もう、もう!
いい加減にしてよ!

そう言葉をつむごうと口を開いた時だった。
なんだか、違和感を感じた。
様子が…おかしい。
私にしがみついている、の様子が……。
注意してみれば、かたかたと体を震わせている。
……?」
私はおそるおそる、の名を呼んだ。
何も返答が無い。
ぴくりとも動いてくれない。
?!」
おかしい…、おかしい!
私はの頬に手を当てた。
熱いっ!
なんて事……。
額に手を当てなおしてみる。
ものすごく熱い。
触っただけで高熱だって解る。
病院に連れて行かなきゃ!
私は目の前に社長が居たことも忘れて、その場から走り出した。
タクシーを呼んで、病院に!
それだけが私の頭の中を支配していた。
そんな私の肩を掴んで引き止める誰かが居た。
……社長だ……。
どうして、こんな時に引き止めるの?!
「放して!」
私は肩を揺すってその手を振り払おうとした。
でも、逆に彼の手は力を増して、振り払えない。
「ついて来い!」
社長は強くそう言うと、私の肩を抱いて自分の向かう先へと促す。
その力が強すぎて、私はそれに従うしかなかった。

社長に連れられてやって来たのはとある路上駐車場。
大きな…ベンツよね、そんな高級車が留められていた。
運転席から、男の人が降りてきて、その後部座席のドアを開く。
「乗れ」
そう言いながら社長は、無理やり私を車に押し込め、自分も車に乗る。
「小児科のある病院に向かえ」
運転手さんに社長がそう指示する。
運転手さんは戸惑ったようだが「はい」と返事を返して車を動かし始めた。

動く車の中。
私は持ってきたバッグの中を探る。
腕にを抱いたまま。
確か、何かあった時用のために、解熱シートを入れていた筈だ。
それをに額に張ってあげなきゃ…。
気休めだけど、無いよりはいい。
解熱シート…あった!
未開封のそれ。
すると、私の手から解熱シートの入った袋を社長が取り上げる。
社長は、手早くそれを開封し、中に入っていた解熱シートを取り出し、フィルムを剥がしての額に貼り付けてくれた。
社長がやってくれたのは、それだけじゃなかった。
着ていたスーツのジャケットを脱ぐと、の体に掛けてくれる。
が、震えていたのがわかったからなんだろう。
間抜けな私は、今日に限ってカーディガン一つ持ってきてなかった。
だから、そうしてもらえた事がとても助かった。

そして、車は病院に到着した。
そこは、夜間診療も受け付けている小児科病院だった。
「座ってろ」と社長は私にそう促す。
「あの…保険証を……」
私はバッグの中からそれを取り出し、社長に渡した。
社長はそれを受け取ると、受付へと向かう。
私は待合室のソファーに、 を抱いたまま座る。
すぐに社長が、問診表と体温計を持って私の隣に腰を下ろした。
社長から渡された体温計で、の体温を測る。
「症状は?熱だけか?……咳は…なかったのか?」
問診表まで書いてくれるらしい。
そんな事を聞いてくる。
「今のところは、熱だけです…」
社長が問診表にペンを滑らせて行く。
そこには、の名前だけじゃなくて住所も書かなきゃいけなかっただろうし、年齢も、誕生日も書かなきゃいけなかった筈。
なのに社長はそこには全く触れないで、問診表を書いている。
ちらりと盗み見すれば、綺麗な字で、の名前、生年月日もきっちりと書き込まれていて、家の住所、電話番号まで正しいものがかかれてた。
唯一、 の身長や体重だけは解らなかったようで、聞いてきたけど。
………なんで、そんな事を知っていたのか、突っ込もうと思えば突っ込めた筈だけど、なんとなく、今は何も言わないで居る事にした。

の診察結果は、風邪だった。
季節の変わり目で、気温の変化が激しいから、そのせいじゃないかという事だった。
特に、子供は急に容態が変わりやすい。
軽い風邪でも一変して高熱に変わる事だってある。
そんな事、知らなかった訳でもなかったのに。
ちゃんと、見ていたら気付いていた筈なのに……。
社長との事で頭に血が上っていたとは言え…、酷く罪悪感を感じる。
ダメな母親でごめんね。
病院の処置室のベッドの上で点滴を受けながら、まだ、苦しそうにしている
「ごめんね…」
私は、の頭を撫でながら呟いた。

処置を終え、ベッドに眠るを抱き上げて、ふと思う。
社長……、帰ったかな?
あ、社長のスーツのジャケット…借りたままだ……。
、震えは納まってるけど、まだ着せといてもいいかな…。
もうとっくに皺になってるし、クリーニングして返そう…。
そして、私は娘を抱いて処置室から出る。
会計のある待合室へと向かうと、そこには……社長が……。
待合室のソファーに腰掛けて、足と腕を組んでそこに居た。
私の気配に気付いた社長は、ソファーから立ち上がり近づいてくる。
「もう……いいのか?」
社長がそう問う。
「あ、はい。風邪だそうです…。点滴に解熱剤も入れてもらいましたから、暫くすれば熱も下がると思います」
私の答えを聞くと社長は、「そうか、良かったな」とほっとした表情をした。
……心配して、くれたのかな?
さん」
不意に会計のカウンター向こうから、事務の人に声を掛けられた。
あ、会計しなきゃ…。
を抱えた状態で、肩に下げたバッグから財布を出そうと探る。
そんな私の横で、社長は何故か自分の財布をズボンのポケットから取り出し、何も言わず会計で支払いをしてくれて、その時、の薬も貰ったらしくて、その袋を「バッグの中に入れとくぞ」とそう言いながらバッグの中にしまってまでくれた。

そして、私はまた社長に促されて、さっき乗せられたのと同じ車に再び乗る事になった。

社長の車に乗せられて、私は家に帰り着く。
と二人で住まう小さなアパート。
その入り口近くの道路に似つかわしくない高級車。
今の時間は夜遅くだから、人が居ない。
だから、それに驚く人なんて居ないけれど。
社長は、私達の部屋の玄関先まで付いてきた。―――部屋は二階の突き当たり―――
その理由は、すぐに解った。
「鍵は、バッグの中か?」と社長に問われて私は頷く。
社長は、バッグを探って鍵を取り出し、玄関を開けてくれた。
きっと、私がを抱いたままだと開け辛いと思ったんだと思う。
そんな小さな気遣いをしてくれる人なんだ。
数時間前まで、嫌いだった人が、今ではそれほど嫌いではなくなってきてる。
「あの…、ホントによかったんですか?病院の……」
治療代も薬代も、社長が払ってくれた。
車の中でも、返そうとしたけど、いらないって突っ撥ねられたし。
「気にするな」
社長はそう言って私の言葉を遮った。
………気になるよ……。
でも、きっと頑として受け取ってくれないんだろうね……。
あ、そうだ…スーツのジャケット……。
「あの、このジャケット…」
クリーニングして返しますね、って言う筈だったのに。
「捨てていい。もう着ないモンだ」
また、社長は私の言葉をそう言って遮った。
……借りといて言うのもなんですが……これってシルクの上物ジャケットですよ?
私は思わず困った顔になる。
「気にするな……。それと…今日は…悪かったな…」
困った顔をした私にそう言う社長。
社長の顔は本当に申し訳なさそうだった。
もしかしたら社長は、自分のせいでが熱を出したんじゃないかってそう思ってるのかな?
違うのに。
私がの体調の変化に気付いてなかったから、こうなったのに。
社長のせいじゃないですよ、と言おうと口を開く前に、社長が先に口を開いた。
「お大事に」
そう言って、社長は玄関先から去ってゆく。
「あの、社長…」
私は社長を呼び止める。
でも、社長は聞えない振りをして、そのまま階段を下りていってしまった。

私はを抱いたまま、少しの間だけ立ち尽くしていた。

我に帰った私は、部屋へと入り、を寝かせる事にした。
を寝室の布団に寝かせていたとき、社長のスーツのジャケット、その内ポケットに私の携帯が入っていたのに気付く。
私の携帯は、ずっとこの内ポケットの中に入っていたのか……。
そんな事を考えながら、携帯と社長のスーツのジャケットを眺めて……。
眺めててもしょうがないな、なんてふと思って…。
社長のスーツのジャケットは、ハンガーに掛けた。

思考を切り替えて、の看病に専念する。
社長の事は、後で考えよう。
の看病をしながら、今日の一日が終わった。

 

次の日、の容態は殆ど回復していた。
でも、大事をとって一日だけ保育園を休ませる事に。
もちろん、仕事も今日は休みをとった。
はというと…。
昨日あれほどぐったりして苦しそうだったのに、今では元気いっぱいだ。
布団で寝るように言っても、嫌がっておもちゃで遊んでる。
まぁ、コレだけ元気なら明日は保育園に行かせられるわね。

気掛かりなのは、社長の事。
スーツのジャケットは借りっぱなしだし、の病院費用も借りっぱなしだし……。
どうにか連絡取れないかな…なんて思いながら、携帯を触っていたら……。
見慣れない名前が、携帯の電話帳メモリに増えてる事に気付いた。
『跡部景吾』
………社長………?
彼本人が登録したものに間違いなくて。
疑問符が増えてゆく。
彼は一体何がしたいの?

ねぇ……、解らないよ。
貴方は一体何がしたかったの?

 

 

 

その理由を知るのは、ずっとずっと………後の事。






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