その日の朝食の時間は、恐ろしいほど穏やかに過ぎてゆく。
その日とは、が筋トレルームで跡部を見つけた日の事だ。
あまりに様子が変わりすぎた二人の雰囲気。
それを見た沢木は、今朝方一体何があったのだろうかと、ひたすら小首を傾げていた。
朝、を起そうと彼女の居る筈の部屋に行けば、もう彼女は目を覚ましてリビングルームに居て。
沢木とにこやかに朝の挨拶を交わしだのだけれど、ふと気付いたのは彼女の目元の微かな腫れ。
泣いた後なのだろうか、しかし彼女は何も言おうとしていないので、首を突っ込むのはやめておいた。
そして、朝食の時間なのでとダイニングへとと共に向かうことになったのだが……。
何故だろうか、今までにはないほどの穏やかな雰囲気。
「おい、」
食事の途中、不意に跡部がを呼べば、「何?」と彼女はそっけない返事。
「今日、社交ダンスのテストがあるんだってな。ちゃんとやれんのかよ?」
跡部のそんな台詞に、いつものなら「やれんじゃない?」とか、「あんたには関係ないでしょ」と反抗的な言葉を返すのだが……。
何故だか今日は違った。
「先生には、上達してるから大丈夫よって言われた。自分でも、そこそこは…とは思うけど……」
反抗的ではない、まともな返答を返す。
「そうか……、緊張しすぎてヘマはすんなよ」という、跡部の言葉にも……。
「気をつける」と、はそう返事をする。
朝食の時、ダイニングには清音、沢木の他にも数人の使用人が居るのだが、皆が一様に固まってしまった。
その後 暫く、使用人控え室では、あの二人に一体 何があったのかと、ひそひそ噂する使用人たちの姿が見られたという。
朝食を終え、跡部は出勤の身支度を整える為に自室へ戻る。
も、自室へと戻る事に。
自室に戻ったは、ふと気が付いたように、一緒についてきた沢木に問う。
「……出勤する時間って…何時なんでしょうか?」
主語を抜かして問われた為に、沢木は一瞬だけ小首を傾げる。
しかし、すぐにその主語に跡部の名が付く事に気付き、彼がいつも出勤する時間をに伝えるのだった。
は、「ありがとうございます」と沢木に軽く会釈をすると、ちらりと時計に目線をやる。
どうやら、彼女は跡部の見送りをするつもりにようだ。
本当に、一体何があったのだろうかと、沢木は首をひねらずにはいられない。
そういえば、朝食の前、洗濯をして欲しいと手渡されたタオルは、彼女の様の物ではなかった。
誰の物なのかと、問わなかったが、洗濯係の使用人にタオルを見せたらば、跡部の物である事が判明した。
一体何があったのか、根掘り葉掘り聞くべきなのか……。
恋愛感情は持って欲しくないが、プライベートな部分にはあまり触れてはいけない気もする。
沢木は悩んだが、一応釘だけは刺す事にした。
「お嬢様、彼に恋愛感情を持つようなことは…ありませんね?」
沢木にそう言われたは「そんなの、ありえないです」と即答。
その言葉に、幾らか安心した。
暫く後、は時計を見やると、すぐ、自室から出る。
跡部の出勤時間に気付いたからのようだ。
沢木もその後についてゆく事にした。
玄関口に着くと、丁度跡部が家を出るところだった。
使用人達総出で、彼の見送り。
その様子を見て、は驚いたようだったが、気を取り直して出かけようとしていた跡部に声をかける。
「…あの……えっと……」
跡部を見送ろうかと、そう思ってやってきただったが、土壇場で恥ずかしくなってきた。
彼を見送ろうと考えたのは、早朝の礼も兼ねて…だった。
ありがとうなんて言葉を言うのは、何か違う気がして……。
朝食の時も反抗的な態度を出来るだけ控えた。
そして、は意を決してその言葉を放つ。
「い…い…、いってらっしゃい!」
はそう言って頭をペコリと下げた。
すると、それを見た跡部は少しだけあっけにとられたが、すぐに気を取り直してのもとへと近づいてくる。
下げていた頭を上げたばかりの。
その頭に右手を乗せて、優しく撫でる。
「行って来る」
跡部はそう言うとにこりと微笑む。
それを見た時、の心臓の音が大きく鳴った。
そして跡部は会社へと、出勤するのだった。
移動手段の車の中。
跡部は頬が緩んで仕方がなかった。
今まで、見送り一つしなかった彼女が見送りをしてくれた事が、とても嬉しかったのだ。
恥ずかしそうに、いってらっしゃいと言う彼女はとても可愛らしかった。
今日だけの、見送りかもしれないのだけれど。
それでも、彼女の行動は跡部を喜ばせるのに十分だった。
跡部が家を出た後すぐ、は自室へと戻った。
頭には、まだ彼の掌の感触が残っている。
大きくて、優しい掌で……。
パパの掌みたいだったな……。
は彼の手の感触を反芻しながらそう思う。
今はもう、触れてもらえない。
幼い頃に亡くなった父親を思い出す。
優しい人だった。
大きな掌で、をよく撫でてくれた父。
妹、の面倒を見れば、褒めてくれた。
時々、厳しく叱られることもあるけれど、それはが間違った事をした時だけ。
意味もなく、怒る人ではなかった。
は父親が大好きだった。
もちろん、母親やも大好きだけれど。
誰が一番か?と問われてしまうと、決められないほどだけれど。
最近はいろいろとあって、父の事を思い出す事はなかった。
けれど、跡部に早朝の時のようにタオル越しで乱暴にではなく、優しくそっと頭を撫でられた時、父の事を思い出して、本当は泣きそうになった。
「お嬢様、どうかされましたか?」
一緒に同じ部屋に居る沢木が、物思いに耽っているを怪訝に思い、そう言葉をかける。
突然声を掛けられて、は一瞬どきりとしたが、すぐに気を取り直して言葉を紡ぐ。
「あの、今日のテストの事を考えてて……」
慌ててそんな言い訳をする。
沢木も、深く追求するつもりはないようで、「そうですか…」とだけ答えた。
それから暫くして、はダンスルームへと向かうことに。
結局、練習らしい練習を朝からしていなかったので、今からすこしでも…と思ったのだ。
そして、時間は過ぎて、社交ダンスのテストも、どうにか及第点をもらえて、今日はいつもより早く練習は終わった。
時間は午後3時を回ったところだ。
久しぶりに、に逢いたいなとは思った。
いや、ずっと思っていたことだったのだが、今日までの日々が忙しく進んでいたせいで会えなかったのだ。
自室に戻り、社交ダンスでかいた汗をシャワーで流した後。
「ねぇ、沢木さん」と、は沢木に声をかける。
「どうかされましたか?」と、沢木はにこやかに言葉を返す。
「出かけてもいいですか?お見舞い、行きたいんです」
妹の…と言わなかったのは、その言葉を言う訳にはいかなかったから。
すぐに気が付き、沢木は「かまいません。家のものには入院中の友人に会いに行くと、説明しておきます」と言葉を返す。
「ありがとうございます」と、は沢木に頭を下げると、支度を整えようとベッドルーム奥の衣装ルームへと向かうのだった。
そして、支度を整えてすぐ、は跡部邸を出てゆく。
大勢の使用人に見送られて…。
は見送りは必要ないと断ったのだが、そうはいかないと言われてしまい、そうなってしまった。
車も用意されたが、その運転手は沢木だったので、乗せてもらう事にする。
の入院する病院へは、途中車を降りて電車に乗り、向かう予定だ。
高級車で病院に乗り付ければ、変な噂が立つだろうし…と、考えたので一旦車を降りて電車を使うことにしたのだ。
沢木の運転した車が動き出す。
跡部邸があっという間に遠くなっていった。
「あ、お姉ちゃん」
久しぶりのは、随分と調子がよさそう。
「調子、よさそうね」
の病室へと入りながら、はにこりと笑ってに言葉をかけた。
「うん」
嬉しそうなの声。
「ところで、今日はどうしたの?仕事がお休み?」
更には相応かに問いかける。
には、緊急で昼間に仕事が入ったと、そう説明はしているものの、替え玉をしているという事など、説明しては居ない。
妹にまで、にまで、嘘をついている事に、酷く心苦しさを感じるけれど、仕方がない。
の為に、大金が必要なのだから……。
「…うん、午後からね休みだったの。で、最近忙しくてにあってないでしょ?会いたくなって……」
がそう言うと、は納得したようで「そっか…」といって嬉しそうに笑った。
きっと、もに合えずに寂しい思いをしていたのだろう。
その、嬉しそうな顔が、が今まで感じていた寂しさを物語っているような気がする。
「、なにかやりたい事ある?お散歩する?」
少しでも、の気分を軽くしようと、はそんな提案してみた。
「髪の毛、洗って欲しいな。お姉ちゃん、髪の毛洗うの上手だからさ」
するとは、そんな風におねだり。
「解った。シャワールームの洗髪台、空いてるか見てくるね」
そういうと、はの病室から出てゆくのだった。
シャワールームにある洗髪台は運良く空いていて。
看護士に使ってもよいか確認すれば、すぐに了承を得られた。
すぐにの病室へ戻り、彼女と共にシャワールームへ。
そして、洗髪台での髪を洗ってやる事にした。
彼女の髪を洗いながら、は気づいた。
髪の毛を洗うと、少しだけ髪の毛が抜けて手に付着することがあるのだが……。
いま、の掌には尋常でないほどの髪の毛が付着している。
そして何より、以前より彼女の髪の毛の量が減っていたのだ。
ぱっと見ただけでは気付かなかった。
けれど、こうして髪の毛を触っていて気付いた。
「……副作用なんだって。暫くしたら、全部抜けちゃうって、先生言ってた」
の様子の変化に感づいたのだろう、がそんな事を言う。
それは、もの主治医から聞いていた事。
彼女に投与されている抗がん剤の副作用の一つ。
は、にどんな言葉をかけてやれば良いのか解らなかった。
まだまだ思春期真っ只中の女の子なのに。
髪の毛が抜けてしまうなんて……。
「ねぇ、可愛いニット帽があったら買ってきてくれないかなぁ?」
もう、にはその覚悟が出来ているのだろうか。
そんなお願いをする。
「うん……。早めに買ってもって来るね」
の視界が霞んでいる。
声も震えてしまって……。
情けないけれど、泣いてしまいそうになった。
は慌てて両目を拭い、の髪の毛を洗う事を再開する。
「ごめんね…」と、が小さく言ったような気がした。
それから、
の洗髪を終えたは、名残惜しかったがと別れて彼女の病室を出る。
そして、はの主治医に会いに行く。
の病状を聞く為だ。
「申し訳ないけれど、今はまだなんともいえない状況でね…。もう少し、今の抗がん剤を投与して様子を見ない事にはわからないんだ」
の主治医からの返答は、そんな物だった。
数年はかかる、白血病の治療。
更に、の持つがん細胞は悪性のもの。
治らないわけではないが、完治率は随分と低い。
更に、なかなか減らないがん細胞。
主治医が手を抜いているとは思いたくない、思えない。
だからこそ余計に、不安が募る。
の病気がこのまま治らなかったら…と……。
「これからも、ちゃんの治療に全力を尽くすから、不安にならないで」と、の主治医が言う。
「それとね、医療費の事なんだけど…」
更に言葉を紡ぐ主治医。
は心で身構えてその言葉の先を待つ。
何を言われるのだろうか…。
とても不安なのだが…。
「ああ、違うよ。催促じゃないんだ。払える時に、ゆっくりと支払ってくれれば良いって。院長と色々話をして、そう結論がついたから、だから、無理して働き過ぎないように、気をつけてね。
ちゃんまで病気になったら、本末転倒なんだからね」
主治医の口からそんな優しい言葉が出てきて、
はほっとした。
本当なら、今までの滞納分は支払えるはずだったのだが……。
の替え玉になる仕事を引き受けた時の条件。
前金の150万。
しかし、それは手に入らなかった。
随分とせこい、夫妻の策略によって……。
「前金分の150万は、仕事が終わってから支払うことにした」
としての振る舞いを勉強する為に、家に来たときの事。
の父親、修一が突然そんな事を言い出した。
「話が違います!」と、もちろんは反論。
しかし、修一は全く表情を変えない。
「金が入ったからと、仕事をろくにせずに逃げられても困るのでな」
そんな事を言う修一に、は食って掛かる。
「私、そんな事しませんっ!」
だが、修一は信用していないといわんばかりの視線をに向ける。
「安心しろ、失敗しても150万はちゃんと渡してやる」
にとっては、そんな修一の言葉の方が信用できない。
最初言った事を突然曲げるなんて……。
「信用が出来ません」
はきっぱりと言い放った。
しかし、修一はふ…と口をゆがめるだけ。
「ならば、金も腕の立つ医者もいらんという事になるが……いいのか?」
そう言われてしまったら、ぐうの音も出ない。
修一という男を、信用することは難しい。
けれど、信用しなければ大金も腕の良い医者も得られない。
そうなったらば、の選択肢はただ一つ。
修一を信用して仕事をするしかないのだ。
正直、悔しかったが仕方がない。
理不尽な関係だけれど、我慢するしかない。
妹の…の為だ。
これで、約束を違えたら、替え玉に使っていた事をばらして、目の前の男の信用を落としてやる。
そう考えて、は…修一に従う事を選んだ。
結局、そんなこんなで今現在、の資産は殆どない。
だから、医療費の支払いをゆっくりにしてもらえるのは嬉しい事で。
まぁ、もっと早くにそうしてくれれば…という不満はあるけれど……。
これから少なくとも3ヶ月は医療費が全く払えない状況になるので、とても好都合だった。
そして、は主治医との会話を終え、帰宅することに。
随分と長い時間を病院で過ごしたので、沢木を随分と待ちぼうけさせてしまったけれど、彼は全く気にしては居ない様子で。
「次にお見舞いに行かれる時は、もっとゆっくりとしていて良いですよ」とまで言ってくれた。
そんな言葉を聞くと、案外沢木は根の悪い人間ではない気がする。
そんな事を思いながら、は沢木の運転する車に乗って跡部邸へと戻るのだった。
<あとがき>
うーん……。
横道それるなぁ…。
書き直したい;;
どうしよう……。
一旦、全部書き終えて、書きなおすことにしたいですが……。
話が膨らみすぎて、まだまだ続きそう……。
後10Pは行く気がする……。
長いなぁ;
頑張って書きます。
白血病について。
小児性急性リンパ性白血病は、標準リスク群の80%以上、高リスク群の60%以上が治癒できるとの事。
悪性…と書いてしまったんですが、高リスク群としたほうが良かったのかな……?;
設定に無理がありすぎただろうか……うーん……;
詳しい人、突っ込みくださいっ!
ネットの上での知識では限界があります……orz |